遅れてきた祝福、群青のパティスリー
東日本地区予選の完全優勝、そして湊兄さんたちの帰国から数日。
星和学院テニス部がそれぞれの全国大会に向けて牙を研ぐ中、我が家はある穏やかな計画のために、少しだけ慌ただしい空前に包まれていた。
世界リーグ遠征中に十六歳になった湊兄さんの、遅れてきた誕生日祝い。
私にとっては、産まれた時からずっと一緒に育ってきた大切な兄さん。実の兄妹ではないという真実を知っているからこそ、私とお姉ちゃんの想いは一つだった。何があっても湊兄さんを最優先に考え、彼が星和の新しいエースとして戦う日々を、全力で守り抜く。それが私たち姉妹の、共通の絶対模範だった。
「うーん……みゆ、湊へのプレゼント、何がいいと思うかしら?」
クーラーのよく効いたショッピングモールの雑貨エリアで、お姉ちゃんが真剣な顔で棚を見つめていた。
いつも私と湊兄さんを一歩引いた場所から温かく支えてくれる、大好きな、自慢のお姉ちゃん。けれど、湊兄さんの交友関係を常にチェックし、不相応な存在を冷徹に社会から排除する『監視者』としての裏の顔があることも、私はちゃんと知っている。
「兄さんなら、実用的なものが一番喜ぶと思う。高等部での激しい練習や遠征を考えれば、高機能なスポーツウェアならいくらあっても困らないだろうし」
私はお姉ちゃんの隣に並び、穏やかに微笑みかけた。コートの上の冷徹な私とは違うけれど、真実を知るもの同士だからこそ見せられる、等身大の妹としての落ち着いた顔。
「そうよねぇ。でも、これだとお姉ちゃんからのプレゼントとしては、ちょっと色気がないっていうか、味気なくないかしら?」
お姉ちゃんはそう言って上品に苦笑しながら、実用的な革製のパスケースや、上質なブランドの黒いポシェットへと視線を移していく。
私からは、湊兄さんが愛用しているメーカーの新しい高機能アンダーウェア。お姉ちゃんは悩んだ末にポシェットを選び、「これなら湊の動き安さを残したまま運動もできるわね」と、美しく微笑んだ。
「よし, プレゼントは決まったわね。次はメインイベントよ」
モール内の大型スーパーに移動すると、お姉ちゃんは楽しそうに目を細めた。
「今回のケーキは、お店のじゃなくて、私とみゆで手作りしましょう。湊、世界リーグの間はきっと厳しい食事制限も課せられていたでしょうし、特製のチョコレートケーキで盛大に労ってあげなきゃね」
「手作りかぁ。いいね。お姉ちゃん、私も手伝うよ」
私はお姉ちゃんに歩調を合わせ、カートの隣を静かに歩いた。
計量や混ぜ合わせの工程は、テニスの面コントロールと同じように、寸分の狂いもない正確さが求められる。湊兄さんのためなら、私のこの指先はいくらでも完璧に動いてみせる。
カカオ分の高い上質なクーベルチュールチョコレート、新鮮な卵に生クリーム。
生地に少しだけ深みを加えるための無塩バターとココアパウダー。
「デコレーション用のイチゴも買っておきましょうか。チョコの茶色に赤が映えるし、湊も酸味がある方が喜ぶでしょう?」
「うん。兄さんは甘すぎるものより、少しビターで果物の酸味がある方が好きだからね」
カゴの中に、次々と厳選された材料が収まっていく。
明日、この材料を使って、お姉ちゃんと二人で最高のケーキを焼き上げる。世界で戦ってきた湊兄さんを驚かせるための準備は完璧に整った。
荷物で重くなった袋を二人で抱えながら、私とお姉ちゃんは、夕暮れ時の群青色に染まり始めた家路へと就いた。
翌日、我が家のキッチンはさながら、静謐でいて妥協の許されない職人の工房のようになっていた。
エプロンを締め、髪を後ろで一つにまとめたお姉ちゃんが、ボウルに入った生クリームの様子を厳しく見極める。その横で、私は湯煎にかけたクーベルチュールチョコレートの温度を、数度単位の狂いもないよう慎重に管理していた。
「みゆ、チョコレートの艶、完璧だわ。さすがね」
「うん。兄さんのためのケーキだから、一滴の気泡も残したくない。……お姉ちゃん、卵白のメレンゲの泡立てはこれくらいでいい?」
