中庭の朝露、触れられない距離
朝の空気は、肌を刺すように冷たかった。
私はいつもより三十分早く家を出た。リビングのソファで昨夜の疲れを感じさせない顔でスポーツ新聞を読んでいた湊兄さんに、「先に行くね」と短く告げて。
通学路を歩く私の足取りは重い。制服のポケットの中では、スマートフォンが陽太からのメッセージを宿したまま、微かに熱を持っているような気がした。
(……私だけが、幸せになるなんてできない)
街路樹の隙間から差し込む朝日を眩しく感じながら、私は昨夜、暗闇の中で出した結論を反芻していた。
あの日記を知るまでの私は、陽太の手の温もりに溺れ、彼との未来を夢見ていた。けれど、今ならわかる。私たちが愛を囁き合ったその時間は、湊兄さんの奪われた過去と、両親の隠し続けてきた罪の上に咲いた、毒の花だったのだ。
私が陽太と結ばれ、笑い合う。それは、湊兄さんを「唯一の理解者」という孤独の中に置き去りにし、神崎夫妻の犠牲を忘却することを意味する。
(陽太を愛することは、兄さんを裏切ること。……そして、私自身の罪から目を背けることなんだ......)
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。陽太の屈託のない笑顔を思い出すたび、呼吸が浅くなった。彼が好きだ。今すぐにでも駆け寄って、昨日の涙の理由をすべて打ち明け、あの広い胸に顔を埋めてしまいたい。
けれど、私にはその資格がない。
「……兄さんのために、生きなきゃ」
自分に言い聞かせるように、私は呟いた。
湊兄さんが望む妹であり続け、役割を全うする。それが、この家に、この世界に留まることを許された私の、唯一の支払い方法なのだ。
けれど、学校の正門が見えてくると、決意は容易く揺らいだ。
陽太の顔を見たら、嘘が解けてしまうのではないか。
「別れよう」と言わなければならないことは分かっている。でも、今の私にはその一言を口にする勇気も、彼を私の絶望に巻き込まない自信もなかった。
(まだ……別れるなんて言えない。でも、前みたいには笑えない)
陽太には幸せになってほしい。私という泥濘に引きずり込まれるのではなく、もっと光の当たる場所で、純粋にテニスを愛して、笑っていてほしい。
その「幸せ」の中に、もう私の居場所はないのだと理解していても、彼を突き放す覚悟だけが、どうしても定まらない。
中庭へ続く石畳を歩く。
噴水の水音に混じって、聞き慣れた足音が聞こえてきた。
私は一度立ち止まり、制服の乱れを整え、唇を噛んで「水瀬みゆ」の仮面を強く意識した。
そこには、不安そうに中庭のベンチに座る陽太がいた。
噴水の水音が、静まり返った中庭に規則正しく響いている。
ベンチから立ち上がった陽太が、私を見つけるなり、安堵と不安が入り混じったような複雑な表情で駆け寄ってきた。
「みゆ……。来てくれたんだな」
陽太は私の数歩手前で足を止め、探るように私の顔を覗き込んだ。彼の瞳は、一点の曇りもなく私を案じている。その純粋な光に当てられるのが怖くて、私はとっさに視線を逸らしてしまった。
「……昨日のこと、ずっと考えてた。俺、フロリダから帰ってきて、お前に追いつくことばっかり考えてたけど……。昨日の試合中、みゆがあんなに苦しそうな顔をしてるのに、俺は打つのをやめられなかった。……ごめん。俺、自分のことばっかりで、お前のこと、全然見えてなかったんだ」
陽太の謝罪が、胸の奥を鋭く切り裂く。
違う。陽太は何も悪くない。湊兄さんの両親が亡くなった。その事実を隠して、昨日まであなたの彼女として笑っていた私が、一番汚いのに。
陽太は耐えきれなくなったように、一歩、私との距離を詰める。
「みゆ。俺は、みゆが好きだ。好きな子のためならなんだってしてやりたい。悩みがあるなら全部受け止めてやる。……俺、お前の力になりたいんだ」
