孤高の夏、去りし日の幻影
世界リーグへと旅立った三人を見送ってから、星和学院の日常はさらに加速していった。
容赦なく照りつける太陽と、蝉の時雨。期末テストの慌ただしさを機械的にこなしているうちに一学期は終わりを告げ、本格的な夏休みが幕を開けた。
けれど、今年の夏休みは、これまでのどの夏とも決定的に違っていた。
例年通り、テニス部は夏の強化合宿を迎えていた。
しかし、コートに湊兄さんの姿も、コートの端から「みゆ、いくぞ!」と活気ある声を飛ばしてくる陽太の姿もない。今は遠い海の向こうで世界を相手に戦っている。
「……みゆ、ちょっと休憩にしない? さすがに飛ばしすぎよ」
美咲が、汗を拭いながら心配そうに声をかけてくる。
「ううん、私は大丈夫。まだ打てるから、次の球出しをお願い」
私は冷淡な声で返し、再びラケットを構えた。
男子中等部を引っ張る佐久間部長や田中くん、岡田先輩たちも、陽太に留守を託された責任感から死に物狂いで練習に励んでいる。ならば、女子のエースである私が足を止めるわけにはいかない。
先週の他校との練習試合でも、相手に一本のゲームも与えず6-0で完封した。その時も私は、新しい波紋を一度も実戦で披露していない。
『みゆ、まだあの波紋は使わないの? 』
美咲にそう尋ねられたときも、私は『ギリギリまで秘匿にしておくつもりだよ』とだけ答え、牙を隠し続けた。すべては、白河こころとの再戦のため。
世界リーグという最高峰の戦場で戦っている彼らに、恥じない自分であるために。私は孤独な戦いの中で、自らを追い込み続けていた。
夕暮れ時、誰もいなくなった合宿所のコートに一人残り、サーブ練習を繰り返す。
ボールがラケットに当たる乾いた音を聞きながら、私の脳裏に、ふと一年前の夏の記憶が鮮烈に蘇っていた。
(去年は……みんなで九十九里に行ったんだよね)
暴力的なまでの快晴に焼き尽くされていた、一年前の合宿三日目。
あの時の湊兄さんは、坂上先生の課題で左手でのラケットワークを物にするため、大野部長の猛攻を前に、前髪から滴る汗が目に入っても瞬き一つせず、精密機械のようにボールを屠っていた。
陽太は湊兄さんから授けられた「眼」の試練に挑み、佐藤くんの鋭いモーションからロブを完璧に「視て」捉え、野性的な執念で渾身のスマッシュを叩き込んでいた。
女子コートでも、私と美咲がダブルスで莉奈や奈緒と火花を散らし、言葉を交わさずともお互いの筋肉の動きでカバーし合う「共鳴」を泥臭く練り上げていた。小休止の合間に、莉奈から「さっき湊先輩のことチラッと見なかった?」とからかわれて、赤くなって否定した、あの青い時間。
そして何より、あの日の午後の自由時間――。
莉奈と美咲に勧められて着た、眩しいほどの「純白」の水着。肌を焼く太陽の下、陽太は顔を真っ赤に染めながら「凄く、綺麗だ。眩しくて、直視できないくらいだよ」と、私を一人の女の子として真っ直ぐに見てくれた。
けれど同時に、逆光の岩場の影から、極限まで温度を失った声で私を凝視していた湊兄さん。私の水着の白さを、露出した背中の線を記憶に刻み込もうとするかのような、兄としてはあまりに鋭すぎる冷徹な独占欲。
その夜、サプライズの誕生日会で高城部長のケーキに耳まで赤くして照れていた湊兄さんは、ウッドデッキの暗い闇の中で、私の肩に手を置き、低く震える声で囁いたのだ。
『お前が成長していくのが、怖いんだ』
『お前を任せられる男など、そう簡単に見つかるとは思えないからな』
