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神様の身代わり ―光の兄と、罪の妹―  作者: FERILU
第18章:共鳴の朝、あるいは訣別の予兆

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仮面の証明、交錯するベクトル

翌朝の通学路は、昨夜の雨の名残か、どこか冷ややかな空気に包まれていた。

私は湊兄さんの少し後ろを、歩幅を合わせるようにして歩いていた。いつもなら他愛ない会話を交わす時間だけれど、今の私には、湊兄さんの隣を歩くこの静寂こそが、唯一心を落ち着けられる居場所だった。


「――みゆ! 湊さん!」


背後から、聞き慣れた元気な声が響き、ローファーがアスファルトを蹴る急ぎ足の音が近づいてきた。

振り返ると、少し息を切らせた陽太が私たちに追いついたところだった。昨日の中庭での張り詰めた空気を残している私とは対照的に、陽太はいつも通りの、真っ直ぐな瞳で私を見つめてくる。その光が眩しくて、私はとっさに視線を少しだけ斜め下に落とした。


「おはよう、陽太。朝から元気だな」

湊兄さんが足を止め、穏やかに微笑む。


「おはようございます! ……あの、みゆ、体調はもう大丈夫か? ほら、一昨日の練習試合の後、ちょっと調子悪そうだったから……ずっと気になってて」


陽太は私の顔を覗き込むようにして、心から心配そうな声を出す。

一昨日の、あの苦しかった試合。そして昨日の、中庭での拒絶。陽太の優しさは、私の頑なな心を内側から溶かそうとする。けれど、私は制服のポケットの中でそっと拳を握り締め、自分に言い聞かせた。

(揺らいじゃダメ。私はもう、戻れないんだから)


「……うん。心配かけてごめんね、陽太。もうすっかり大丈夫だから」

努めて感情を抑え、優等生のような笑みを返す。私のその余所余所しさに、陽太の眉がわずかに曇った。


そんな二人の空気を感じてか知らずか、湊兄さんが陽太の肩をポンと叩いた。


「陽太。ちょうどいい、今日の部活の後、少し時間をくれ? みゆと打ち合って、調整の相手の続きををしてくれ。……それと、蓮にも声をかけてある」


「えっ、蓮さんもですか?」

陽太が驚いたように目を丸くする。


「ああ。みゆは一昨日は調子を落としていたが、昨日の夜、俺と打った時は見違えるような動きをしていた。能動的に回転とベクトルを操作する、新しい『波紋』の感覚を掴みかけている。だが、まだ俺の球威には身体が追いついていない。お前と打ち合うのが丁度いいんだ」


湊兄さんは一度言葉を区切り、より真剣な眼差しを陽太に向けた。


「それに、これはみゆのためだけじゃない。蓮の鋭いショットや、みゆの変幻自在な新技術と打ち合うことは、俺たちがこの後世界リーグへ向かう前の最終調整にもなるはずだ。俺たち挑戦は、もう始まっているからな」


湊兄さんの言葉に、陽太の瞳にプロのプレイヤーとしての熱い火が灯る。今朝、私から「距離を置きたい」と告げられたばかりの彼にとって、放課後にコートで対峙することは戸惑いもあったはずだ。けれど、世界リーグという目標、そして私のテニスの進化を前にして、退く男ではないことも分かっていた。


陽太は私のラケットバッグを見つめ、力強く頷いた。


「……わかりました。みゆが新しいテニスを掴みかけてるなら、俺、全力で相手になります。蓮さんも一緒なら、これ以上ない最高の練習になりますし……みゆがどんなテニスをするのか、俺もしっかり肌で確かめたいです」


「助かる。期待している」


湊兄さんは満足そうに歩き出し、私もその後を追う。

通り過ぎる風が、私の髪を揺らした。


(ありがとう、陽太。でも、放課後のコートであなたが見るのは、あなたの好きな『みゆ』じゃない。世界へ羽ばたくあなたたちを支え、白河こころを倒すために、誰も寄せ付けない孤高の存在となった星和のエースとしての姿だよ)


私は隣を歩く陽太の気配を感じながら、放課後に向けて、心の仮面をより深く、強固に嵌め直していた。


放課後、河川敷のコートは、夕刻の陽光に照らされて、ピンと張り詰めた空気に満ちていた。

コートに集まったのは、私と陽太、そして湊兄さんに声をかけられた蓮さん。世界リーグという最高峰の舞台を間近に控えた三人の存在感が、コート全体の熱量を一気に引き上げているのがわかる。


「みゆ、あの後気持ちの整理はついたのか?」


ラケットを回しながら、蓮さんがいつもの鋭い眼差しで私を見てきた。その言葉の裏には、後輩を純粋に思いやる優しさが滲んでいる。


「はい、蓮さん。心配かけてごめんなさい。……今はもう、すごくクリアです」


私は努めて冷徹な笑みを浮かべ、ベースラインへと下がった。

隣のコートから、陽太がじっと私を見つめている気配がする。けれど、私はその視線に一度も応えることなく、ラケットを構えた。


まずは蓮さん、陽太、私の三人での変則的なラリーが始まる。

世界リーグへ向けた最終調整という名目があるだけに、二人の打球は最初から一線を画していた。蓮さんの放つ低く鋭いバックハンド、そして陽太の野生的なスピード。


昨日までの私なら、その「世界基準」の球威を前に、相手の力をいなして利用するだけの受動的なカウンターに終始していただろう。けれど、今の私の内側にあるのは、誰の力にも頼らないという、頑ななまでの決意だった。