陽太の剥き出しの言葉が、私の凍りついた心を溶かそうとする。その温もりを知ってしまえば、もう二度と「水瀬みゆ」には戻れなくなる。私は微かに身を引いて、その手を拒絶した。
「ありがとう、陽太。……でも、これは私の問題なの。兄さんも陽太も、誰も悪くないんだよ」
私は顔を上げ、無理やり微笑みを作った。
「それに、私は陽太の生き生きとしたテニスが好き。だから……不安にさせてごめんね」
今の私に、陽太と結ばれて幸せになる資格なんてない。
私の使命は、神崎夫妻の犠牲の上に成り立つこの「水瀬家」を守ることだ。湊兄さんの期待に応え、星和のエースとして君臨すること。西園寺の白河こころとの再戦を制し、勝利を湊兄さんに捧げること。そして、世界リーグへいく湊兄さんや、陽太、蓮さんを、影から支え続けること。
そのためには、この胸にある陽太への恋心は、邪魔なものでしかない。
「私ね、兄さんと話したの。兄さんは、自分が欲しかった才能を全部私が持ってるって言ってくれた。私の『波紋』は中学生ができる技術じゃないんだって、世界に通用する技術だって。……だから私は、その期待に応えなきゃいけない」
「みゆ……?」
「今は、誰かに甘えている時間なんてないの。私は、兄さんの望む最高の『エース』にならなきゃいけないから」
私は、自分の心が冷たく結晶化していくのを感じていた。陽太を愛する自分を、心の奥底に深く、深く封じ込める。
それが、陽太をこれ以上私の絶望に巻き込まず、彼に光の中でテニスをさせてあげられる、唯一の方法だと信じて。
陽太は何かを言いかけ、けれど私の瞳に宿る拒絶の固さに気付いたのか、開いた口をゆっくりと閉じた。中庭を吹き抜ける風が、私たちの間に横たわる、埋めようのない溝を象徴するように冷たく通り抜けていく。
「……わかった。みゆがそこまで覚悟を決めてるなら、俺は何も言わない」
陽太は絞り出すような声でそう言うと、無理に笑顔を作って見せた。その顔があまりに悲しそうで、私は心臓を素手で握りつぶされるような痛みを覚える。
(ごめんね、陽太。本当は、ずっとあなたの隣で笑っていたかった。でも、私はもう「女の子」ではいられないの)
陽太には、これからも光の差すコートで、誰の影も背負わずに高く跳んでほしい。彼が世界へと羽ばたく時、その翼が私の隠し持つ「血の重み」で折れてしまわないように。今のうちに、私は彼の手を離さなければならない。
「……じゃあ、もう行くね。予鈴、鳴っちゃうから」
私は一度も振り返らずに、校舎へと歩き出した。
背中に突き刺さる陽太の視線が熱い。けれど、一歩踏み出すごとに、私の中で「水瀬みゆ」というエースの仮面が、剥がれようのないほど強固に肌に張り付いていくのを感じていた。
校舎の長い廊下を歩きながら、私は自室の引き出しに隠した「逃げ場」のメモと、お父さんの日記を思い浮かべていた。
(祥子さん、見ていてください。私は、あなたが守ってくれたこの命を、兄さんのために使い切ります)
白河こころとの再戦。星和の勝利。そして、湊兄さんの悲願である世界リーグへの道。そのすべてを現実にするための「部品」に、私はなる。
恋心も、涙も、本当の自分も、すべてはこの朝の中庭に置いていく。
教室に入り、自分の席に座る。
窓の外には、先ほどまで陽太といた中庭が見下ろせた。そこにはもう、誰の姿もない。ただ、噴水の水しぶきだけが朝日にキラキラと輝いている。
私はカバンから教科書を取り出し、感情の消えた瞳で黒板を見つめた。
放課後には、湊兄さんとの二人きりの調整が待っている。
そこにはもう、迷いを見せる「妹」はいない。
ただ、勝利を約束する、氷のように冷徹なエースが立っているはずだ。




