歪む境界、エースの仮面
放課後、河川敷のテニスコート。沈みかけた夕陽がコートを長く引き伸ばし、オレンジ色の光が四人の影をアスファルトに焼き付けていた。
七月のリーグ戦を見据えた特別練習。湊兄さん、蓮さん、陽太、そして私。この四人が集まる空間は、いつもなら心地よい緊張感に包まれているはずだった。
練習の合間、湊兄さんはタブレットを手に私たちを呼び寄せた。画面に映し出されたのは、先日の修徳舘との練習試合のダイジェスト映像だ。
「この時のみゆの動きを見ておけ」
画面の中の私は、淀みのないフットワークでコートを駆け、精密なコントロールで相手を翻弄している。
(……あぁ、この時はまだ、何も知らなかったんだ)
映像の中の自分の瞳には、曇りひとつない勝利への渇望だけが宿っている。それは「真実」という猛毒に侵される前の、純粋な「水瀬みゆ」の姿だった。
「凄いな……」
隣で覗き込む陽太が、感嘆の声を漏らす。
「修徳舘のあの鋭い打球を、これだけ完璧にいなせるなんて。みゆ、やっぱりお前は本番に強いよ。俺、この試合を見て、もっとお前に追いつかなきゃって思ったんだ」
陽太の真っ直ぐな称賛が、今の私には鋭い棘となって胸を刺す。
何も知らない陽太。そして、自分の両親を死に追いやった原因である私を、誇らしげに指導する兄さん。
「だが」と湊兄さんは映像を消し、静かに、けれど有無を言わさない威圧感を持って告げた。
「修徳舘との試合で見せた実力は、もはやお前たちを測る基準にはならない。フロリダや西園寺合宿を経て、お前たちのステージは確実に一段上がった。もはや過去の自分をなぞるだけでは、成長は止まったも同然だ」
湊兄さんは、コートの左右に分かれるよう私たちを促した。
「陽太、みゆ。今から二人で打ち合え。俺が直接、一打ごとに調整を入れる。蓮、お前はライン際でそれぞれの打球の『質』を注視してくれ」
「了解だ」
蓮さんが短く応える。彼の低い声が、夜の湿った風に乗って私の耳をかすめた。
「行くぜ、みゆ! 誕生日のあとの初練習、最高のラリーにしようぜ!」
陽太がコートの向こう側で、眩しいほどの笑顔でラケットを構える。
私は、重い足取りでベースラインへと向かった。制服の下に忍ばせた青いネックレスが、一歩踏み出すごとに冷たく胸元を叩く。
「……お願い、兄さんの前でだけは、壊れないで」
私は誰にも聞こえない声で自分に言い聞かせ、震える指先でラケットを握り直した。
「行くぞ、みゆ!」
陽太の掛け声とともに、練習が再開された。
彼が放ったサーブは、フロリダでの経験を経て、重さと鋭さを増している。ベースラインで構える私の視界に、真っ直ぐに突き刺さるような弾道。
(……打たなきゃ。兄さんが見ている。私は、星和のエースなんだから)
私は脳内で「波紋」のイメージを構築しようとした。流体のようにしなやかに力を伝え、打球の衝撃を一点に収束させる――。
けれど、ラケットを振り抜こうとする瞬間に、昨夜の記憶が泥のように溢れ出した。
あの日記に書かれていた、。
――「みゆちゃん……。無事で、よかった……」
(……っ!)
