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神様の身代わり ―光の兄と、罪の妹―  作者: FERILU
第18章:共鳴の朝、あるいは訣別の予兆

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放課後の静寂、二人の領域

授業終了を告げるチャイムが鳴り響き、Bクラスの教室は一気に放課後の喧騒に包まれた。

私は机の中の荷物を機械的にまとめると、誰とも目を合わせることなく席を立った。


(……これで、良かったんだ)


四月のクラス替え。掲示板で河村陽太の名前がAクラスにあるのを見つけたとき、私は今年も彼と離れてしまったことをあんなに残念に思っていた。けれど今は、一日の大半を彼と同じ空間で過ごさずに済むことに、心から安堵している。


今朝の中庭で、私は彼との間に決定的な線を引いた。

今の私にとって、陽太の真っ直ぐな瞳は、私の抱える「嘘」と「罪」を暴き出す鋭い刃に等しい。顔を見れば、決意が揺らぐ。声を聴けば、逃げ出したくなる。


だから、違うクラスであることは、神様がくれたせめてもの慈悲なのだと、自分に言い聞かせながら廊下を歩いた。


更衣室で着替えを終え、女子テニス部が練習するコートに足を踏いれると、同じBクラスの美咲が、不思議そうに声をかけてきた。


「……みゆ、今日はどうしたの?ずいぶん慌ててたようだけど?」


いつもなら、Aクラスの陽太や莉奈、そして奈緒たちが合流するのを待ってから、賑やかにコートへ向かうのが私の日常だった。けれど、今の私からは、そんな柔らかな空気は一切消えていた。


「……大会が近いから。練習早く始めようとおもって、それと試したいこともあるし......」


淡々とした返答。美咲は一瞬戸惑ったように眉を寄せたけれど、すぐにラケットを構えてくれた。

「試したいこと?いいわね、私が相手してあげる」


練習が始まると、周囲の部員たちの間に微かなざわめきが広がった。

私から発せられる空気が、昨日までとは決定的に違っていたからだ。


これまでの私の「波紋」は、相手の打球の回転や威力を巧妙に利用し、それを増幅させて返すカウンターが主体だった。相手の力を借りる、いわば受動的な技術。


(……それじゃダメだ。相手に依存しているうちは、兄さんの理想には届かない)


私は美咲の放つ中速のフラットボールに対し、自ら回転を上乗せしようと試みる。

しかし、一回目、二回目と、ボールはネットに突き刺さるか、あるいはコントロールを失って大きくアウトした。


「みゆ? ……ちょっと力みすぎじゃない?」

美咲の心配そうな声が届くが、私は首を振って再び構える。


五回、六回。

球速というエネルギーを回転に変換しようとするが、ベクトルの方向が噛み合わない。ボールがラケット面で滑り、思い描く「沈み」が生まれない。


(もっと深く……。速度を殺さず、すべてを縦の回転軸へ移し替える……!)


九回目、惜しい感触があった。しかし、わずかにベクトルが横に逸れ、サイドラインを割った。

そして、十回目。


美咲が放った深いショットに対し、私は一歩前へ踏み込み、ボールが跳ね上がる頂点を見極めた。インパクトの瞬間、手首のしなりを極限まで使い、球速のベクトルを強引に垂直方向の超高回転へと「変換」させた。


スイングは淀みなく、それでいて鋭い。

放たれた打球は、ネットを越えた瞬間に物理法則を裏切るように急降下し、美咲の足元で砂埃を上げながら、あらぬ方向へと弾けた。


「っ!? ……嘘、今の、何……?」


美咲はラケットを振ることもできず、呆然とボールの行方を見送った。

相手の力が弱くても、私自身のテクニックだけで能動的に生み出す「波紋」。それは、私が、誰にも依存しない独立した武器を手に入れた瞬間だった。


「……もう一回」


私は表情を変えず、ただ次のボールを要求した。

周囲の部員たちが、私の背後に氷のような冷徹さを感じて、会話を止めるのがわかる。


私は孤独なエースとして、自らの殻を破り始めていた。

放課後、河川敷で待つ「あの人」の期待に応えるために。


部活動の終了を告げる笛が鳴り、私は一人正門へと急いだ。

背後から聞こえる賑やかな声に足を止めることはない。今の私には、甘い放課後の時間など、劇薬でしかないから。


星和学院から少し離れた一級河川の土手。夕刻の陽光を浴びてオレンジ色に燃える川面を背景に、そのコートはあった。ひび割れたコンクリートの地面に、錆びついたフェンス。そこには、既に湊兄さんがいた。


「……来たか、みゆ」


湊兄さんはネットの向こう側でラケットを弄んでいた。周囲の喧騒から切り離されたこの場所だけは、真空地帯のように静まり返っている。


「お待たせ、兄さん」


私はラケットバッグを下ろし、手早く準備を整えた。

コートに入り、湊兄さんと視線が交差する。湊兄さんは一瞬、訝しげに目を細めた。


「……何かあったか? 今朝のお前とは、雰囲気が違う。……いや、打ち方に迷いがなくなったのか」


湊兄さんは、私が陽太を想って揺れていたことを知っているし、本来は二人の仲を応援してくれていた。だからこそ、今の私の、どこか吹っ切れたような、それでいて冷徹な佇まいに違和感を覚えたのだろう。


「……兄さんの望むエースになるって、決めただけだよ」


「そうか。……吹っ切れたようだな。いいだろう」


湊兄さんはボールを一つ手に取ると、こちらを真っ直ぐに見据えた。


「みゆ。一度、俺の本気を出してみてもいいか? ……今のお前なら、大丈夫だろう」


「……っ。うん、お願い。受けて立ちたい」


湊兄さんの「本気」。それは世界リーグを視野に入れた、国内トップクラスの出力だ。

湊兄さんがトスを上げる。静止した空気。爆発的なインパクト音と共に、ボールが視界から消えた。


(……速い!)


