冬の灯火
水瀬家の玄関を開けると、出汁の効いた優しい香りと、炊き立てのお米の匂いが私たちを包み込んだ。河川敷の刺すような寒風と、コート上のヒリつくような緊張感。それらから一気に解放され、冷え切った身体が内側から解けていくのを感じる。
「おかえりなさい。ちょうど出来上がったところよ」
キッチンから現れたお姉ちゃんは、糊のきいたエプロン姿で、一点の曇りもない微笑みを浮かべていた。ダイニングテーブルには、彩り豊かな煮物、脂の乗った焼き魚、そして湊兄さんや陽太の体力を考慮したボリュームのある肉料理が、まるでお手本のように整然と並べられている。
「ただいま、お姉ちゃん。……蓮さんは?」
「二階の書斎よ。湊の部屋だとテニスの道具が目に入って集中できないからって、今日はあっちで。……蓮くん、夕飯ですよ!」
お姉ちゃんの呼びかけに応じるように、階段を降りてくる規則正しい足音が聞こえた。現れた蓮さんは、瞳に少しだけ疲労を滲ませていたが、私たちの姿を見ると、いつもの穏やかな表情に戻った。
「おかえり。……その顔を見ると、部活で、相当いい『収穫』があったみたいだね」
「ああ。蓮も、模試の判定は順調なんだろうな」
湊兄さんの問いに、蓮さんは苦笑しながら席に着いた。
「なんとかな。テニスを休んでいる分、机に向かう時間は十分にあるから。……もっとも、君たちが持ち帰ってくる『外の空気』が、一番の刺激になるけれど」
夕食が始まると、食卓は穏やかな熱を帯び始めた。お姉ちゃんが甲斐々しく大皿を取り分け、陽太が美味しそうに頬張る姿を見て目を細めている。
「陽太くん、もっと食べなさい。湊と練習するなら、普通の子の三倍はカロリーが必要でしょう?」
「はい! 雫さんの料理、マジで最高です。……これで明日も、頑張れます」
陽太の屈託のない笑顔に、食卓が和む。けれど、会話の内容は自然と今日届いた白河さんのDVD、そしてその解析を元に行われた先ほどの試合の話へと移っていった。
「……白河こころ、か。病室にいてもなお、現場の士気をコントロールし、こちらの進化さえも自分の糧にしようとする。彼女らしい合理性だな」
蓮さんは、私が手紙の内容とDVDの重要性を話すと、箸を止めて感心したように頷いた。
「みゆ。彼女が望んでいるのは、怪我をさせたことへの贖罪じゃない。君という鏡を通して、自分自身のテニスを完成させることだ。……夏の大会、彼女は間違いなく君にとって壁となるだろう。このDVDは、そのための招待状みたいなものだ」
蓮さんの静かな分析は、湊兄さんの「釘」とはまた違う重みを持って、私の胸にすとんと落ちた。
夕食を終え、陽太が家へと帰っていくのを見送った。玄関先で陽太が「また明日な、みゆ」と小さく手を振ったとき、その掌に滲んでいたラケットの摩擦痕が、街灯の下で誇らしげに見えた。
「……湊、蓮くん。今日は本当にお疲れ様。お風呂、沸いているわよ」
お姉ちゃんの穏やかな声が響く。彼女はいつものように完璧な手際で食器を片付け、家の中に「戦い」の気配を微塵も残さないよう、平穏を塗り固めていく。湊兄さんは短く頷くと、自分の部屋へ戻る前に私の肩を軽く叩いた。
「みゆ。……今夜のうちに、白河への『返信』を書いておけ。言葉を整理することは、自分のテニスを整理することだ。……迷いを残したままコートに立つな」
「……わかった。ありがとう、兄さん」
自室に戻り、デスクのライトを点ける。
机の上には、白河さんから届いたあの白い封筒と、解析を終えた二枚組のDVDが静かに置かれていた。私は深呼吸を一つし、新しい便箋を広げて万年筆を握った。
窓の外では、三学期の澄んだ夜空に冴え渡る月が輝いている。
ペン先が紙に触れるたび、今日コートで感じた陽太の熱量や、DVDの中に映っていた白河さんの冷徹な眼差しが、言葉となって紡ぎ出されていった。
『白河こころ様。
お手紙と、そして何より貴重な録画データをありがとうございました。
遠路はるばる私たちの合宿に参加してもらったお礼だなんて、貴女らしい気遣いに感謝します。
今日、星和の全部員でその映像を観て、討論しました。
貴女が指摘した通り、私の「波紋」はまだ未熟で、データ化されれば脆いものでした。
けれど、貴女の視点のおかげで、私は今日、陽太との試合で新しい波紋の形を掴みかけることができました。
貴女が「新システム」を構築するなら、私はそれを飲み込む、より深い波紋を磨きます。
今のままの私では一球も取らせてもらえないという宣告、確かに受け取りました。
夏の全国大会、決勝のコート。
貴女の「解答」を、私の「進化」で打ち破るその日を、私も楽しみにしています。
追伸。……リハビリ、無理しすぎないでくださいね。でも、貴女のことですから、もうベッドの上で次の試合を始めているのでしょうけれど。』
最後の一行を書き終えたとき、私の心は凪のように静まり返っていた。
これは単なる返信ではない。白河こころという最大のライバルに対し、私が私自身に課した「誓約」だ。
封筒を閉じ、切手を貼る。
明日、この手紙を出した瞬間から、私の三学期は本当の意味で「全国」へのカウントダウンへと変わる。
「……負けないよ、白河さん」
独り言は夜の闇に吸い込まれていったが、その余韻は私の指先に確かな熱を残していた。
虚像のような平穏な夜が更けていく。けれど、その裏側で、私たちはそれぞれの武器を研ぎ澄ませ、春の嵐を待っている。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。