イメージが霧散した。インパクトの瞬間、力が指先から逃げていく感覚。放たれたボールは「波紋」を帯びることなく、ただ頼りなく浮き上がり、コートの中央付近へ甘く入った。
「チャンス!」
陽太がその隙を見逃すはずもなかった。彼は鋭い踏み込みで前に出ると、強烈なフォアハンドを叩き込んでくる。
私は必死に追いすがろうとするが、足が鉛のように重い。
「……あれ?」
陽太の顔に、戸惑いと驚きが混じる。
「みゆ、今のはお前なら返せたはずだろ? ほら、もう一本行くぞ!」
ラリーが続くほど、格差は明確になっていった。
本来、私の「波紋」は陽太にとって最も苦手なタイプのはずだった。予測不能な回転と、重力に逆らうような軌道。けれど、今の私の打球にはその毒気が一切ない。
「……すげぇ、俺、フロリダで強い奴らとやり合ったからかな。みゆの打ち方が、すごくよく見えるんだ!」
陽太は次第に勢いづき、生き生きとした表情でコートを支配し始める。
彼にとっては、かつて届かなかった背中に手が届き始めたという、成長の実感。
けれど、私にとっては……自分の内側が音を立てて崩れていく、恐怖の時間だった。
「そこまでだ」
湊兄さんの冷ややかな声が、夕暮れのコートに響き渡った。
私はラケットを握りしめたまま、その場に立ち尽くす。湊兄さんの歩み寄ってくる足音が、死刑宣告の足音のように聞こえた。
「……みゆ。今のラリーは何だ。波紋が濁っているどころか、芯が完全に潰れている」
湊兄さんの瞳には、いつもの熱意ではなく、冷徹な失望の色が浮かんでいた。
「先週の修徳舘戦の映像が、まるで他人のものに見える。技術が退歩しているのではない。お前のスイングには『芯』がないんだ。相手に合わせ、ただ漫然と返しているだけだ」
「兄さん、私は……」
「言い訳は無用だ。陽太の成長に気圧されているのか? それとも、十四歳になった途端にその程度の覚悟になったのか」
湊兄さんの言葉が、鋭い刃となって私の胸を切り裂く。
湊兄さんが私を強くしようと注いでくれる情熱の源泉が、本当の両親の死という悲劇にあることを思うと、吐き気がするほどの罪悪感が込み上げてきた。
「湊さん、そんな言い方……! みゆはただ、ちょっとタイミングが合わなかっただけで、俺がフロリダで学んだことをぶつけたから……!」
陽太が必死に私の間に割って入ろうとする。
けれど、その時。
ネットの向こう側で沈黙を守っていた蓮さんが、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。
「陽太。お前が成長したのは事実だが、勘違いするな」
蓮さんは私のすぐそばまで来ると、すべてを見透かすような冷徹な視線で私を射抜いた。
昨夜、公園で私の嗚咽を聞いた彼だけは、この「波紋」がなぜ死んでいるのかを知っている。
「波紋が通じないのは、お前が強くなったからではない。……打ち手の中身が、空っぽだからだ」
蓮さんの言葉に、陽太が息を呑んだ。
「中身が空っぽ……? どういうことだ、蓮」
「言葉通りだ。湊、こいつは今、テニスをできる状態じゃない。これ以上続けさせても、お前の教えを泥にまみれさせるだけだ」
「……蓮、お前がそこまで言うのか」
湊兄さんが怪訝そうに蓮さんを見る。蓮さんは何も答えず、ただ私に向かって短く顎をしゃくった。
「今日はもう帰れ。自分が何のためにコートに立っているのか、もう一度考え直してこい」
「……っ、ごめんなさい」
私は絞り出すような声でそれだけ言うと、逃げるようにコートを飛び出した。
「あ、おい! みゆ!」
陽太が追いかけようとするのを、蓮さんの「放っておけ」という静かな制止が引き止める。
背後で、湊兄さんの重い溜息と、陽太の困惑した気配が遠ざかっていく。
部屋に駆け込み、一人になった瞬間、私は膝から崩れ落ちた。
(……ごめんなさい、兄さん。ごめんなさい、陽太)
制服の下に隠した青いのネックレスが、肌に冷たく食い込む。
湊兄さんが愛し、陽太が憧れる「水瀬みゆ」という仮面は、もう内側からボロボロに剥がれ落ちようとしていた。
蓮さんの言う通りだ。私の中には、もう一球に懸ける「意志」など残っていなかった。
私は一人、出口のない絶望の中で、ただ震える指先を握りしめていた。




