深淵の胎動、研ぎ澄まされる刃
過酷さを極めた夏の強化合宿も、いよいよ終盤を迎えていた。
連日の猛特訓によって部員たちの身体には隠しきれない疲労が蓄積し、夕暮れ時のコートには張り詰めた緊張感が漂っていた。
そんな中、女子コートのベースラインに立つ私は、周囲の熱気から完全に隔離されたかのように、ただ一人、冷徹な静寂を纏っていた。
「――みゆ、いくよ!」
ネットの向こうから、美咲が鋭いトップスピンのストロークを放ってくる。
私は深く踏み込む。手にするラケット面を極限の角度で固定し、手首のしなりと寸分の狂いもない面コントロールだけ――筋力に頼らない圧倒的な純粋テクニックだけで、飛んできたボールの回転とベクトルを脳内で瞬時に解体する。
そして、本来の受動的なカウンターとしての『波紋』とは異なる、冷酷なまでの超高回転の多軸スピンへと「上書き」して弾き返した。
シュ、と空気を切り裂く無機質な音が響き、打球は美咲の足元へ直角に落ちるように沈む。
「っ……!」
美咲はラケットを出すことすらできず、ただコートに刻まれたボールの跡を呆然と見つめた。息一つ乱さない私に、美咲はラケットを握り直しながら、意を決したように私を真っ直ぐに見据えた。
「ねえ、みゆ。合宿前からずっと感じてたけど……あんたのそのテニスのスタイル、変わったのって、あの『誕生日』のあとからだよね? 一体、あの夜に何があったの?」
美咲の鋭い問いかけに、私の心臓が小さく跳ねた。六月二十日。私が水瀬家の暗い運命を、神崎夫妻の犠牲を知り、陽太を突き放して孤独に生きると決めた、あの誕生日。
「何もないよ、美咲。私はただ、強くなりたいだけ」
「嘘。自分だけで何もかも抱え込んで、そんな顔してテニスして……あんた、このままだといつか絶対に倒れるよ? 私たち、ずっと一緒にやってきた親友でしょ? 少しは頼りなよ!」
美咲の声がコートに響く。莉奈や奈緒も遠巻きに心配そうな視線を送ってくるが、私は冷たい仮面をさらに深く嵌め直す。
「……頼る必要なんてない。私は星和のエースとして、白河こころを倒すために完璧でなきゃいけないの」
「完璧? 笑わせないで」
美咲の瞳に、親友だからこその激しい怒りの火が灯った。
「だったら、今のみゆの『弱点』、私が教えてあげる!」
美咲がサーブを放つ。その球には、世界リーグで戦う陽太のような野性的なスピードも、湊兄さんのような暴力的なパワーも一切なかった。
「――え?」
私の『波紋』は、相手の強い球威やベクトルを見極めて上書きする技術。しかし、美咲が放ったのは、あえて回転も速度も殺した、山なりの緩やかなロブだった。それも、バックアウト寸前のコーナーギリギリの死角へと正確に落ちていく軌道。
急いで下がって合わせようとするが、球威がないために『波紋』をかけるための反発力が足りない。焦って面を作ろうとした瞬間、美咲はさらにネット際へドロップボレーを落とし、それがネットの白帯を叩いて、ポトリとこちらのコートへ不規則に転がり落ちた。ネットイン。
「ゲーム、松本」
「……っ」
私が呆然と立ち尽くす中、美咲は息を荒くしながらラケットをこちらに突きつけた。
「あんたの今のテニスは、強い敵、速い球しか見てない。独りで背負い込んで周りを拒絶してるから、こういう泥臭い、意地の悪いショットに足元をすくわれるの。頭を冷やしなよ、みゆ。独りよがりの完璧なんて、本物の強さじゃない!」
美咲の言葉が、鋭い刃となって私の胸を突き刺した。誰の光にも甘えないと決めて研ぎ澄ませたはずの私の深淵に、親友の執念が、明確な綻びを突きつけていた。
美咲の放ったネットインの打球がコートを転がる音が、妙に大きく耳の奥に残っていた。
その日の夕暮れの練習が終わり、夕食を済ませた後の合宿所の廊下には、明日の最終日、そして目前に迫る地区大会予選への緊張感と高揚感が、静かな熱となって満ちていた。
男子部屋の開いた扉の向こうからは、「絶対に予選をぶち抜いて、陽太にいい報告しようぜ!」という佐久間部長や田中くんたちの熱い決起の声が聞こえてくる。
そんな仲間たちの熱から逃れるように、私は一人、自室のベッドの上で膝を抱えていた。
(『独りよがりの完璧なんて、本物の強さじゃない!』)
暗い部屋の中、美咲のあの激しい叫びが何度も何度も脳裏をよぎる。
私を拒絶から引き戻そうとした、親友だからこその全力の告発。そして、強い打球のベクトルしか見ていなかった私の足元を鮮やかにすくった、あの泥臭いネットイン。
私が神崎夫妻の犠牲や水瀬家の血の重みに囚われ、誰の温もりもいらないと心を閉ざした結果、私のテニスには「他者への不信」という致命的な歪みが生まれ始めていた。美咲は、身を挺してその綻びを教えてくれたのだ。
「……分かってる。分かってるよ、美咲……」
枕に顔を押し当て、小さく声を漏らす。
本当は、去年の九十九里の時のように、みんなと笑い合って、美咲と心が重なるようなダブルスを打ちたい。陽太の光に救われ、湊兄さんの優しい手に甘えていたい。
けれど、一度覗いてしまった水瀬家の深淵は、生半可な甘えを許してはくれない。私が強く、冷徹であり続けなければ、あの悲劇の連鎖は止められないかもしれないのだ。
