群青の凱歌、そして遙かなる戦地へ
東日本地区予選、決勝戦。
会場を吹き抜ける風はどこまでも熱く乾いていたが、星和学院の陣営を包む空気は、すでに仕上がった機械のように冷徹で、寸分の狂いもないものだった。
準決勝で右足を痛めた佐藤くんは、春花先輩と佐久間部長の判断により決勝のオーダーから外れた。しかし、そのアクシデントすらも、今の星和男子の結束を揺るがす要因にはならなかった。
男子決勝のコートは、初戦以上のワンサイドゲームとなった。
ダブルス2の岡田・和田ペアが、相手の息の根を止めるような高速ボレーで6ー0の完勝。続くダブルス1の1年生ペア、石川・森下も、準決勝までの硬さが嘘のようにのびのびとコートを駆け回り、6ー2で勝利をもぎ取る。
正式に勝利のバトンを託され、シングルス3に臨んだ田中くんは、まさに「難攻不落の壁」だった。
「よし、じゃあサクッと決めてきます!」
いつも通りの屈託のない笑顔でコートに入った田中くんは、その圧倒的なスタミナと俊足で、相手の得意なラリー展開をすべて無力化していった。どれだけ深いコースへ打ち込まれようとも、驚異的なフットワークで追いつき、何事もなかったかのように正確な返球を繰り返す。
走らされているのは相手のはずなのに、気づけば精神的に追い詰められているのも相手だった。
「ゲームアンドマッチ、星和学院・田中! 6ー1!」
田中くんの勝利が決まった瞬間、男子部の地区予選優勝が確定した。
さらに、シングルス2の佐久間部長も、一切の手加減なしに6ー0で相手を完璧に制圧。エース・河村陽太を欠いた状態の男子中等部は、終わってみれば他校の追随を一切許さない、圧倒的な強さで頂点へと駆け上がった。
男子の完全勝利に呼応するように、私たち女子部のコートもまた、静かなる蹂躙の舞台と化していた。
奈緒と莉奈のダブルス2が6ー1。
芽衣先輩とひかりちゃんのダブルス1が6ー0。
...そして春花先輩のシングルス3が6ー1。
続く美咲のシングルス2が6ー3。
すべてのバトンが完璧な形で繋がり、私の待つシングルス1へと回ってくる。
対戦相手の決勝進出校のエースは、私の前に立つだけで、そのラケットを持つ手がわずかに震えていた。準決勝で見せた私の『波紋』のオン・オフ切り替え戦術――あの絶対的な全方位包囲網の破壊力を、彼女もまた目の当たりにしていたからだ。
「……お願いします」
蚊の鳴くような声で挨拶する彼女に対し、私は静かにラケットを構えた。
試合は、もはや勝負と呼べるものではなかった。
彼女が私のカウンターを恐れて緩い球を打てば、私は『波紋』をオフにして、ただ正確無比なフラットドライブで彼女のコートの隅を射抜く。焦った彼女が起死回生の強いストロークを放てば、瞬時に『波紋』をオンにして、その威力をすべて超高回転のスピンへと上書きして足元へ滑らせる。
「ゲームアンドマッチ、星和学院・水瀬! 6ー0!」
呼吸一つ乱れることなく、最後のボールがコートに弾んだ。
その瞬間、星和学院テニス部は、男女ともに全試合ストレート勝ちという、前代未聞の完全優勝を成し遂げて東日本地区予選の幕を閉じた。
観客席からの割れんばかりの歓声と拍手。その熱狂の渦の中心にいながらも、私の心は不思議なほどに静かだった。
美咲が隣に歩み寄り、私の肩にタオルをかける。
「お疲れ様、みゆ。これでまずは、第一関門突破だね」
「うん。でも、私たちの本当の目的地は、ここじゃないから」
完全優勝という最高の結果で幕を閉じた地区予選の日の夜。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った自室で、私はベッドの縁に腰掛け、大会のメダルを机の上に置いた。
クーラーの冷気が火照った肌を冷ましていく。
スマートフォンを手に取り、画面を見つめる。
日本時間の午後十一時。時差を計算すれば、ヨーロッパは夕方を迎えている頃だろうか。世界リーグの全日程を終え、明日には日本行きの飛行機に乗ると蓮さんから聞いていた。
そのとき、手の中でスマートフォンが短い振動とともに、突如として電子音を鳴らした。
