傾く天秤、不穏の報せ
過酷な夏合宿が明け、東京に戻ってからも、星和学院のコートで私は狂ったようにラケットを振り続けていた。
美咲に突かれた綻びを埋め、自生する『波紋』を完璧なものにするため、文字通り寝食を忘れてテニスに没頭する日々。頭の中にあるのは、全国大会の決勝で待つ白河こころの解答をどう叩き潰すか、それだけだった。
しかし、その頑ななまでの執着が、私から「世界の現実」を覆い隠してしまっていた。
八月に入ったある日の放課後。部室で着替えを済ませた私が、何気なくスマートフォンの通知画面を開いたとき、目に飛び込んできた速報の文字に、私の指先は凍りついた。
『【U-17世界リーグ】日本代表、絶対王者ドイツに惨敗。全勝を貫く王者の前に全敗、優勝の可能性は絶望的に』
「――え?」
喉の奥から乾いた声が漏れた。
日本が、負けた……?
あの湊兄さんがいて、蓮さんがいて、そして世界デビュー戦で鮮烈な勝利を挙げ、破竹の勢いで勝ち上がっていたはずの湊兄さんたちがいる日本代表が、完膚なきまでに叩きのめされた。
世界の強豪が総当たりで激突するこのリーグ戦において、ドイツは未だ無敗。その絶対的な本命を相手に、日本は一本の勝ち星すらもぎ取ることができず敗北を喫した。これにより、日本が目標としていたリーグ優勝の栄冠は、事実上その手から遠のいたことになる。
どれほど泥臭く足掻いても、どれほど才能を爆発させても、届かない領域が世界には存在する――画面の向こうから、そんな容赦のない現実が突きつけられているようだった。
動揺で震える手でメッセージアプリを開くと、そこには「未読」を示す赤い数字が不気味に積み上がっていた。
『みゆ、時差で変な時間にすまん。こっちの環境にも大分慣れてきた。お前も合宿、無理しすぎるなよ』(水瀬湊・一週間前)
『みゆ! ドイツの奴らマジでバケモノばっかだわ! でも俺、絶対に負けねえから! お前も日本で頑張れよ!』(河村陽太・五日前)
『みゆ、陽太が少し焦っている。湊が手綱を引いているが、そっちの様子はどうだ? 息抜きも忘れないように』(北条蓮・三日前)
...そして、昨夜遅くに届いていた、陽太からの短い一行。
『負けた。……強かった、何もできなかった。ごめん』
それらの言葉を、私は今の今まで、ただの一度も開くことなく放置していたのだ。
「私……何を、していたんだろう……」
眩暈を覚えるような感覚の中で、部室のベンチに崩れ落ちる。
ここ数日、合宿の成果を自分のものにすることだけに専念し、「完璧なエース」という殻に閉じこもっていた。他人の心をシャットアウトし、ただ前だけを見ているつもりだった。
『独りよがりの完璧なんて、本物の強さじゃない! 自分だけで抱え込んで周りを拒絶してたら、いつか倒れるよ』
合宿地で美咲に叩きつけられたあの言葉が、今になって、何倍もの重さとなって私の鼓動を打ち抜く。
周りが見えていない。まさにその通りだった。
白河こころとの約束を守るため、独りで深淵に潜っている気になっていた私は、世界の最前線で傷つき、壁の高さに血を流しながら戦っていた陽太たちの声にすら、気づいてあげられなかったのだ。
灯台下暗し。自分の足元すら救われかけていた私が、遠い世界で戦う彼らの痛みに寄り添うことすら忘れていた。
私は画面に表示された陽太の『ごめん』という文字を、ただ滲む視界で見つめ続けることしかできなかった。完璧であろうとすればするほど、大切なものから遠ざかっていくような、底知れない恐怖が足元から這い上がってきていた。
スマートフォンの液晶が放つ冷たい光が、暗い部室の中で私の瞳を虚実に照らし出していた。
溜まりに溜まった未読の数々と、陽太の『ごめん』という短い一行。画面をタップする指先が、信じられないほどに冷たく震えている。
(何か……何か返事をしなくちゃ)
