熱砂の行軍、届かぬ咆哮
会場の屋外コートを包む熱気は、午後に入るとさらにその凶暴さを増していった。アスファルトから立ち上る陽炎が、まるで生温い生き物のように選手たちの体力をじわじわと削り取っていく。
星和学院の男女両部は、初戦を完全勝利で飾った勢いのまま、破竹の勢いでトーナメントを駆け上がっていた。
女子部は、他校のスカウティングをあざ笑うかのように私の『波紋』が冴え渡り、失ゲームわずかで準決勝へと駒を進める。
男子部もまた、2年の田中瑛太がその本領を発揮していた。無尽蔵のスタミナと驚異的なフットワークで、極限の猛暑の中でも息一つ乱さず、相手をコートの左右へ走らせて完璧に制圧していく。田中くんのシングルスは危なげなく、非常に安定した試合運びでチームに白星を重ねていた。
しかし、陽太不在のプレッシャーは、別の場所で「歪み」となって牙を剥いた。
「ゲームアンドマッチ、星和学院・田中! 6―1!」
田中くんが安定の勝利を収め、星和男子が順調に準決勝へと進んだその試合。もう一つのシングルスを任されていた2年の佐藤健二は、明らかな「焦り」の中にいた。
海の向こうで世界の化物たちと戦い、傷つきながらも牙を研ぎ澄ますエース・河村陽太。その圧倒的な光に追いつき、少しでも並び立ちたいという強烈な執念が、佐藤くんのプレイの歯車を狂わせていた。自分の限界を超えるような無理な踏み込み、強引なストローク。
そして、激しいラリーの中で、悲劇は起きた。
「っあ……!?」
ベースライン際、深く弾んだ球に強引に回り込もうとした佐藤くんの右足首が、不自然な角度でコートのハード面に引っかかる。鈍い音が響くと同時に、彼はそのまま激しくコートへ転倒した。
試合自体はそれまでのリードでなんとか勝ち切ったものの、コートから肩を借りて戻ってきた佐藤くんの右足首は、すでに痛々しく腫れ上がり始めていた。
女子の準決勝が始まるまでには、まだ少し時間がある。
男子ベンチの騒然とした空気を察した私は、ラケットバッグから救急キットを取り出し、迷うことなく佐藤くんの元へと歩み寄った。
「佐藤くん、動かないで。足、見せてください」
「水瀬さん……。すまない、俺、陽太に追いつかなきゃって、焦って……」
痛みに顔を歪める佐藤くんの前に膝をつき、私は冷徹な手付きでソックスを脱がせ、患部を確認する。ひどい捻挫だ。
心を頑なに閉ざしていたかつての私なら、男子のトラブルにここまで深く関わろうとはしなかったかもしれない。けれど、今の私は、彼らの熱も、陽太のために戦うその執念もすべて受け止めてここに立っている。
私は慣れた手つきで氷嚢を当てて患部を急冷し、バンテージを取り出して足元を的確に固定し始めた。
「これ以上の無理は禁物です。今は冷やして、圧迫して、高く上げておいてください」
淡々と、しかし確実に処置を施す私の姿を、男子のメンバーたちは驚きと感謝の目で見つめていた。
「みゆ、ありがとう。うちの弟が、本当に迷惑かけちゃったね」
処置を終えた私に、女子部の部長であり、佐藤健二の姉でもある佐藤春花先輩が声をかけてきた。春花先輩は私の手際に深く感謝しつつ、その視線を、ベンチに横たわる弟へと向けた。
その瞳には、いつもの優しい先輩の顔ではなく、星和学院テニス部を率いる部長としての、そして同じ血を分けた姉としての、容赦のない「覚悟」が宿っていた。
「……健二」
春花先輩の低い声に、健二の身体がびくりと強張る。
