綻びゆく安息、託された灯火
「……っ、う、ああぁ……っ!」
ベッドに顔を埋め、私は声を殺して泣き続けた。
脳裏には、夕暮れのコートで失望を隠さなかった湊兄さんの冷たい眼差しと、何も知らずに私を案じてくれた陽太の眩しい笑顔が交互に現れる。
そして、それらの背後に常に張り付いているのは、あの日記に記された「血の事実」だ。
私が産声を上げたあの豪雨の夜、神崎徹さんはハンドルを握ったまま息絶え、祥子さんは血を流しながら私を、そして私を宿した母を庇い抜いた。
その凄惨な生贄の儀式の末に、私はこの世に生を受けた。
(私は、幸せになっちゃいけなかったんだ……。私が笑うたびに、誰かの命の灯火を奪っているようなものなのに)
喉が焼けるように熱い。指先が震え、どれだけ涙を流しても胸の奥に溜まった泥のような罪悪感は一向に引かなかった。
どれほど時間が経っただろう。部屋の隅々に夜の気配が忍び寄ってきた頃、控えめなノックの音が響いた。
「みゆ? ……入るわよ」
返事をする余裕もなかった。扉がゆっくりと開き、お姉ちゃんが静かに入ってくる。彼女は床に散乱した荷物と、泣き腫らして震える私の背中を一目見るなり、すべてを察したように隣に腰を下ろした。
「……これ、お父さんとお母さんから託されたものよ」
お姉ちゃんが差し出したのは、一枚の古びたメモだった。今朝、急な仕事で数日家を空けると言って出ていった両親が、お姉ちゃんにそっと手渡していったものだという。
そこには、馴染みのない住所が記された手書きの地図と、父・健一の震える筆跡で、短いメッセージが添えられていた。
『どうしても耐えられなくなったら、ここへ来なさい。すべてを受け止めてくれる人がいる。』
「お父さんたちは、みゆがいつか真実に辿り着く可能性を、ずっと恐れていたのよ。……だから、もしその衝撃に耐えきれなくなった時のために、あなたの『逃げ場』を用意していたの」
お姉ちゃんの声は、悲痛な響きを帯びていた。
両親は、私が真実を知ることを拒みながらも、知ってしまった後の絶望までもを予測し、その先にある「救い」すらも用意していたのだ。そのあまりにも脆く、不器用な親心が、今の私には何よりも痛ましかった。
お姉ちゃんの手から渡されたメモは、私の指先で小刻みに震えていた。父が記した「逃げ場」という名の救い。けれど、それすらも今の私には、罪を上塗りする欺瞞のように感じられてならなかった。
「……お姉ちゃん」
私は掠れた声で、隣に座る姉を見上げた。お姉ちゃんは否定も肯定もせず、ただ悲しげに瞳を伏せた。
「……実はね、私、知っていたの。去年の誕生日の夜、アルバムを整理していた時……湊兄さんと私たちの間に、血の繋がりがないこと」
お姉ちゃんが息を呑むのがわかった。私は一年前の、あの凍りつくような夜の記憶を掘り起こす。陽太と付き合い始めた幸せの絶頂で、偶然目にしてしまった神崎家の記録。
「あの日、アルバムの中に兄さんの『赤ちゃんの頃』がどこにもないのを見つけて……。それで、お父さんの古いスクラップを見てしまったの。神崎夫妻の遺児を引き受けたっていう、書類の控えを。……だから、兄さんが養子なんだってことは、ずっと分かってた」
私は膝の上で拳を握りしめ、言葉を絞り出す。
「でも……まさか、こんなに残酷なことだなんて、思ってもみなかった。ただのご両親の急逝じゃなかった。私の誕生日に、私を、お母さんを庇って……そのせいで兄さんのご両親は亡くなったんだね。それを知らずに、私は……」
声を上げて泣きじゃくる私を、雫はたまらず抱きしめた。
「みゆ……。そこまで、一人で抱えていたのね。あの誕生日の夜、あなたが不自然に明るかったのは、そのせいだったの……?」
「……うん......お姉ちゃん、知ってたんだね。全部」
私は掠れた声で、隣に座る姉を見上げた。お姉ちゃんは否定も肯定もせず、ただ悲しげに瞳を伏せた。その沈黙こそが、この家全体が巨大な「秘密」の器であったことを物語っていた。
「……お父さんから聞いたのは、私が高校に上がった頃よ。みゆには、二十歳になるまで絶対に教えないでくれって懇願されたわ。……でも、あなたは気づいてしまった。あの日記を開いてしまったのね」
私はあの日記に刻まれていた、凄惨な夜の記憶を言葉に乗せた。
激しい豪雨。信号無視の車。即死だった神崎徹さん。そして、致命傷を負いながら私を庇い、最期に湊兄さんを託して息絶えた祥子さんのこと。
「祥子さんは……自分の命よりも、私とお母さんの無事を喜んでくれた。それなのに私は、何も知らずに十四年間も……笑って、テニスをして、湊兄さんに『妹』として甘えてきたの」
