旅立ちの空、残された境界線
カレンダーのページがめくられ、季節は本格的な夏へと突入していた。
七月に入ると、星和学院のテニスコートを包む空気はより一層の熱を帯びるようになった。
世界リーグの開幕に向けて日本を旅立つ、湊兄さん、陽太、そして蓮さん。その出発の日は、七月十四日に決定していた。
三人との極限の調整を経てから、私の中の「波紋」は、誰も寄せ付けない絶対的な凶器へと変貌を遂げていた。
出発を目前に控えた七月上旬、私たちは他校との合同練習試合を行っていた。
『ゲーム、水瀬。シックス、ラブ!』
コートに響く審判のコール。対戦相手の女子選手は、コートに膝をついたまま、呆然とラケットを握りしめていた。スコアは6-0。一本のゲームすら与えない、文字通りの完封だった。
しかし、私はこの試合中、放課後のコートや河川敷の練習で掴んだ、自生する「波紋」を一度も実戦で披露していなかった。
相手の球威を見極め、その速度のベクトルを自らのテクニックだけで超高回転へと「上書き」するあの技術は、白河こころという最大の壁を穿つための、私だけの秘策。
今の私は、ただ正確無比なプレースメントと、従来のカウンターとしての「波紋」だけで、他校のエースを圧倒していた。
「……ありがとうございました」
私は息一つ乱さず、冷ややかな一礼を捧げてコートを後にした。
「みゆ、あんた……強すぎるわ。一本も与えないなんて」
ベンチに戻った私に、同じクラスの美咲が少し気圧されたような表情でスポーツドリンクを渡してくれた。美咲は、放課後のコートで私が試行錯誤の末に完成させた、あの異質な打球の威力を知っている。
「……でも、あの『波紋』は使わないの? ほら、あの時私に見せた、自分で回転をかける凄い奴」
美咲の純粋な疑問に、私はタオルで汗を拭いながら、小さく首を振った。
「……まだ、その時じゃないから。本番まで、誰にも見せるつもりはないよ」
淡々と答える私を、少し離れた場所から陽太がじっと見つめているのに気づいていた。その瞳には、私の進化に対する驚嘆と、それ以上に、手の届かない場所へ行ってしまった私への深い焦燥が滲んでいる。
けれど、私はその視線から意図的に目を逸らし、ラケットバッグのファスナーを閉めた。
そして迎えた、七月十四日の放課後。
世界リーグへ旅立つ三人を見送るため、中等部・高等部合同のテニス部員全員が星和学院の中等部のテニスコートに集まっていた。
この直後には、世界へ羽ばたく三人を除いたメンバーで挑む、地区大会の予選が控えている。
すでに高等部所属である湊兄さんと蓮さんは、一歩引いた位置から静かに後輩たちの様子を見守っている。中等部の部員たちから熱いエールを受け、その正面に立って応えるのは、中等部最高峰のプレイヤーとして世界へ挑む陽太の役目だった。
「陽太、世界リーグ、俺たちの分まで暴れてきてくれよ!」
「留守中の星和は、絶対に俺たちが守り抜くからな!」
佐久間部長や岡田先輩をはじめとする先輩方、そして2年のライバルである田中瑛太や佐藤健二たちが、陽太の周りを取り囲んで次々と力強い声をかける。
陽太はいつもの真っ直ぐな瞳を輝かせ、集まった中等部の仲間たち一人ひとりの顔を見つめ返すと、ぐっと拳を突き出した。
「佐久間部長、岡田先輩、中等部の予選は任せました! 瑛太も健二も、俺がいないからって油断すんなよ。お前らなら絶対に勝ち抜けるって信じてるからな!」
その言葉には、固い絆で結ばれた仲間への絶対的な信頼が溢れていた。陽太は一度言葉を区切ると、さらに闘志を燃やすように微笑む。
「俺も世界を相手に、自分の全力をトコトンぶつけてくる。日本に帰ってきたとき、さらに強くなったみんなと会えるの、めちゃくちゃ楽しみにしてるから!」
陽太の濁りのない光と力強い言葉が、夏の予選を控えた中等部員たちの士気を一気に跳ね上げる。
私は、歓声に沸く部員たちの最前列、けれど陽太の正面からはわずかに外れた位置で、静かにそのまばゆい姿を見つめていた。
(いよいよ、行ってしまうんだね……)
神崎夫妻の犠牲、母の日記、臨戦の覚悟。そのすべてを背負うと決めたあの日から、私は陽太との間に、これ以上ないほど完璧な境界線を弾き続けてきた。
世界へ向かう彼らの背中を見送るために、私はここで「星和の絶対的なエース」として、牙を隠したまま孤独な戦いに身を投じる覚悟を改めて固めていた。
歓声と拍手に包まれた壮行会が幕を閉じ、部員たちはそれぞれのコートや部室へと散っていった。遠くから佐久間部長や田中くんたちの賑やかな声が遠ざかっていく。
私もまた、自分の荷物をまとめて校門へと向かおうとした。その時だった。
「――みゆ」
背後から届いた、少し低く、けれど真っ直ぐな声。
振り返ると、大きなラケットバッグを肩にかけた陽太が、夕日に照らされたフェンスの影に立っていた。出発の車が出るまで、あとわずか。彼は他のみんなと行くのを見送ったあと、私を待っていたのだ。
「陽太……。みんなのところ、戻らなくていいの? もうすぐ車が来ちゃうよ」
私は努めて、いつも通りの「チームメイト」としての完璧な笑顔を作った。今の私にとって、陽太の前に立つときは、この冷徹な仮面を被ることだけが唯一の防壁だった。
陽太は私のそんな余所余所しい態度に、一瞬だけ痛むように眉を寄せた。けれど、すぐに意を決したように、私との距離を一歩詰める。