「いくぜ、みゆ!」


陽太がベースラインから、得意の強烈なキックサーブを放ってきた。

フロリダで磨かれたその打球は、コートに弾けた瞬間に激しく跳ね上がり、大きく外側へと逃げていく軌道を描く。相手の力を利用しようとすれば、その独特な多軸回転にこちらの面を狂わされる、一級品のサーブ。


(――見極める。球速も、跳ねる角度も、すべて私の支配下におく)


私は逃げるボールに対して一歩深く踏み込み、打点が頂点に達する一瞬を捉えた。

ラケット面を極限の角度で固定し、手首のしなりだけで、陽太の放った縦回転のベクトルを、瞬時に「前進かつ急降下」の超高回転へとスライドさせる。手応えは、昨夜の河川敷で湊兄さんの球を捉えた時よりも、はるかに鮮明だった。


シュ、と乾いた風を切る音が響く。

陽太のキックサーブの威力をそのままに、軌道だけを完全に書き換えられたボールは、ネットを越えた瞬間に直角に落ちるかのように急降下した。


「っ……な、んだいまの!?」


前線へ詰めようとしていた陽太が、目の前で文字通り「沈んだ」打球に驚愕し、目を見開く。体勢を崩しながらも辛うじてラケットを合わせたが、ボールは力なくネットに突き刺さった。


「いまの……相手の回転を殺すんじゃなくて、自分の意志でベクトルの方向を上書きした……?」


ネット際で見ていた蓮さんが、息を呑むのがわかった。

誰の力も借りず、私自身のテクニックだけで能動的に生み出し、コントロールする「波紋の極致」。


「……もう一本、お願いします」


私は表情を一切変えず、冷たい声で陽太にボールを求めた。

陽太は呆然と立ち尽くし、私のその凍りついたような瞳の奥に、言葉にならない違和感を抱き始めているようだった。


夕日がコートを赤黒く染め上げていく。

乱打戦が続くにつれ、ラリーの応酬は「調整」の域を遥かに超え、実戦さながらの緊迫感を帯びていった。蓮さんの精密機械のようなショットと、陽太のどこまでも高く跳ぶ野生的な躍動。その二人の「世界基準」の猛攻を、私は新しく手に入れた冷徹な『波紋』だけで、淡々と、完璧に捌き続けていた。


「――お前……本当にみゆなのか!?」


激しいラリーの最中、陽太が息を荒くしながら叫んだ。

彼のコートから放たれる打球には、今朝の拒絶に対する戸惑いや、私を元の世界へ引き戻そうとする必死のメッセージが込められている。けれど、私のラケットがそれを捉えるたび、陽太の熱い想いはすべて無機質な超高回転へと変換され、冷酷に足元へ突き刺さる。


「……何、陽太。私はここにいるよ」


「違う! お前のテニス、確かにめちゃくちゃ凄いけど……まるで氷の上で打ってるみたいだ! 相手を倒すことしか考えてないような、こんなの……俺の知ってるみゆのテニスじゃない!」


陽太の野生的な本能が、私のテニスに宿る「歪み」を、その冷徹さを敏感に察知していた。

ネットの向こうで息を呑む蓮さんも、私の表情から一切の感情が消え失せていることに気づいているはずだ。


けれど、これでいい。

陽太には、これからも濁りのない光の中で、世界の頂点を目指して高く羽ばたいてほしい。そのためには、私の抱える水瀬家の「暗闇」や、血の重みなんて、あいつの翼を折るだけの枷でしかない。


(私は、あなたの隣を歩く女の子には戻らない。世界へ向かうあなたたちを、後ろから絶対に崩れない盾として支えるだけ)


そして何より、私の前には西園寺の白河こころとの再戦が待っている。

湊兄さんの期待に応え、星和の絶対的なエースとして君臨するためには、生半可な甘えなどすべて切り捨てる必要があった。


「陽太、蓮さん。ラスト、一本お願いします」


私の凍りついた声が、静まり返ったコートに響く。

蓮さんが息を整えて鋭いストロークを放ち、それを陽太がボレーで繋ぐ。世界を狙う二人の完璧な連携。


私は一歩も退くことなく、身体の軸を寸分の狂いもなく固定した。ラケット面に触れた瞬間、二人の球威を完全に掌握し、今日一番の、自生する「波紋」を放つ。

打球は意思を持った生き物のようにネット際で急降下し、砂埃を上げて、二人のちょうど真ん中の、誰も追いつけない絶対的な死角へと沈んだ。


「……っ」


二人のラケットは、どちらも届かなかった。

静寂がコートを支配する。陽太は膝をつき、呆然と、けれど私のテニスの圧倒的な進化と、それと引き換えに失われた「何か」に、胸を締め付けられるような表情を浮かべていた。


「……ありがとうございました。すごく、良い調整になりました」


私は深々と一礼すると、一度も二人の瞳を見つめることなく、ラケットバッグを肩にかけた。

背中で陽太が私の名前を呼ぼうとした気配がしたけれど、蓮さんがそれを静かに止めるのがわかった。


夕闇が完全にコートを飲み込み、街灯が灯る。

水瀬みゆとしての恋心も、迷いも、すべてはこのコートに置いていく。

私は一人、夜の静寂へと歩き出した。白河こころを打ち倒し、星和の勝利を湊兄さんに捧げる、孤高のエースとなるために。


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