「ええ、角が優しくお辞儀するくらい。ちょうどいいわ」
お姉ちゃんは上品に微笑みながら、慣れた手つきで生地を型へと流し込んでいく。
実の兄ではないという真実を知っている私たち姉妹の連携に、一切の迷いや綻びはない。お姉ちゃんが湊兄さんの世界を裏で守る『監視者』なら、私はコートの上でその背を支える存在でありたい。湊兄さんを水瀬家の絶対のエースとして完成させるため、私たちはこの静かなキッチンで、ひとつの完璧な作品を作り上げていく。
オーブンから、カカオの深く甘い香りが漂い始める。
焼き上がったスポンジを冷まし、ビターなガナッシュときれいに洗浄したイチゴでデコレーションを施す。夕闇がリビングの窓を群青色に染め上げる頃、机の上には、美しく引き締まったチョコレートケーキが完成していた。
ガチャ、と静かに玄関の鍵が開く音がした。
「ただいま。……なんか、家の中が妙に甘い匂いがするんだが」
スポーツバッグを肩にかけ、リビングに入ってきたのは、主役である湊兄さんだった。
お姉ちゃんは「おかえりなさい、湊」と優しく出迎え、「ちょっと手を洗って着替えてきなさいな。主役がそんな汗まみれの格好じゃ困るわ」と、彼を一度部屋へと促した。その間に、お姉ちゃんは残りの準備のためにキッチンへと戻っていく。
リビングには、私と湊兄さんの二人だけが残された。
部屋着に着替えて戻ってきた湊兄さんは、ソファの背に寄りかかりながら、テーブルの上のケーキをじっと見つめた。それから、少しきつい、ぶっきらぼうな口調で私に視線を向ける。
「……これ、お前たちが作ったのか」
「うん。お姉ちゃんと一緒にね。兄さん、十六歳の誕生日、少し遅れちゃったけど、おめでとう」
私が真っ直ぐにその瞳を見つめて言うと、兄さんはふっと視線を逸らし、首の後ろを少し気恥たそうに掻いた。
「別に、誕生日なんてどうでもいい。……それより、お前の方だ。地区予選、完全優勝したんだってな」
きつい響きの中に、妹の戦況を、そして私の心のコンディションを明確に気遣うニュアンスが含まれていた。
「うん。男子も女子もバッチリだったよ、陽太が戻ってきたから、もう何の綻びもないわ」
兄さんは少しだけ真面目な顔になり、椅子の背にもたれかかった。
「星和の高等部、今回の地区予選決勝で敗退しただろ。だから、今年の夏は俺たちの全国大会(本戦)出場がなくなってしまった」
「……兄さん」
「だから、その代わりってわけじゃないが……今年の全国は、お前や陽太たちの試合、最初から最後まで特等席で見届けるつもりだ」
私が驚いて見つめると、湊兄さんは「相変わらず可愛げのない妹だ」と呆れたように鼻で笑った。けれど、その表情からは先ほどまでの硬さが消え、確かな身内への信頼と、妹たちの戦いを見守ろうとする兄としての優しさが滲み出ていた。
「俺がしっかり目を光らせておくから。みっともない試合はしないことだな、おまえの活躍を期待している」
「言われなくても、私たちは絶対に負けないわ」
私が毅然と言い返すと、湊兄さんは嬉しそうに口元を歪めた。
「ありがとな、みゆ。ケーキ、楽しみにしてる」
そう言った湊兄さんの声は、不器用ながらもどこまでも温かかった。
「二人とも、お待たせ。準備ができたわよ」
キッチンからお姉ちゃんの穏やかな声が響き、リビングのテーブルに手作りのチョコレートケーキが運ばれた。カカオの濃厚な香りと、瑞々しいイチゴの甘酸っぱい匂いが部屋いっぱいに広がる。
「お姉ちゃん、ありがとう。すごく美味しそう」
「ふふ、みゆが温度管理を完璧にやってくれたおかげよ。さあ、湊。改めて、十六歳の誕生日おめでとう」
お姉ちゃんが優しく微笑みながら、湊兄さんの前にケーキを置く。湊兄さんは少し照れくさそうに首を掻きながらも、「……おう、ありがとな」と短く応えてフォークを手にした。
家族三人だけの、静かで温かい誕生日会。