焦燥感だけが空回りし、キーボードの上の指が迷子のように彷徨う。
「お疲れ様」なんて、命懸けで世界のバケモノたちと戦って砕け散った彼に対して、あまりに軽薄すぎる。「次は頑張って」? 優勝の可能性が絶望的になった今、そんな無責任な言葉が、どれほど陽太のプライドを傷つけるか想像するだけで怖かった。
完璧な言葉が見つからない。テニスコートの上ではあんなに一瞬で球の軌道を見極められるのに、一番大切な人への、たった数文字の言葉すら紡げないなんて。
「……みゆ? まだ残ってたんだ」
不意に部室のドアが開き、カチリと蛍光灯のスイッチが入れられた。眩しい光に目を細めると、忘れ物を取りに戻ってきたらしい美咲が、入り口で足を止めて私を見つめていた。
私の青ざめた顔と、握りしめられたスマホを見て、美咲はすぐに状況を察したようだった。
「……世界リーグのニュース、見たんだね」
美咲は自分のロッカーへ向かいながら、静かに、けれど重いトーンで言葉を続けた。
「男子の部室、さっきまですごかったよ。佐久間部長も田中くん、佐藤くんも、みんなスマホ囲んで黙り込んじゃってさ。湊先輩や不知火焔があそこまで完敗するなんて、誰も信じられなくて……。みゆは、陽太から何か聞いてた?」
「私は……」
喉が引き攣って、まともな声が出なかった。
「……聞いてない、の。ううん、正確には、陽太も、兄さんも、蓮さんも……ずっとメッセージをくれていたのに、私が、一枚も開いてなくて……さっき、初めて気づいたの」
私の告白に、美咲が荷物を詰める手をピタリと止めた。彼女はゆっくりと振り返り、そのまっすぐな瞳で、私の取り繕えない動揺をじっと射抜いた。
美咲は小さく、本当にやりきれないというようにため息をついた。
「やっぱりね。合宿のときにあれだけ言ったのに、あんた、星和に戻ってからもずっとそう。自分の『波紋』を完璧にすること、白河こころに勝つこと……それ以外、何もかも視界からシャットアウトしてたでしょ」
美咲が一歩、私の方へ歩み寄ってくる。その足音が、部室の床に冷たく響く。
「今のみゆはさ、強くなろうとしてるんじゃなくて、ただの『頑な』だよ。世界で陽太たちがどれだけ苦しんでるかも、日本で私たちがどんな気持ちであんたの背中を見てるかも、今のあんたには何も見えてない。一人で深淵に潜って、周りを全部置き去りにして……そんな風に心を削って作った完璧な『波紋』で、本当にこころさんに勝てると思ってるの?」
「美咲……私は……」
「陽太がどれだけ傷ついてるか、今のあんたには想像もつかないでしょ」
美咲の言葉が、容赦なく私の胸の綻びを抉る。
「あいつ、日本を出るとき、みゆに『全部受け止められるくらい強くなって帰ってくる』って言ってた。あんたの隣に立つために、世界で一番高い壁にぶつかりにいったんだよ。なのに、一番心の支えになってほしいはずの幼馴染で恋人のあんたが、自分のテニスに夢中でメッセージすら無視してたなんて知ったら……あいつ、本当に独りぼっちになっちゃうよ」
頭を強く殴られたような衝撃だった。
私は、陽太を光の中に残すために境界線を引いたつもりだった。彼の邪魔をしないように、ここで自分の義務を果たすためだけに孤独を選んだつもりだった。
けれど、それはただの傲慢で、独りよがりの逃避に過ぎなかったのだ。
「……頭、冷やしなよ。エース様」
美咲はそれだけ言うと、スポーツバッグを肩にかけ、今度こそ部室を出て行った。
パタン、と部室の重い扉が閉まり、美咲の気配が完全に消え去った。
静寂が戻った室内に、蛍光灯の無機質なハミングだけが響いている。私は力なくベンチに腰掛け、両手で顔を覆った。
指の隙間から覗くスマートフォンの画面。そこに並ぶ陽太の『ごめん』という三文字が、冷酷な現実として私の輪郭を削り取っていくようだった。
