氷の眼差し、静寂を射抜く
二月六日。星和学院の朝は、痛いほどの冷気を孕んだ冬晴れとなった。
地平線から昇ったばかりの太陽が、校庭の霜柱を白く光らせ、アスファルトの上に長く硬い影を落としている。
私と湊兄さんは、午前七時半には「受験生案内」と書かれた黄色の腕章を制服の袖に巻き、指定された配置に立っていた。吐き出す息は驚くほど白く、指先はポケットに入れていてもすぐに感覚がなくなるほど冷え切っている。
校門の前には、今回の入試で試験官の責任者を務める数学科の主任教師、吉田先生が厳しい表情で立っていた。先生は集まったボランティアの生徒たちを見渡すと、眼鏡の奥の鋭い瞳を向け、低く響く声で告げた。
「……いいか、諸君。受験生にとって、この校門をくぐる瞬間が、今日一日のパフォーマンスを左右する。案内係が浮ついた態度を見せれば、それは受験生の動揺に直結する。君たちは今日、星和学院の『規律』そのものだ。私語を慎み、毅然とした態度で誘導にあたるように」
「はい!」
湊兄さんの返事が、凍てつく空気の中でも一切の震えを見せず、凛として響いた。内部進学が確定している湊兄さんは、正門の正面という、いわば「学校の顔」となる位置に陣取っている。私はそこから昇降口へ続くスロープの担当だ。
八時。吉田先生の合図で重厚な正門が静かに開かれると、待ちわびていた受験生たちが一斉に敷地内へと足を踏み入れた。
誰もが肩を窄め、使い込まれて端が丸まった参考書や単語帳を握りしめている。その表情には、期待よりも「失敗できない」という切実な焦燥が張り付いていた。案内に立つ私に会釈を返す余裕のある子は少なく、誰もが地面か、あるいはその先にある校舎だけを見つめて歩いていく。
(……みんな、この日のために頑張ってきたんだよね)
そんな受験生たちの波の中に、一際異彩を放つシルエットが見えた。
人混みに流されることなく、一定の歩幅と揺るぎない背筋のラインを保ったまま近づいてくる人影。
「……来た」
思わず声が漏れた。蓮さんだ。
いつも通りの端正な冬コートを纏い、マフラーを整えたその姿は、受験生というよりは、既にこの学び舎の主であるかのような風格さえ漂わせている。周囲の受験生たちが放つ「焦り」というノイズを、彼が歩く先から霧散させていくような、圧倒的な静潔。
校門前で、背筋を伸ばして立つ湊兄さんと、進みゆく蓮さんの視線が真っ向からぶつかった。
周囲の喧騒が、その瞬間だけ遠のいたように感じられた。
言葉は交わされない。けれど、湊兄さんの微かな口角の上がり方と、蓮さんの短く、けれど深い信頼を込めた頷き。それだけで、私には二人が何を交わしたのかが分かった。
(「……行ってこい、蓮」「……ああ、待っていろ」)
蓮さんが私の横を通り過ぎる際、一瞬だけ視線が重なった。
「いってらっしゃい、蓮さん」
「……行ってくる、みゆ。……昨日の雫さんのカレー、不思議とまだ身体を芯から温めてくれているようだ」
蓮さんの声は驚くほど凪いでいた。その澄んだ瞳の奥には、数分後に始まる「戦い」への高揚感さえ微かに宿っているように見えた。
彼が校庭を横切り、昇降口の奥へと消えていく背中を見送りながら、私は自分の胸の鼓動が激しくなるのを感じた。
「……よし。これで受験生は全員入場したな」
吉田先生の厳格な声が、静まり返った校門前に響いた。
八時半。試験開始を告げる予鈴が、冷たい空気をつんざいて鳴り響いた。
試験開始を告げるチャイムが校舎全体に鳴り響くと、それまでの喧騒が嘘のように引き、星和学院は静まり返った。吐き出す息の白さだけが、時が動いていることを証明している。
ボランティアの待機場所として割り当てられた小会議室。そこには、正門での誘導を終えた湊兄さんと、別の棟を担当していた陽太も合流していた。
「……なあ、今頃数学かな? 蓮さん、計算ミスとかしてないよな? あの人、たまに集中しすぎて周りが見えなくなるだろ?」
陽太はパイプ椅子に座っていられず、部屋の隅でそわそわと落ち着きなく歩き回っている。握りしめた拳には力が入り、時折、無意識にテニスのフットワークを踏むように踵を浮かせていた。
「陽太、落ち着け。お前がここでステップを踏んだところで、蓮の答案に数字は書き込まれないぞ」
湊兄さんが、魔法瓶から注いだ温かいお茶を啜りながら淡々と告げた。その態度は、嵐の前の凪のように恐ろしいほど落ち着いている。