一口食べた湊兄さんは、「うん、美味い」と満足そうに口元を歪めた。その姿を愛おしそうに見つめるお姉ちゃんの瞳は、どこまでも深い慈愛に満ちている。実の血は繋がっていなくとも、私たちは間違いなく一つの家族だった。何があってもこの人を最優先に守り抜くという、私とお姉ちゃんの静かな誓いが、キャンドルの炎に照らされて揺れていた。
しかし、そんな穏やかな団欒の時間は、リビングの片隅に置かれた水瀬家の固定電話が、突然けたたましく鳴り響いたことで破られた。
お姉ちゃんが「あら、こんな時間に誰かしら」と席を立ち、受話器を取る。
「はい、水瀬でございますが……」と応対したお姉ちゃんは、相手の名前を聞いた瞬間、驚いたように小さく目を見開いた。その視線が、ゆっくりとケーキを食べる湊兄さんへと向けられる。
「……ええ、はい。確かに湊の姉ですが……。プロの、スカウト……ですか?」
お姉ちゃんの口から漏れ出たその言葉に、私と湊兄さんの手が同時に止まった。
電話の主は、海外の有名なプロテニスチームの関係者だった。世界リーグでの湊兄さんの冷徹な戦術眼、そして底知れない実力を高く評価し、彼を16歳という若さでプロの世界へ迎え入れたいという、あまりにも破格のスカウトだった。
それはまさに、水瀬湊というプレイヤーの人生を大きく変える、重大な分岐点となる報せだった。
お姉ちゃんから受話器を渡された湊兄さんは、真剣な面持ちで耳に当て、相手の話を静かに聞いていた。受話器を握る湊兄さんの横顔を、私とお姉ちゃんは息を呑んで見守る。プロへの切符。世界へ直結するその誘いは、普通のプレイヤーなら飛びつくような栄誉だ。
だが、しばらく沈黙を保っていた湊兄さんは、ふっと視線を落とすと、迷いのない、どこまでも毅然とした声でこう告げた。
「……せっかくのお話ですが、お断りさせていただきます」
驚く相手の気配が電波越しに伝わってくるようだった。湊兄さんは言葉を続ける。
「俺――私には、まだ日本でやり残したことがあるんです。星和学院高等部を率いて、日本の頂点に立つ――その目標をまだ達成していません。それを成し遂げるまでは、ここを動くつもりはありません」
きっぱりとした、けれど強い意志の宿った口調。
電話を終え、受話器を置いた湊兄さんは、ふぅと一つ大きなため息をついてから、再びソファに深く腰掛けた。
「兄さん、プロの誘い、断っちゃってよかったの……?」
私が思わず尋ねると、湊兄さんはいつもの少しきつい、けれど不敵な笑みを口元に浮かべて俺と言った。
「当たり前だろ。蓮と共に星和学院を日本頂点に連れていくって約束したんだ。あいつが帝都の進学を捨ててまで来てくれたのに目的を達成しないままなんてできるかよ。来年は必ず全国制覇する。それをうやむやにしたまま、世界になんて行けない」
誰よりもストイックで仲間思いな湊兄さんの本質。
お姉ちゃんはそんな湊兄さんを愛おしそうに見つめ、「ふふ、湊らしいわね。でも、それでこそ自慢の弟だわ」と、どこか冷徹で美しい微笑みを浮かべた。お姉ちゃんもまた、湊兄さんの下した選択を心から尊重し、彼が日本で戦い抜くための環境を全力で守る覚悟を決めたのだろう。
「さあ、話は終わりだ。ケーキが美味いんだから、邪魔させないでくれよ」
湊兄さんはそう言って、残りのチョコレートケーキを口に運んだ。
外はすっかり群青色の夜に包まれている。プロからの熱視線すらも撥ね退け、日本での不敗を誓う兄。その背中を見つめながら、私はこれから始まる全国大会への闘志を、さらに深く胸の奥で燃え上がらせるのだった。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
地区予選(県大会)の終了後、世界リーグから帰宅した後の水瀬家のひとときです。
この作品での全国亜大会は現実の世界と少し変わっている設定で、8月県大会〜地区大会、11月全国大会という流れにしています。
去年と同じ流れです。
一区切りついたところで地区大会に進みます。