(私は、なんて酷い人間なんだろう……)
水瀬家の血の宿命に囚われ、神崎夫妻の犠牲を背負うと決めてから、私は自分の心に頑丈な鍵をかけたつもりになっていた。陽太を私の暗い深淵に巻き込まないために線を弾き、孤高のエースとして白河こころを討つことだけが、残された者の義務だと信じ込んでいた。
けれど、それは美咲の言う通り、ただの「独りよがり」だった。
私が独りで殻にこもり、自分のテニスを研ぎ澄ますことに狂奔していたその間も、陽太は私の隣に立つために、世界という名のあまりに巨大で残酷な壁に、その身を砕きながら立ち向かっていたのだ。
私が引いた境界線の向こう側で、陽太は今、どれほどの暗闇と孤独の中にいるだろう。
それを想像した瞬間、私の凍りつかせていたはずの胸の奥が、壊れたように激しく脈打った。完璧な仮面なんて、彼の痛みを前にしたら一瞬でひび割れて、ただの醜い傲慢さへと成り下がる。
私は震える指先で、画面に浮かぶキーボードを叩いた。
気の利いた慰めなんていらない。エースとしての模範解答もいらない。ただ、今の私が彼に伝えられる、剥き出しの本当の言葉だけを。
『陽太、メッセージをずっと返せなくて、本当にごめんなさい。
私は日本で、自分のことばかり見ていて、陽太が戦っている姿から目を逸らしていました。
何もできなかったなんて、言わないで。
世界で傷つきながらも戦い抜いた陽太は、誰よりも、私にとって眩しい光です。
……応援しているから。残りの試合絶対見るから、後悔のない試合をしてきてね』
送信ボタンを押した瞬間、張り詰めていた息が、涙と一緒に喉の奥から漏れ出た。
数分が経ち、時差の向こう側から、思いがけず早く「既読」のマークがついた。
画面の向こうで陽太がどんな表情をしているのか、今の私には視ることはできない。やがて、画面の上部に『入力中……』の文字が点滅し、短いメッセージが返ってきた。
『みゆ。返信、ありがとな。
そっちが必死に頑張ってるの、蓮さんから聞いてた。だから謝るなよ。
ドイツの奴ら、本当に強くて……自分の小ささを思い知らされた。
でも、俺、まだ死んでねえから。ここで終わったら、お前の隣に立つ資格なんて一生ねえ。
もっと泥臭く、死ぬ気で強くなってやる。日本に戻ったら、俺の全部をぶつけさせてくれ』
その文字の奥から、挫折の底にありながらも、消えることのない彼の野性的な執念の残り火が伝わってきた。
陽太は、まだ諦めていない。世界の圧倒的な絶望に叩きのめされてもなお、私の弾いた境界線を踏み越えるために、その牙を研ぎ直そうとしている。
「陽太……」
スマホを両手で包み込み、胸に抱きしめる。
彼との心の距離は、確かにあの日から離れてしまったのかもしれない。私は依然として水瀬家の闇の中にいて、彼は世界の荒波の中にいる。
けれど、美咲に足元をすくわれ、陽太の挫折を知った今、私の中で「孤高」の定義が静かに変容していった。
誰の手も借りない頑なな完璧さは、白河こころの解答の前に容易く崩れ去る。私が本当に纏うべきは、彼らの熱を拒絶する氷の壁ではない。みんなの想いを、陽太の不屈の光を、そのすべてを血肉として取り込んだ上での、真の圧倒的な深淵だ。
涙を拭い、私はしっかりと立ち上がった。
バッグを肩にかけ、部室の電気を消す。暗闇の中、私の瞳には、以前のような頑なな拒絶ではなく、他者の熱すらも飲み込んで進化しようとする、静かで強大な『波紋』の予兆が宿っていた。
世界での敗北という不穏な報せは、私たちの再起の天秤を大きく傾かせ、全国予選へと続く戦火を、より一層激しく燃え上がらせようとしていた。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
17章はここで終了となります。
18章は県大会(地区予選)〜地区大会になります。