溢れ出した涙が、再び頬を伝い落ちる。
「私が産まれなければ、湊兄さんの本当の両親は死なずに済んだ。……この家にある幸せは、全部、私が奪ったものの代わりに与えられた偽物なんだよ」
「違うわ、みゆ。それは違う」
お姉ちゃんは私の肩を強く掴み、そのまま無理やり私を引き寄せた。彼女の細い腕が私の背中に回され、壊れ物を扱うような優しさで、けれど拒絶を許さない力強さで私を抱きしめる。
「祥子さんが最後に言った言葉、日記に書いてあったでしょう? 『みゆちゃん、湊と一緒に幸せになってね』って。……それは呪文じゃないの。祥子さんが、心からあなたに託した『願い』なのよ」
お姉ちゃんの心音を、耳元で近くに感じる。
「祥子さんはね、自分が守った命が、罪悪感で押し潰されることなんて望んでいなかったはず。あなたが湊と本当の兄妹のように笑い合える未来を信じて、あの子を水瀬家に託したの。……みゆ、あなたは誰からも、死んでいいなんて思われていないのよ」
「でも……っ、兄さんに申し訳なくて……! 兄さんの人生を奪った私が、このまま妹のフリをして笑っていていいの……?」
「だったら、その申し訳なさを、湊を幸せにする力に変えなさい」
お姉ちゃんの声には、いつになく厳しい、けれど確かな愛が宿っていた。
「あなたが壊れることは、祥子さんの死を無駄にすること。そして、湊の『居場所』を奪うことと同じなのよ。あの子が『水瀬湊』として笑っていられるのは、あなたが隣にいるからなの」
姉の胸の中で、私は子供のように嗚咽を漏らし続けた。
お姉ちゃんの体温が、凍りついた私の心に少しずつ熱を戻していく。
玄関のドアが閉まる音が、静まり返った家の中に重く響いた。
「ただいま」
聞き慣れた、けれど今の私には胸を掻きむしられるほど愛おしく、そして恐ろしい兄の声。
私は反射的に、制服の胸元をぎゅっと掴んだ。布越しに、あの深い青色のネックレスの輪郭が指先に伝わる。
「……兄さんが、帰ってきた」
私の呟きに、お姉ちゃんが抱擁を解き、静かに私の顔を覗き込んだ。泣き腫らした私の目元を、彼女は温かい指先でそっと拭う。
「みゆ、行ける?」
私は鏡に向き直った。そこには、赤く腫れた瞳と、蒼白な肌をした一人の少女が映っていた。去年の誕生日の夜、アルバムを隠したあの時と同じだ。私は再び、この顔に「水瀬みゆ」という仮面を貼り付けなければならない。
(私が壊れたら、兄さんの居場所がなくなる。お父さんたちの嘘も、祥子さんの最期の願いも、全部無駄になってしまう……)
私は冷たい水で何度も顔を洗い、無理やり頬を叩いて赤みを戻した。深呼吸を繰り返し、肺に溜まった罪悪感の澱を吐き出す。
「……うん。私、もう大丈夫。……ううん、大丈夫にする」
階下へ降りる階段の途中で、私は自分の足取りを確かめるように一歩ずつ踏みしめた。
リビングには、練習を終えて少し疲れた様子の湊兄さんが、ソファに腰掛けていた。私に気づくと、彼はいつものように穏やかな、けれど少しだけ心配そうな眼差しを向けてくる。
「……みゆ。今日は、悪かったな。少し言い過ぎた」
湊兄さんの言葉に、一瞬だけ視界が揺らいだ。
謝らなければならないのは私の方だ。あなたの人生を歪め、何も知らないまま「妹」として振る舞っている、この私。
けれど、私はその言葉を飲み込み、精一杯の「妹らしい」微笑みを浮かべた。
「ううん、兄さんの言う通りだよ。私、ちょっと集中できてなかっただけ。……明日からは、もっとちゃんとやるから。兄さんの期待に、絶対に応えたいの」
「そうか。お前がそう言うなら、信じよう」
湊兄さんの口元に、安堵の笑みが浮かぶ。
その笑顔を守るためなら、私はどんな嘘でも、どんな罪でも背負っていけると思った。
私はキッチンへ向かい、仕事で不在の両親に代わって、お姉ちゃんと夕食の準備を始めた。
包丁がまな板を叩く規則正しい音。湊兄さんがリビングでニュースを見る声。
一見すれば、それは昨日までと変わらない、平和な水瀬家の日常だった。
けれど、私のポケットの中には、父が遺した「逃げ場」のメモが眠っている。
(お父さん、お母さん。……私はまだ、そこへは行かないよ)
この家が神崎夫妻の犠牲の上に成り立つ「偽りの城」だとしても。
私が、湊兄さんの本当の両親を奪った「加害者」だとしても。
私は湊兄さんの光であり続ける。
それが、私の選んだ、十四歳の贖罪だった。
夕闇が完全に部屋を支配する中、私は窓に映る自分の、どこまでも不透明な瞳を見つめていた。