あの時、薄い布団の中で、血の繋がらない「男と女」として兄の心に消えない楔を打ち込めたのかもしれないと自問し、自分の残酷さに「最低だ、私」と泣いた、あの苦しくも眩しかった九十九里の夜。
「……思い返しても、もう意味はないのにね」
ぽつりと言葉を漏らし、私はトスを上げた。
美しかった思い出も、あの時二人が私に注いでくれた異なる熱も、今の私にとっては心の肉を削る刃でしかない。感傷に溺れれば、「仮面」が割れてしまう。
鋭いスイングから放たれたサーブは、サービスエースのコースへと正確に突き刺さった。
去年の九十九里に咲いた、無邪気だった私。
私はその幻影を振り払うように、暗くなり始めたコートで、再び次のボールを強く掴んだ。
合宿の夜は、昼間の暴力的な熱気を吸い込んだアスファルトが、じわじわと不快な熱を放ち続けていた。
女子部員たちの割り当てられた大部屋に戻ると、そこには去年の九十九里のような、華やかで無邪気な喧騒はどこにもなかった。
「みゆ、本当に大丈夫?……今日のストローク、見てるこっちが怖くなるくらい尖ってたよ」
浴衣に着替えた美咲が、冷たい麦茶の入ったコップを差し出しながら、気遣うように顔を覗き込んできた。
部屋の畳の上では、莉奈や奈緒、他の部員たちもストレッチをしながら、どこか私を遠巻きに、伺うような視線を向けている。
「うん、ありがとう美咲。でも、これくらいやらないと、西園寺の背中は見えてこないから」
私は麦茶を受け取り、一口だけ口に含んで淡々と答えた。
その突き放すような、けれど義務を遂行するだけの冷徹な声に、部屋の空気が一瞬でカチリと凍りつくのが分かった。
去年なら、練習が終わればすぐに「陽太くんのあのスマッシュ凄かったね!」とか、「湊先輩のあの左手、もう完璧じゃない!?」と、莉奈たちと恋バナや他愛ない噂話に花を咲かせていたはずだった。
けれど、今の私は自分からその輪に入ることはない。誰も寄せ付けない孤高のエースという仮面は、他校の偵察だけでなく、一番近くにいる親友たちに対してすら、強固な防壁として機能してしまっていた。
美咲は小さくため息をつき、「無理だけはしないでね」とだけ言って、莉奈たちのいる車座へと戻っていった。
遠くから聞こえる、彼女たちの抑え気味の笑い声。私はそれをBGM代わりに聞きながら、一人ベッドに横たわり、天井の木目を見つめていた。
女子部が私の圧倒的なワンマン体制に移行しつつある一方で、男子中等部のコートは、文字通りの死闘が繰り広げられていた。
陽太という大黒柱を欠いた状態で夏の予選を勝ち抜かなければならない佐久間部長や岡田先輩の焦燥は、傍から見ていても痛々しいほどだった。
「瑛太! バックハンドが甘い! 陽太なら今の球、完全に回り込んで叩き込んでるぞ!」
「健二、お前もだ! 足が止まってる!」
昼間の練習中、佐久間部長の怒号が何度もコートに響いていた。
陽太のライバルである田中くんも、佐藤くんも、全身から滝のような汗を流し、シューズのソールをハードコートに激しく擦りつけながら、泥臭くボールを追いかけ回していた。
彼らもまた、戦っていたのだ。世界へと旅立った陽太が「お前らなら絶対に勝ち抜ける」と信じて託してくれた、その信頼に命懸けで応えるために。
(みんな、前を向いて走ってる……。陽太の残した光を、繋ごうとしてる)
それに引き換え、私のこの冷徹さはどうだろう。
陽太を突き放し、湊兄さんの呪縛を受け入れ、ただ一人で闇の中に引きこもって牙を研いでいる。
これが本当に、星和のエースとしての正しい姿なのだろうか。