「陽太くんに追いつきたい気持ちは分かるわ。でもね、今のあんたのテニスは、ただの自己満足。周りが見えなくなって怪我して、チームに迷惑をかけて、それで陽太くんの留守を守る『覚悟』があるって言えるの?」
「姉さん……」
「男子の枠は、あんた一人のものじゃない。佐久間くんたちがどれだけの想いでこの予選を繋いでるか、もう一度よく考えなさい。もし次の試合、少しでも足を引っ張るようなら……私が引きずり下ろしてでも、レギュラーから外してもらうから」
春花先輩の厳しい言葉は、健二に現実を突きつけると同時に、彼の中にある本当の闘志を奮い立たせるための鞭だった。佐藤くんは腫れた足を見つめ、きつく唇を噛み締めながら、小さく、けれど固く頷いた。
「……分かってる。次は、絶対にこんな無様な姿は見せない」
姉弟の間に流れる、星和としての意地と覚悟。それを背中で受け止めながら、私はゆっくりと立ち上がった。
足元をすくわれかけた男子の綻び、そしてそれを乗り越えようとする強い絆。
私は女子のコートへと視線を向けた。私たちの不敗の進撃は、ここからさらに加速していく。
佐藤くんへの応急処置を終え、私は女子準決勝の舞台となるAコートへと足を踏み入れた。
対戦相手は、去年の地区大会から幾度となく刃を交えてきた宿敵、強豪・成徳中等部。
彼女たちは、私がコートに入るなり、まるで獲物を包囲する群狼のような冷徹な視線を一斉に向けてきた。当然だ。男子が健二の負傷というアクシデントを抱える中、ここで女子の絶対的支柱である私を叩き潰せば、星和の勢いを完全に止められる。彼らはそのために、入念な「水瀬みゆ包囲網」を用意してきていた。
「シングルス1、試合を始めます!」
審判のコールとともに、相手の3年エースが放ったファーストサーブが、ベースライン際へと弾む。
だが、その球筋を見た瞬間、私は内心で静かに息を吐いた。
――軽い。そして、極端に回転が死んでいる。
打球はスピードもパワーもあえて削ぎ落とされ、私のラケットに当たる直前で失速するような、異様な無回転の軌道を描いていた。さらに彼女は、レシーブの際も絶対に強い球を打とうとはしなかった。ロブともドロップともつかない、ただ緩やかに滞空時間の長い打球を、コートの中央へと執拗に集めてくる。
徹底して私に「威力を利用させない」ための遅滞戦術。
観客席からは、「おい、完全に水瀬のカウンターを警戒してるぞ」「これじゃあ『波紋』をかけられないんじゃないか?」と焦れるようなざわめきが起こる。
けれど、相手ベンチが勝機を確信したような視線を送ってくる中で、私の心はどこまでも冷静だった。
(このパターンの『波紋封じ』なら――もう、奈緒との練習で経験済みだよ)
部活のリーグ戦や居残り練習で、奈緒は何度もこの手の「死に球」を私にぶつけてきていた。身内との泥臭いラリーの中で、私はすでにこの包囲網の破り方を確立している。
相手が威力を完全に殺してくるのなら、何も無理に『波紋』をかける必要はない。
私に求められているのは、ただ星和の勝利という結果を冷徹に持ち帰ることだけだ。
私はラケットを構え、深く踏み込んだ。
これまでのカウンターとしての『波紋』の「オンとオフ」を、一打ごとに綺麗に切り替え始めた。
相手の打球の速度が緩いということは、それだけ私自身の時間的・空間的な余裕があるということ。
『波紋』をオフにする。つまり、相手の力を利用するのをやめ、ただ飛んできた緩い球を、私自身の力でごく普通に打ち返す。無駄な力みを一切排除したフォームから、教科書通りの正確なフラットドライブを、相手のオープンコートへと深く叩き込む。
パァン!
