飢えた獣たちの咆哮
夏の地区予選、開幕。
会場の屋外コートは、遮るもののない強烈な陽光と、アスファルトから照り返す熱気で、立っているだけで眩暈を覚えるほどの過酷な環境と化していた。
しかし、星和学院の男子中等部メンバーの面々からは、暑さに怯むような気配は微塵も感じられなかった。それどころか、初戦のコールを待つ彼らの周りには、静かに、しかし確実に近づく者を気圧すような闘志が渦巻いている。
「おい、見たかよ。星和のオーダー、やっぱり河村の名前がねえぞ」
「噂通り、世界リーグからまだ戻ってないんだ。去年のエース水瀬湊も高校に上がって中等部にはいないしな、あいつ抜きなら、今年の星和は叩けるんじゃ……」
対戦相手の学校や、周囲の観客席からそんな囁きが漏れ聞こえてくる。
エース・河村陽太の不在。それを「好機」と捉える周囲の浅薄な視線が耳に入った瞬間、田中くんは怒る風でもなく、ふっと人懐っこい笑みを浮かべてチームメイトたちを振り返った。
「はは、言われてるな。なら――陽太抜きで全勝して、自分たちの勘違いを思い知らせてやろうぜ!」
田中くんのカラリとした、けれど芯の通った鼓舞に、男子部員たちの表情が一気に引き締まる。
「そうだな。陽太だけに頼る星和じゃないってところを見せてやろう」
部長の佐久間先輩が、頼もしそうに田中くんの肩を叩いた。そこにはエースの不在を不安視する影など微塵もなかった。あるのは、留守を託された男たちの、絶対的なプライドと不屈の信頼だけだ。
男子初戦の火蓋が切って落とされると、コート上は星和学院の執念が弾ける舞台へと変わった。
ダブルス2に出場した3年の岡田・和田ペアが、息の合ったコンビネーションと容赦のない猛攻で、相手をわずか10分足らずで圧倒し、6ー0で先勝。
続くダブルス1のコートに立ったのは、1年生ペアの石川勇気と森下拓海だった。
初めての公式戦の重圧と、相手の3年生ペアによる老獪な揺さぶりに苦しめられ、一時はゲームカウント4ー4まで並ばれる危うい展開を迎える。観客席の緊張が高まる中、しかし、1年生たちの瞳に怯えはなかった。
「森下、焦るな! 相手の球、陽太先輩の野生的なショットや、岡田先輩の重い球に比べたら全然軽いぞ!」
「分かってる! 軌道なら視えている、ここから決める!」
毎日地獄のような部活で、世界の壁に挑む先輩たちの打球を受け続けてきたのだ。その経験が、土壇場で彼らの身体を動かす。石川くんの物怖じしない前線でのボレーと、森下くんの粘り強いストロークが噛み合い、終盤の2ゲームを連取して6ー4で競り勝った。危なげはあっても、確かに掴み取った価値ある白星だった。
そして、勝負を決めるシングルス3のコートに、田中くんが立つ。
「よし、じゃあ俺の番だな。しっかり走るか!」
田中くんはベースラインに立つと、持ち前の俊足を生かしてコートを縦横無尽に駆け抜けた。
彼の一番の武器は、並外れた足の速さと、どこまでも尽きることのない無尽蔵のスタミナだ。相手が「決まった」と思った完璧なコースの打球にも驚異的なフットワークで追いつき、泥臭く、しかし正確にラリーを引っ張っていく。
どれだけ激しく左右に振られても息一つ乱さず、コートを支配し続ける田中くんの姿は、対戦相手に凄絶な絶望感を与えていく。走らせても、走らせても、目の前の壁を崩せない。そのスタミナと無尽蔵の運動量は、相手の心を完全に挫折させるに十分すぎる実力だった。
「ゲームアンドマッチ、星和学院・田中! 6ー0!」
審判のコールが響き渡り、星和の初戦突破が確定する。
エースの不在を囁いた周囲を黙らせる、圧倒的な躍動。陽太なき星和男子は、より牙を研ぎ澄ました軍団となって、この地区予選へと鮮烈な進撃を開始していた。
次にセンターコートに足を踏み入れたのは、男子中等部部長、佐久間先輩だった。
「佐久間、一本いこうぜ!」
ベンチから岡田先輩や田中くんたちの熱い声援が飛ぶ。佐久間部長は無言でラケットを軽く掲げ、ベースラインへと向かった。その背中は、大黒柱である陽太を欠いたチームを己の力で牽引するという、圧倒的な責任感に満ちていた。
トスが上がり、彼のラケットが鋭く振り抜かれる。
ドォン!