大部屋の電気が消され、部員たちの規則正しい寝息が静かに響き始める。
けれど、私の冴え渡った脳裏から眠気は遠く、胸の奥で燻り続ける熱を冷ますように、私はそっと布団を抜け出した。
静まり返った合宿所の廊下を通り、誰もいない夜のベランダへと出る。
遮るもののない夏の夜空には、満天の星が冷たい光を放っていた。生温い夜風が髪を揺らす。この空のずっと先、時差の向こう側にある海の向こうで、湊兄さん、陽太、そして蓮さんは今、世界リーグという極限の戦場に身を投じている。
スマホを開くと、世界リーグの速報画面が目に飛び込んできた。
『日本代表、激戦を制す。河村陽太、世界リーグ初戦で鮮烈な勝利』
画面に映る陽太は、ユニフォームを汗で濡らしながらも、夏の太陽よりも眩しい、濁りのない笑顔で世界を相手に拳を突き上げていた。その隣には、彼らの戦いを冷徹なまでにコントロールしたであろう湊兄さんの、誇らしげな背中が映っている。
「……やっぱり、凄いな。陽太は」
ぽつりと言葉を漏らした私の声は、夜の静寂に吸い込まれていく。
陽太は有言実行の男だ。私を引っ張り上げると誓ったあの日から、彼は世界の荒波の中で、さらに眩しく、強大な光となって進化し続けている。湊兄さんもまた、世界の頂点を確実に見据えている。
あの日、一月の冷え込む河川敷で、湊兄さんのフルパワーに何度も何度も泥臭く立ち向かい、「絶対に認めさせて、お前を守れるくらい強くなるから」と震える手で笑った陽太。
その姿を少し離れた場所から見守りながら、陽太に「みゆを任せられる男になれ」と無言で問い続けていた、厳格な兄としての湊兄さんの意志。
二人が私に注いでくれた熱は、いつだって本物だった。けれど、彼らの光が強くなればなるほど、私の足元に伸びる水瀬家の影は深く、濃くなっていく。
バッグの奥から、一月の中旬に届いたあの白い封筒を取り出す。
西園寺学院の白河こころ――あの日、私の不規則な「波紋」によって論理を破壊され、膝にヒビを負いながらも、病室のベッドの上から端正な筆致で手紙をくれた、私の最大にして最高の宿敵。
『貴女に負うべき責任があるとするならば、それはただ一つ。
夏の全国大会、その決勝のコートに、最高の状態で立っていること。
西園寺の「部長」として、貴女を絶望させるその日を楽しみにしているわ』
同情も憐れみも拒絶し、お互いのすべてをぶつけ合う剥き出しの「真実の続き」だけを求めてきた彼女の言葉が、今も私の魂を激しく揺さぶる。
白河さんは約束通り、鳳仙さんの常識を塗り替え、私のリズムさえも飲み込む「解答」を用意してあの決勝のコートで待っているはずだ。
「白河さん。私は、約束を破らないよ……」
手紙をそっと胸に抱きしめる。
私が背負うべきは、湊兄さんや陽太のような華やかな栄光ではない。
神崎夫妻の隠された犠牲、水瀬家の血の運命を受け入れ、星和の留守を守り抜き、あの全国大会の決勝の舞台へ辿り着くこと。
「陽太が世界で強くなるなら……私は、ここで誰も寄せ付けない深淵になる」
隠し続けている自生する『波紋』の牙を研ぎ澄まし、私はただ一人、白河こころの待つ全国大会へ向けて突き進む。
私はゆっくりと目を開けた。その瞳からは一切の迷いが消え去り、夜空の星々さえも凍りつかせるような、冷徹な絶対零度の光が宿っていた。
夏の夜風が、私の熱をすべて奪い去っていく。
私は一人、静かにベランダを後にした。白河こころを打ち倒し、星和に絶対的な勝利を捧げる――真の「孤高のエース」として、この夏を、私の戦場を戦い抜くために。