私は這い上がるようにしてスマホを取り出し、一月に白河さんから届いたあの手紙と、西園寺の練習試合が記録されたDVDの映像を画面に映し出した。
何度も擦り切れるほど見た、白河さんの完璧な『論理』の映像。
彼女のテニスは、鳳仙雅の作り上げた精密な確率論をベースにしながら、あの怪我を経て、さらにその先へと進化しているはずだった。
手紙にあった『貴女の不規則なリズムさえも飲み込む「解答」』という言葉。
(白河さんが用意してくる解答は、きっと美咲が突いてきた私の弱点と同じ、その先にある……)
私の『波紋』が、相手の力を上書きする技術であるならば、白河さんは私の『波紋』の回転や軌道すらも事前に予測し、その不規則性すら「織り込み済み」のシステムを構築してくるに違いない。私が孤独になればなるほど、その心の隙を突くような、完璧な包囲網を敷いてくる。
今のままの、独りで頑ななだけの『波紋』では、白河こころの執念に飲み込まれる。
「……甘えてちゃ、ダメだ」
私は手紙を強く握りしめた。
美咲に突かれた弱点は、私が孤独に逃げ込んだ対価だ。ならば、その孤独さえも完全にコントロールし、美咲の泥臭いショットも、白河さんの完璧なシステムも、すべてを等しく置き去りにするほどの圧倒的な精度へ、この『波紋』を昇華させるしかない。
親友の優しさに涙を流す資格は、今の私にはない。
私は再び、剥がれかけていた冷徹な「仮面」を、今度は自らの意志で、さらに深く、心の奥底へと融着させていった。
翌朝、夏の暴力的なまでの青空が合宿所を包み、長かった強化合宿はついに最終日の午前練習を迎えていた。
誰もが限界を超えた身体を駆り立て、コートには飛び散る汗と、悲鳴に近い叫びが交錯している。
「ラスト一時間! 各自、課題を明確にして打ち込め!」
坂上先生の号令が響く中、私は再び、美咲とネットを挟んで対峙していた。
「みゆ。……もう一回、勝負して。あんたがその頑なな仮面を外すまで、私は何度でも泥臭くあんたの足元を狙うから!」
美咲はラケットを強く握りしめ、前日のように、私の強い打球をいなすような緩いトップスピンを打ってきた。速度もパワーもない、しかし絶妙な深さで私のバックハンド側の死角へと落ちる、私の『波紋』を封じるための泥臭い一撃。
けれど、昨夜の葛藤を経て、私の深淵はすでにその綻びすらも取り込んでいた。
(ありがとう、美咲。あなたの優しさが、私の歪みを教えてくれた)
だからこそ、私はもう迷わない。
緩く死んだ打球がバウンドする瞬間、私は上体を極限まで低く沈めた。前日のように強引に上書きしようとはせず、ボールが持つ微小な慣性そのものを、ラケット面のミリ単位の角度調整だけで撫でるように捉える。
筋力には一切頼らない。純粋なテクニックと、絶対的な集中力がもたらす絶対零度の世界。
バウンドの頂点に達する直前、ボールの全ベクトルを私のラケットが完全に掌握した。
――シュッ。
前日とは比較にならないほど鋭く、そして静かな無機質の音がコートを支配する。
私が放った能動的な『波紋』は、美咲のネット際へ向けて放たれ、まるで生き物のようにネットの白帯を掠めて急降下した。
ポトリ。
昨日、美咲が私に見せたのと全く同じ、完璧にコントロールされたネットイン。不規則に転がるボールを前に、美咲は一歩も動くことができず、ただ目を見開いた。
「ゲーム、水瀬」
私が淡々と告げると、美咲はガクリと膝をつき、それから自嘲気味に、けれどどこか晴れやかな笑みを浮かべて天を仰いだ。
「……あはは、まいったな。弱点を教えたつもりが、一晩でそれすら自分の武器にしちゃうなんて……。本当に、あんたはとんでもないエースだよ、みゆ」
美咲は立ち上がり、汗を拭いながら私を真っ直ぐに見つめた。その瞳からは、もう悲壮な色は消えていた。ただ、孤独を選んだ親友の覚悟を、星和のエースとしての私の生き様を、完全に受け入れた強さが宿っていた。
「分かった。あんたがそこまで命懸けで孤高を貫くなら、私はその冷たい氷の壁を、後ろから全力で支える盾になる。……全国、絶対にこころさんを倒しに行こうね。あと、何を悩んでるか知らないけど耐えられなくなったら私を頼ること。いいわね」
「……うん。ありがとう、美咲」
仮面の奥で、私は心の底から小さく微笑んだ。
親友との『共鳴』を拒絶するのではない。私は彼女たちの信頼を背中に背負い、その上で、誰も到達できない頂へ一人で立つと決めたのだ。
「よし、これにて夏合宿の全メニューを終了する!」
坂上先生の声が響き渡り、コートを支配していた殺気が一瞬にして霧散する。
部員たちが次々とコートに座り込み、お互いの健闘を称え合う中、私はラケットバッグを肩にかけ、校門の方へと視線を向けた。
ここからは、もう一歩も退けない実戦の舞台が始まる。
夏の大会、地区予選。そしてその遥か先にある、全国大会、西園寺学院・白河こころの待つ決勝のコート。
(待っていてください、白河さん。貴女の完璧な『論理』を、私のこの研ぎ澄まされた『深淵』で、完全に飲み込んでみせる)
海の向こうで世界と戦う陽太や湊兄さんに負けないように。
水瀬家の血の運命をこの胸に抱き抱えたまま、私は一人、真夏のぎらつく陽光の中へと歩き出した。星和学院の、誰も触れることのできない絶対的なエースとして、その進撃を開始するために。