重低音を伴ったサーブが、センターラインに突き刺さる。田中くんのフットワークによる「動」のテニスとは対照的に、佐久間部長のテニスは「静」にして苛烈。一歩も無駄な動きをせず、常にコートの中央に陣取りながら、左右のコーナーへと狂いのない精密な打球を叩き込み続ける。
「くっ……、なんだよ、この重さ……!」
相手の3年生選手が、悲鳴を上げるようにラケットを弾かれ、顔を歪める。
世界の壁にぶつかりながらも、メッセージの向こうで『もっと泥臭く、死ぬ気で強くなってやる』と誓った陽太。その陽太が焦がれ、追いつこうとした星和男子の強さの源流が、今、佐久間部長のプレイとなってコート上に体現されていた。
一本の隙も、一瞬の油断もない。ただただ、相手の心をへし折るための冷徹なゲームメイク。
気づけば、スコアボードの数字は一方的に塗り替えられていく。
「ゲームアンドマッチ、星和学院・佐久間! 6――0!」
わずか15分。相手に一度もブレイクポイントすら握らせない完全な制圧だった。コート中央でネットを挟み、佐久間部長は相手と堅い握手を交わしながらも、その瞳はすでに、この予選の遥か先、本戦の舞台を見据えていた。
「男子、完全勝利ね……。河村抜きでも、あいつら強いわ」
女子のベンチで、3年の綾先輩が感嘆の声を漏らす。女子の面々も、男子の圧倒的な背中に引っ張られるように、その表情に勝利への貪欲な飢えを宿し始めていた。
「みゆ、次は私たちの番よ。準備はいい?」
部長の春花先輩が、私の肩にそっと手を置く。
「はい、いつでもいけます」
私は立ち上がり、ラケットバッグから一本のラケットを引き抜いた。
男子の烈火の如き進撃、田中くんの笑顔、佐久間部長の圧倒的な背中。それらすべてが、今の私にとっては心地よい「熱」として、私の『深淵』へと吸い込まれていく。
かつてのように、他人の熱から逃れるために心を閉ざすのではない。陽太が世界で流した血も、美咲が身を挺して教えてくれた綻びも、男子たちが繋いだこの不敗のバトンも、すべてを私の力へと変える。
陽炎の揺らめくコートに足を踏み入れた瞬間、肌を刺すような熱気が私を包み込んだ。
けれど、私の内側は驚くほどに静まり返り、どこまでも澄み切っていた。
女子の初戦、星和学院の進撃は凄まじかった。
ダブルス2の2年ペア、田中奈緒・星野莉奈が息の合ったストロークで相手を圧倒し、6ー1で先勝。続くダブルス1の3年・小林芽衣先輩と1年・佐々木ひかりのペアも、危なげない試合運びで6ー2と連勝を決める。さらにシングルス3の佐藤春花部長が3年生の貫禄を見せつけ、6ー0のストレートで完勝。続くシングルス2は松本美咲が6-0で完封。
完璧な全勝のバトンが繋がれ、ついにシングルス1――私の番が回ってきた。
対戦相手のシード校の3年生選手は、私がコートに入るなり、あからさまに敵意と警戒の入り混じった眼差しを向けてきた。
それもそのはずだった。去年の地区大会決勝、私は相手の打つコースを「予測」し、相手の球を跳ね返すカウンターを披露し、鮮烈な勝利を収めた。それ以来、他校からは「カウンターの怪物」として徹底的にマークされ、その対策を練り上げられてきている。
「――いくよ! 水瀬!」
鋭い掛け声とともに、相手の放ったファーストサーブが私のバックハンド側へと襲いかかる。
徹底して私のカウンターを警戒し、コースを限界まで突いてきた、スピードも威力もある鋭い打球。彼女の表情には、対策を重ねてきたという確かな自信が滲んでいた。
けれど、今の私はその程度で揺らぎはしない。
合宿を経て美咲に突かれた綻びを克服し、仲間たちの熱をも飲み込んだ私は、飛来するボールの回転を、網膜の奥で一瞬にして解体した。純粋に相手の力を利用するこれまでの『波紋』だ。
筋力には頼らない。寸分の狂いもない面コントロールと、手首のしなり。相手の持つ強大なパワーとスピードを、ラケット面で受け流し、それを相手のコートへ流し込む。
――シュッ。
無機質な音が響いた瞬間、打球は相手の予測を完全に裏切りサイドライン際へと滑り落ちた。
「っ……、うそっ!? 対策してきたのに、反応すらできないなんて……!」
相手選手は一歩も動けない。徹底マークされ、どれだけ軌道を読まれていようとも、それをさらに上回る純粋なテクニックの極致。
相手の力を利用するこの『波紋』は、無駄な体力を一切消耗しない私の基本戦術。
相手がどんなに対策を講じようとも、打球が強ければ強いほど、私の『波紋』はその牙を鋭く研ぎ澄まして突き刺さる。全方位の絶望。それが、徹底マークの包囲網を正面から粉砕した私の、エースとしての姿だった。
「ゲームアンドマッチ、星和学院・水瀬! 6ー0!」
審判のコールが響き渡る。
一度のブレイクポイントも、一度の息切れすらなく、私はラケットを引いて静かに一礼した。
コートを出ると、美咲が真っ先に駆け寄ってきて、眩しそうに、けれど誇らしげに笑った。
「もう、心配いらないみたいね。完璧なエース様」
「うん。美咲が盾になってくれたから」
私は仮面の奥で、親友にだけ伝わる小さな微笑みを返した。
陽太なき男子の烈火の進撃、そして女子メンバーが完璧に繋いだバトンを受け、圧倒的な力で初戦を締めくくった私の氷徹なる『波紋』。
星和学院は男女ともに、一切の隙のない完璧な布陣で夏の地区予選を蹂躙し始めた。白河こころの待つ全国へ向けて、私たちの進撃は、もう誰にも止められない。