画面に表示されたのは、国際電話を示す不規則な数字の羅列。上限に刻まれた『河村 陽太』の名前。
驚きで一瞬指先が止まったが、私はすぐに通話ボタンをスライドさせ、耳に当てた。
「……陽太?」
『あ……みゆ? 遅くに、ごめん』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、いつもの快活さを削ぎ落とされた、掠れた陽太の声だった。背景からは、どこか遠くの空港か駅のような、見知らぬ異国の雑音が微かに漏れ聞こえてくる。
「ううん、大丈夫。ちょうど、陽太のことを考えていたから」
『そっか……。なぁ、みゆ。日本は今、夜だよな。予選、どうだった?』
「男子も女子も、全員ストレート勝ちで完全優勝したよ。田中くんも、佐久間部長も、みんな陽太の留守を完璧に守り抜いた。佐藤くんは途中で少し足を痛めちゃったけど、男の意地で準決勝を勝ち切ってくれたよ」
私が星和の仲間たちの戦果を伝えると、受話器の向こうで陽太は「そうか……」と、短く息を漏らした。それは仲間の勝利を喜ぶ安堵であると同時に、どこか、その眩しい輪の中に自分がいないことへの、痛烈な寂しさが滲むような声だった。
『みんな、すげえな。……それに比べて、俺はさ』
陽太の言葉が、ふっと途切れる。
スマートフォンを握る私の指先に、自然と力がこもった。世界の壁にぶつかり、全勝を貫く王者・ドイツに惨敗を喫したその衝撃が、電気信号を通じて伝わってくる。
『強かった。強すぎたんだ、ドイツの奴ら。俺が今まで日本で培ってきたものも、野生の勘も、あいつらの前じゃただの子供騙しだった。打っても、打っても、全部完璧なコントロールで倍になって返ってくる。……コートの中で、自分がどんどん透き通って、消えていくみたいな感覚だった』
いつも前だけを向き、どんな強敵にも獰猛に牙を剥いてきた陽太が吐露する、初めての弱音。
世界リーグというあまりに巨大な戦地で、王者の絶望を体感した彼は、堰を切ったように言葉を紡ぎ続ける。
『みゆのメッセージ、嬉しかった。でも、あそこから一歩も動けなくなっちまいそうで、本当は怖かったんだ。……俺、本当にお前の隣に立つ資格、あるのかな。このまま日本に帰って、お前たちの顔を、どんな表情で見ればいいのか分かんねえよ……』
その言葉に、胸の奥がわずかに痛んだ。
けれど、私はすでに陽太との恋愛を諦め、ただ彼をコートの上で支える盾になると決めている。だから、今の彼の弱さに甘く寄り添うような真似はしない。ただ、一人のテニスプレイヤーとして、私のすべてを懸けて彼を肯定するだけだ。
私はスマートフォンの向こうの彼に向けて、どこまでも凛とした、揺るぎない強さを持った声を届けた。
「何を言っているの、陽太。そんな風に俯くなんて、あなたらしくない」
『みゆ……?』
「ドイツには負けたかもしれない。でも、世界リーグで日本は総合3位に輝いた。それは、あなたが世界の化物たちを相手に、最後まで折れずに戦い抜いたからこそ掴み取った結果でしょう? 世界はもう、あなたの実力を認めているの。海の向こうでそこまで頑張ってきた自分に、もっと自信を持って」
私の毅然とした言葉が、電波を通じて陽太の胸へと突き刺さる。
「星和のメンバーは、誰一人としてあなたの資格なんて疑っていない。みんな、あなたが世界で手に入れた牙と戦うのを、心から楽しみにしている。だから……堂々と胸を張って帰ってきなさい。日本で、私たちが待っているから」
私の毅然とした言葉が、電波を通じて遥か異国の地にいる陽太へと届いたのだろう。
沈黙しばらく続いた後、聞こえてきたのは、小さく、けれど確実に熱を取り戻した彼の呼吸の音だった。
『……ハハ、手厳しいな、みゆは。容赦ねえや』
掠れていた陽太の声に、いつもの不敵なニュアンスが微かに混じる。
『でも、目が覚めたよ。俺、世界のレベルに圧倒されて、自分で勝手に縮こまってただけだ。総合3位……。そうだな、俺たちは負けっぱなしで終わったわけじゃねえ。掴み取ったものだって、山ほどある』
「そうよ。それに、世界でボロボロにされたままのあなたじゃ、この先の地区大会、全国大会の相手は務まらないわ」