クリーンな打球音が会場の空に響き渡る。
「っな……!? 普通に力で押してくるのっ!?」
相手選手は慌てて足を動かすが、狙い澄まされたコースに追いつくのが精一杯で、まともな返球ができない。
そして、体勢を崩した相手が苦し紛れに強い球を返してきた瞬間、私は瞬時に『波紋』をオンにする。ラケット面をミリ単位で固定し、相手の焦りのこもった威力をそのまま超高回転の多軸スピンへと組み替えて滑らかに流し込む。
「ゲーム、水瀬。5ー0」
気づけば、スコアボードは一方的な現実を刻んでいた。
『波紋』を警戒して緩い球を打てば、ただ私の力で正確に打ち抜かれ、焦って強い球を打てばカウンターの餌食になる。オンとオフを冷徹に使い分ける私のテニスの前に、成徳の包囲網はただの的当ての標的へと成り下がっていた。
「ゲームアンドマッチ、星和学院・水瀬! 6ー0!」
審判のコールが響き渡り、女子の決勝進出が確定した。
徹底マークの包囲網を『波紋』のオン・オフという合理的な切り替えで無力化した私は、呼吸一つ乱すことなくコートを一礼して後にした。
「完璧だったよ、みゆ」
ベンチに戻ると、美咲がスポーツドリンクを差し出しながら、頼もしそうに微笑んだ。
「ありがとう、美咲。……でも、まだ終わりじゃない」
私は視線を、隣のBコート――男子中等部の準決勝の舞台へと向けた。そこでは、もう一つの凄絶な死闘が佳境を迎えていた。
男子準決勝の命運を握るシングルス2のコート。そこに立っていたのは、私が先ほど右足首にバンテージを巻いた、佐藤くんだった。
対戦相手の城南中等部の選手は、佐藤くんが足を痛めていることを見抜いているようだった。左右への執拗な振り回し戦術を仕掛け、佐藤くんのフットワークを殺しにかかっている。
「っ……、あぁっ!」
サイドライン際へ振られるたび、佐藤くんの顔が激痛で歪むのが遠目からでも分かった。
春花先輩から『そんな無様な姿で、陽太くんの留守を守る覚悟があるの?』と突きつけられた厳しい言葉。それが、今の彼の肉体を限界を超えて突き動かしているのだろうか。
「健二、焦るな! 球をよく見ろ!」
ベンチから田中くんが声を枯らして叫んでいる。
佐藤くんは痛む右足で激しくコートを踏み締め、泥臭くラリーにしがみついていた。陽太のような天性の野性味はない。けれど、テニス経験者として陽太より長くテニスに触れ合っているため、感覚で流れをつかんでいる。陽太のペアに志願してから彼が返ってくるまで守り抜くという剥き出しの意地が見えた。
相手の揺さぶりに対し、佐藤くんは予測の早さでカバーし始める。相手の肩の動きやラケット面の角度からコースを読み切り、最短距離のステップでボールに追いついていく。
そして、ゲームカウント5ー4で迎えた、星和のマッチポイント。
「これで、終わりだァ!」
城南の選手が放った渾身のクロスショット。佐藤くんは右足で爆発的な踏み込みを見せた。
渾身の力で振り抜かれたラケットが、乾いた音を立ててボールを捉える。ストレートへの、目にも留まらぬパッシングショットがコートの隅へと突き刺さった。
「ゲームアンドマッチ、星和学院・佐藤! 6―4!」
「よし、勝ったァ!」
田中くんたちがコートへ雪崩れ込み、倒れ込む佐藤くんの身体を支える。
ベンチでは、部長の佐久間先輩が安堵の息を漏らし、そして女子のベンチからは、春花先輩が厳しくも、どこか誇らしげに弟の姿をじっと見つめていた。
怪我を抱えながらも掴み取った、執念の一勝。
これで星和学院は、男女ともに一切の黒星を喫することなく、地区予選の決勝戦へと駒を進めることになった。
「……みんな、本当に強いね」
美咲が私の隣で、男子たちの歓喜の輪を見つめながら呟いた。
「うん。直向きに、前だけを見てる」
男子が見せた、限界を超えてでも繋ごうとする烈火の執念。そして、佐藤姉弟が証明した、星和としての不退転の覚悟。
それらすべての熱を、私はもう拒まない。すべてを私の力へと変え、白河こころが待つ、あの遥かなる頂点への階段を駆け上がる。
海の向こうで牙を研ぎ直す陽太へ、届くはずの咆哮をこの胸に秘めて。星和学院は、ギラつく真夏の太陽の下、予選最後の決戦の地へとその歩みを進めていった。