「だってよ、湊さん! 蓮さんが来なきゃ、俺がずっと見たかった『湊さんと蓮さんの最強タッグ』が実現しないじゃないですか! 俺は高等部で暴れ回る二人の姿、絶対に見たいんです!」
陽太の瞳は、焦燥と期待で激しく揺れていた。彼にとって、湊兄さんと蓮さんが同じ星和のユニフォームを着てコートに立つ姿は、何物にも代えがたい「理想」なのだ。
「……信じるなら、最後まで静かに待て。あいつなら何も問題無い、順調に回答用紙を埋めているはずだ」
湊兄さんは窓の外、三階の試験室が並ぶ校舎を見つめ、静かに言葉を続けた。
「……今のあいつは、三年前の全日本ジュニアの決勝を戦っている時よりも研ぎ澄まされているはずだ。あの時交わした約束……同じ制服を着て、同じコートで世界を獲る。その第一歩が、あの教室の中にあるんだからな」
湊兄さんの言葉に、陽太はようやく動きを止めた。
私もまた、その視線の先にある静寂に包まれた校舎に思いを馳せていた。
吉田先生が試験官として見守る中、あの研ぎ澄まされた思考回路が、一問一問を確実に仕留めていく様子が目に浮かぶ。蓮さんは、もう迷っていない。私たちの信頼を、すべて力に変えて鉛筆を走らせているはずだ。
「……信じてる。蓮さんなら、絶対大丈夫」
独り言のように呟くと、湊兄さんが少しだけ口角を上げた。その信頼の深さは、同じ高みを目指す者同士だからこそ分かち合える、言葉を超えた絆そのものだった。
昼休みを挟み、午後の英語と国語。
太陽の光が少しずつ西に傾き始め、校舎の影が伸びていく。
長い沈黙の末、ついに全科目の終了を告げるチャイムが校内中に響き渡った。
その瞬間、校舎を包んでいた重苦しい沈黙が弾け、一気に「日常」の音が戻ってくる。
ボランティアの最後の手伝いとして、私たちは再び出口へと続くスロープや昇降口に立ち、受験生たちを誘導する。
どっと溢れ出してきた受験生たちの表情は、一様に解放感と不安が入り混じっていた。ある者は大きく溜息をつき、ある者は早足に校門を目指す。その濁流のような人波の最後尾近く、一際悠然とした足取りで歩いてくるシルエットが、私の瞳に映った。
「……あ、蓮さん!」
思わず声を上げそうになった陽太を、隣にいた湊兄さんが「待て」と片手で制した。
蓮さんは私たちの前まで来ると、一度足を止め、冷たい冬の空気を深く肺に吸い込み、ふう、と白い息を吐き出す。その表情には、長時間に及ぶ集中による消耗よりも、持てるすべてを白紙の答案にぶつけ切った者だけが持つ、清々しい輝きが宿っていた。
「……お疲れ、蓮」
湊兄さんが、今日初めて、少しだけ柔らかな声をかけた。
「ああ。難解な『問い』が並んでいたよ、湊。……だが、確かな手応えがあった。何も問題ない」
蓮さんはそう言って、私たち一人一人の顔を静かに見つめた。その瞳は、朝の冷徹な氷のような鋭さを残しつつも、どこか穏やかな熱を帯びている。
「……君たちが外で待っていてくれると思うだけで、不思議と指先が迷わなかったんだ」
「よっしゃああ!」
陽太が、声を殺しながらも力強くガッツポーズを作った。その瞳は、憧れの先輩がやり遂げたことへの歓喜で潤んでいる。
「これで……これでようやく、同じ星和の生徒になれますね! 湊さんと蓮さんの最強タッグ、俺、絶対に見たいんです!」
「……合格発表は数日後だ。気が早いぞ、陽太」
蓮さんは少し困ったように苦笑いしたが、その視線はすでに、春の校庭を、そしてその先にある湊兄さんと同じコートを見据えていた。
「帰ろう。姉さんが、お前の『戦果』を待っている」
湊兄さんの促しに、蓮さんは「ああ」と短く、けれど力強く頷いた。
帰り道。夕日に照らされた住宅街の坂道を、四人でゆっくりと歩いていく。
蓮さんの横顔は、もはや「帝都の主将」という重圧からも、受験勉強という孤独な戦いからも解放され、一人の「挑戦者」としての誇りに満ちていた。
「……最高のチームになるね。兄さんも、蓮さんも……もちろん、陽太も」
私の呟きは、冬の夕風にかき消されたけれど、心の中には確かな春の予感が芽生えていた。
水瀬家の門灯が見えてくる。そこには、温かい食事と、私たちの帰りを待つ完璧な「守護者」が、いつものように微笑んで立っているはずだった。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
蓮の受験完了です。
次は、合格発表:掲示板の前に立つ四人と、届いた報せ。そして合格発表のため、
帝都附属大中学に戻る内容です。




