兄の嫉妬、妹の祈り
「さあ、できたわよ。しっかり食べましょう」
お姉ちゃんの明るい声で、私たちは食卓を囲んだ。両親が不在の夜、湊兄さんは自然と一家の主のような落ち着きを持って座っている。その姿は、どこからどう見ても、誇り高き「水瀬家の長男」そのものだった。
「みゆ、これ。お前の好きな煮物だ。お母さんから、味付けを教わったって姉さんが言っていたぞ」
湊兄さんが取り分けてくれた小鉢を受け取る。
「……ありがとう、兄さん。おいしい」
「どうかしたか? 箸が止まっているぞ」
「……ううん、なんでもない。ただ、ちょっと練習のことを思い出してただけ」
私は精一杯の笑顔を貼り付けた。
湊兄さんは満足げに頷き、自分の食事を再開する。
この平穏を守るために、私は一生、この「演技」を続けなければならない。それが、祥子さんの最期の願いに応える唯一の方法なのだから。
食後、自室に戻った私は、窓の外に広がる夜の街を見つめていた。
街灯が点々と連なる景色は、まるで十四年前のあの夜、事故現場で点滅していたハザードランプの群れのようだった。
ふと、机の上に置いたスマートフォンが震える。
画面に表示されたのは、陽太からのメッセージだった。
『みゆ、今日はごめん。俺、自分のことばっかりで、お前のこと全然考えてなかった。明日の朝、少し早く学校行けるか? ちゃんと、二人で話したいんだ』
陽太の真っ直ぐな言葉が、今の私にはあまりにも眩しすぎた。
彼は、私が「水瀬家」という呪いに縛られ、血の海の上に立っていることなど、微塵も知らない。彼はただ、純粋に私を想い、隣に立とうとしてくれている。
(陽太……ごめんね。私はもう、あなたの知っている「みゆ」じゃないかもしれない)
私は返事を打てないまま、スマートフォンを伏せた。
その時、ドアが軽くノックされた。雫お姉ちゃんだろうか、それとも――。
「みゆ、入ってもいいか?」
湊兄さんの声だった。
私は慌てて涙を拭い、声を整える。
「……いいよ、兄さん。入って」
扉を開けて入ってきた湊兄さんは、トレーニングウェアから着替えたリラックスした姿だった。けれど、その瞳に宿る真剣な光は、コートにいる時と変わらない。
兄さんは私の学習机の椅子を逆手に引き寄せ、そこに腰を下ろした。
「……改めて、話がしたくてな」
湊兄さんの声は静かだった。夜の静寂の中に、その低いトーンが鋭く響く。
「今日の練習、蓮に言われたことは気にするな。だが、お前の『波紋』に迷いがあるのは事実だ。……みゆ、俺はな、実はお前にずっと嫉妬していたんだ」
予想もしなかった言葉に、私は思わず顔を上げた。湊兄さんは自嘲気味に口角を上げ、窓の外の闇を見つめている。
「俺が名付けた『波紋』……。あれは普通の中学生が生み出せるような技術じゃない。教えるたびに、お前は俺の想像を超えるスピードですべてを吸収していく。俺が何年もかけて、死ぬ気で練習してようやく掴みかけた感覚を、お前は軽々と、しかも自分のものとして昇華してしまうんだ」
「兄さん……」
「俺が喉から手が出るほど欲しかった才能を、お前は全部持ち合わせている。正直、指導しながらその圧倒的な成長力に、恐ろしささえ感じていたよ」
湊兄さんは視線を私に戻し、真っ直ぐに私を見据えた。
「だから、自信を持て。お前は俺の希望なんだ。お前がコートに立つことが、今の俺にとって最大の意味を持つ。明日、もう一度調整に付き合え。今度は陽太抜きで、俺とお前、二人だけでだ」
湊兄さんの言葉が、冷え切っていた私の心の隙間に、じんわりと温かな熱を注いでいく。
私は「加害者」の娘で、この家で笑っている資格なんてないと思っていた。けれど、湊兄さんは私を、一人のライバルとして、そしてかけがえのない教え子として必要としてくれている。
「……うん。わかった、兄さん。私、頑張るよ」
「ああ。……それとな、今日の料理も成長したな。大したものだ。また美味いもん作ってくれよ。楽しみにしてる」
「……っ、うん! いっぱい練習して、もっと美味しいの作るね」
湊兄さんに必要とされている。その事実だけで、私は自分がこの場所にいていいのだという、唯一の許可を得たような気がした。たとえそれが、嘘の上に築かれた関係だとしても、今の私にはそれが唯一の救いだった。
「じゃあ、ゆっくり休め。明日の部活が終わったらいつもの河川敷でやるぞ」
湊兄さんは椅子から立ち上がり、部屋の出口へと向かった。
扉に手をかけ、廊下へ出ようとしたその時――。
湊兄さんは背中を向けたまま、誰にも聞こえないような小さな声で、ぽつりと呟いた。
「……ったく、お前の泣く姿なんか、見たくないんだ」
その一言は、夜の静寂に溶けて消えてしまいそうなほど微かなものだった。
扉が静かに閉まり、足音が遠ざかっていく。私は暗闇の中で、湊兄さんに撫でられたわけでもないのに、頭のてっぺんが熱くなるのを感じていた。
一人になった部屋で、私はふと机の上に伏せていたスマートフォンを思い出した。
通知画面には、陽太からのメッセージ。
『明日の朝、少し早く学校行けるか? ちゃんと、二人で話したいんだ』
湊兄さんとの会話を経て、少しだけ呼吸が楽になっていた。いつまでも逃げているわけにはいかない。陽太は、私が本当の自分を隠してでも守りたい、大切な人なのだから。
私は震える指で、短い返信を打ち込んだ。
「明日の朝、中庭で待ってるね。私も、陽太に話したいことがあるの。おやすみなさい」
送信ボタンを押すと、心の中の霧がわずかに晴れた気がした。
明日からは、湊兄さんの望む最高の「水瀬みゆ」を演じ切り、そして陽太とも向き合う。
窓の外では、月明かりが静かにコートを照らしていた。