「みゆ。俺さ、フロリダの時も、日本に戻ってきてからも、お前に追いつきたくて……お前と同じ景色が見たくて、必死で走ってきたんだ。でも……」
陽太は一度言葉を切り、きつく拳を握りしめた。彼の瞳には、世界へ挑むプロのプレイヤーとしての強い光と、それ以上に、手の届かない場所へ行ってしまった私への深い焦燥が混ざり合っていた。
「六月の終わりに、蓮さんたちとコートで打ち合った時から……いや、その前からずっと、お前はどんどん遠く、俺の手の届かないところに行っちゃった気がする。今日の練習試合だって、あんなに圧倒的だったのに……お前、全然嬉しそうじゃなかった」
陽太の野生的な本能は、私の本質を、私が抱える「歪み」を正確に見抜いていた。
私の新しい『波紋』は、誰も寄せ付けない代わりに、誰の温もりも受け入れない、孤独の証明だから。
「みゆが一人で何を目指して、何を背負い込もうとしてるのか、今の俺には分からない。お前が線を引いて、俺を中に入れようとしてくれないから」
陽太の声が、夕暮れのコートに切なく響く。その一言一言が、私の胸の奥に冷たく、鋭く突き刺さる。
(ごめんなさい、陽太。言えるわけがないよ。兄さんのご両親のことも、水瀬家の血の運命も……。あなたはただ、光の中で高く羽ばたいていればいいの)
「でも!」
陽太は顔を上げ、私の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「俺、世界リーグで絶対に結果を出してくる。世界中のバケモノみたいな奴らと戦って、誰よりも強くなって帰ってくる。だから……もし俺が、お前が背負ってるもの全部を受け止められるくらい強くなったら、その時は、隠し事なしで全部俺に話せ。お前のテニスも、その頑なな心も、俺が全部引っ張り上げてやるからな!」
それは、世界の果てから私を連れ戻しに来るという、あまりにも無謀で、あまりにも彼らしい、眩しすぎる誓いだった。
一瞬だけ、視界が滲みそうになる。ポケットの中で爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめ、私は涙を、恋心を、心の底の底へと押し込めた。
「……世界リーグ、頑張ってね、陽太。あなたが世界で大暴れするのを、楽しみにしてる」
私はただ、完璧な星和のエースとしての微笑みを浮かべ、それ以上の言葉をすべて、夕闇の中に葬った。
夕日の赤が引いていき、コートの隅々にまで濃い影が落ち始める。
陽太の眩しすぎる誓いは、私の胸に温かい熱を残したけれど、それを自らの手で冷たく押し殺した。私は一歩、彼から距離を取るように後ろへ退がった。
「私のことは、心配いらないよ。私は星和のエースとして、ここで自分の果たすべき役割を全うするだけだから」
感情の起伏を一切排した、静かで完璧な優等生のトーン。
それが、私が彼に掛けられる、精一杯の、そして最後の言葉だった。陽太は私の瞳にある、絶対に踏み込ませないという強固な拒絶の線を前に、ただ唇を強く噛み締め、それ以上言葉を重ねるのを諦めたようだった。
「――おい、陽太! そろそろ出発の車が出るぞ、早くしろ!」
遠く、校門の近くから、蓮さんの低く通る声が響いた。
陽太はハッとしたようにそちらを向き、それからもう一度だけ、私を振り返った。その瞳にはまだ、言い残したことが山ほどあるような揺らぎがあったけれど、彼はそれを引きずるようにして、強く頷いた。
「……じゃあ、行ってくる! 絶対に、強くなって帰ってくるからな!」
陽太は翻り、夕闇に溶けかけるアスファルトを力強く蹴って走っていった。その広い背中を、私はただ直立したまま、じっと見つめていた。
遅れて校舎から出てきた湊兄さんが、すれ違いざまに私の隣で足を止めた。湊兄さんは私の顔を一瞥し、すべてを察したように、私の肩に大きな手を優しく置いた。
「みゆ。俺たちがいない間の留守を、頼んだぞ。……白河こころとの再戦、信じている」
「うん、兄さん。いってらっしゃい。自分のテニスを、世界に見せつけてきて」
「ああ、行ってくる」
湊兄さんは小さく微笑むと、蓮さんと陽太が待つ校門前の送迎車へと歩いていった。
バタン、と車のドアが閉まる鈍い音が響き、エンジン音が徐々に遠ざかっていく。三人の気配が星和学院から完全に消え去り、見えなくなるまで、私は一歩も動くことができなかった。
世界へ羽ばたく彼らを、私はこの日本で、誰にも破られない絶対的な盾として支え続ける。
彼らが背後を顧みず、ただ前だけを向いて戦えるように、私はここで不敗の象徴であらねばならない。それが、水瀬みゆとしての覚悟であり、血の運命を受け入れた者の生き方だ。
しんと静まり返ったコートを見つめる。
そこには、かつて陽太と無邪気に将来を語り合い、恋心に胸を躍らせていた私の残像が、夜風に吹かれて消えていくのが見えた気がした。
視線をコートの向こう、西の空――次の大会で必ず相まみえる、西園寺学院の方向へと向ける。
その暗闇の先には、西園寺と白河こころの約束が待っている。私が壊してしまった白河さんの膝。完治したとは連絡を受けているが、無理をしていないかだけが心配であった。
「……待っていてください、白河さん。私は、もうあの時のみゆじゃない」
ぽつりと呟いた声は、夏の湿った夜風にさらりと消えていった。
私の胸の恋心は、もう二度と開かない氷の檻の中。隠した牙を研ぎ澄まし、私はラケットバッグを強く握り直すと、誰もいない暗いコートを背に、一人で歩き出した。