一球目、二球目。ラケットを振ることすらできず、ボールは背後のフェンスを激しく叩いた。これが、世界を目指す人のテニス。私は驚愕し、同時に心が震えるのを感じた。さすが、私の目標とする兄さんだ。


三球目、四球目。ようやくガットに触れるが、重厚なベクトルに弾かれ、コントロールできない。


そして五球目。

私は部活で掴んだ「変換」の感覚を研ぎ澄ませた。湊兄さんの超速のベクトルに対し、力で対抗するのではなく、そのエネルギーをすべて回転軸へと捩じ込む。


――決まった。

放たれた打球は、ネット際で鋭く沈み、湊兄さんの足元で不気味に跳ねた。


「っ……! 今の波紋、自力で生み出したのか?」


湊兄さんは驚愕し、即座にその「新型」の波紋への対策を練るように構え直した。しかし、次に湊兄さんが放った、さらに威力を増した一撃を返そうとした瞬間――。


「あ……!」


凄まじい衝撃が腕を駆け抜け、私の手からラケットが弾き飛ばされた。コンクリートの地面に、乾いた音が響く。


「……今日はここまでにしよう」


湊兄さんはラケットを引き、穏やかな、けれど確かな眼差しで私を見た。

「今のショットは凄まじかったが、まだ体がその威力に追いついていない。無理をして壊しては元も子もないからな」


湊兄さんはコートを回り、私のラケットを拾い上げて手渡してくれた。


「明日、もう一度調整をしよう。……今度は陽太と打ち合ってみろ。今の鋭くなったお前のテニスに、あいつがどう反応するか、確かめておく必要がある」


陽太の名前を出され、私の心臓が小さく跳ねた。

「……わかった。明日、そうするね」


弾き飛ばされたラケットを握り直すと、指先に残る微かな痺れが、湊兄さんの放った一撃の重さを物語っていた。

河川敷には夜の気配が濃く漂い始め、街灯の冷たい光が、ひび割れたコートを等間隔に照らし出している。


「……兄さん、今の私、ちゃんと『エース』に見えたかな」


独り言のような私の問いに、湊兄さんはバッグにラケットを仕舞いながら、少しだけ表情を和らげた。

「ああ。今の『波紋』、不完全だったが完成したら脅威だな。相手の力を利用する波紋を警戒して力を抜いたとしても球速が別の形に変わって返ってくる。まったく、末恐ろしい自慢の妹だな」


その言葉は、本来なら私を一番に癒してくれるはずのものだった。けれど、今の私には、その「自慢の妹」という枠組みを守るための責任が、重く、けれど心地よい鎖となって身体に巻き付いてくる。


「陽太との調整、楽しみにしてるよ。あいつはお前にとって、最高の理解者であり、ライバルでもあるはずだからな」


湊兄さんは、私が今朝、陽太にどんな言葉を投げかけたのかを知らない。私たちが応援されていたからこそ、その期待を裏切るような真似はできない。

私はただ、「うん……頑張るね」と、嘘をつかないギリギリのトーンで答えた。


二人で土手を上がり、駐輪場へと向かう。

家までの短い道のり、湊兄さんは世界リーグの展望や、今後の練習メニューについて淡々と語っていた。私はその声を聞きながら、夕闇に溶けていく自分の影を見つめる。


(陽太と打てば、きっとまた私は揺れてしまう。……でも、それも明日で最後にする)


陽太との打ち合いは、私にとっての「卒業試験」のようなものだ。

彼の打球を、彼の想いを、すべてこの新しい「波紋」で受け流し、自らの意志で断ち切る。それが、私が湊兄さんのために、そして自分自身の贖罪のために課した試練。


「みゆ、お腹空いただろう。今日も姉さんが腕を振るって待ってるはずだ、帰ろう」


「……そうだね。お姉ちゃんの料理、楽しみ」


湊兄さんの背中を追いかけながら、私は一度だけ振り返り、今しがたまで立っていた暗いコートを見つめた。

そこには、かつて陽太と将来を語り合った「無邪気な私」の残像が、夜風に吹かれて消えていくのが見えた気がした。


家に着き、玄関の扉を開けると、温かな光と出汁の香りが私たちを迎えた。

「おかえり、二人とも! 練習、お疲れ様」

キッチンから顔を出したお姉ちゃんの笑顔は、昨日と変わらず慈愛に満ちている。


その平和な光景に、胸の奥が温かくなると同時に、冷や汗が出るような緊張感が走る。

この食卓を、この家族を、私は守り抜かなければならない。たとえ、私一人が真っ赤な嘘の中で生きることになったとしても。


「……ただいま、お姉ちゃん」


私は靴を脱ぎ、エースとしての仮面を脱ぐことなく、家族の輪の中へと足を踏み入れた。

明日の陽太との対峙を、冷徹な決意と共に胸に秘めて。


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