あえて突き放すような、けれど彼を誰よりも信じているからこその言葉を投げかける。
恋愛という関係を諦めた今の私にとって、陽太はコートの上で共に高みを目指す、唯一無二の存在だ。だからこそ、その心が折れることだけは絶対に許さない。
『ああ、分かってる。日本に戻ったら、すぐにでもラケットを握る。世界で浴びた強烈な打球の感覚が、まだこの両腕に残ってるうちに、全部俺のものにしてやるよ。星和の奴らにも、進化した俺のテニスを見せて驚かせてやらないとな』
「ええ。みんな、楽しみに待っているわ。気をつけて帰ってきてね」
『おう。じゃあな、みゆ。ありがとな』
通話が切れる。電子音が静かに消え去った自室で、私はスマートフォンを机の上に置いた。
窓の外を見上げれば、東京の夜空には遮るもののない群青が広がっている。世界の壁にぶつかり、なおも牙を研ぎ直そうとする河村陽太。彼の帰国によって、星和学院のパズルは真の完成を迎える。
数日後。成田空港の国際線到着ロビーは、独特の熱気に包まれていた。
自動ドアが開き、世界リーグを戦い抜いた日本代表メンバーが揃って姿を現す。団長である高峯さんを先頭に、そこには日焼けして一回り逞しくなった陽太、そして、湊兄さんと蓮さんの姿もあった。
「よぉ、みんな! 待たせたな!」
陽太の瞳には、異国での挫折の影など微塵も残っていない。さらに飢えを増した野生の輝きを湛えていた。
「遅いぞ、陽太! お前がいない間、俺たちがどれだけ無双してたか教えてやるよ!」
田中くんが真っ先に駆け寄り、陽太の肩を叩く。足を痛めていた佐藤くんや佐久間部長、岡田先輩たちも、全員が弾けたような笑顔でエースの帰還を歓迎していた。
そんな男子たちの賑やかな輪からすっと離れ、湊兄さんが私の前へと歩み寄ってきた。どこか妹を面白がるような、いつもの調子で声をかけてくる。
「――みゆ」
湊兄さんは周囲に聞こえないような低い声で、私に語りかけてきた。
「フロリダを出発する前、陽太がひどく落ち込んでたんだ。世界の壁にでもぶつかったのが原因だろうがな...。だが、いざ飛行機に乗って出国するときには、いつものうるさい調子にすっかり戻ってた。……みゆ、何かしたか?」
探るような兄の視線。私は表情を一切変えず、冷徹に言葉を返した。
「別に、何も。世界リーグで日本を総合3位に導いて、世界が認める結果を出している彼を、一人のプレイヤーとしてただ肯定したまでよ。兄さん」
「……へえ、なるほどな」
湊兄さんは合点がいったように小さく肩をすくめ、納得の表情を浮かべた。それから、思い出したようにスマートフォンをポケットから取り出す。
「それとは別だが、さっき星和学院高等部の先輩から連絡が来て。ちょっと残念な結果を耳にした」
「……何?」
「星和の高等部、今回の地区予選決勝で敗退した」
「っ……!」
私の隣で話を聞いていた美咲が、小さく息を呑む。
高校部の先輩たちが、本戦を前に地区予選で散った。その事実に僅かな衝撃が走る中、湊兄さんはどこか飄々と、軽薄な調子で軽口を叩いた。
「どうやら、星和の全国大会制覇ってやつは、来年の俺たちまでお預けになりそうだ」
そう言い残すと、湊兄さんはひらひらと手を振って、代表メンバーの輪の中へと戻っていった。
「……みゆ、高等部の先輩たちが……」
美咲が不安げに私を見つめる。
「関係ないわ」
私は視線を前に向け、静かに言い放った。
「高等部が負けたなら、私たちがその雪辱を果たすだけ。中等部は、絶対に負けない」
エースを欠いた状態で烈火の如き執念を見せ、完全優勝を飾った男子。
徹底マークの包囲網を嘲笑い、進化した『波紋』を隠したままの私。
そして、世界の絶望すらも糧にして帰ってきた河村陽太。
星和学院テニス部は、あらゆる試練をくぐり抜け、一切の隙のない最強の布陣へと昇華を遂げていた。
目指すは、全国大会(本戦)。
そこには、能動的な『波紋』をぶつけるべき絶対の宿敵、白河こころが待っている。
真夏の太陽が、私たちの青いユニフォームを強烈に照らし出す。不敗の誓いを胸に刻んだ飢えた獣たちは、ついに世界へと繋がる本当の戦場へ向けて、堂々たる進撃を開始した。




