番外編:完璧な歯車の軋み(雫視点)
それは、みゆが西園寺女子中等部の合宿へと出発した、1月4日の朝のことだった。
午前6時半。水瀬家のキッチンには、冬の澄んだ空気の中に香ばしい焼き魚の匂いが立ち込めていた。雫は一点の乱れもない動作で、出発する妹のための朝食と、二階で追い込みの勉強に励む蓮のための夜食用の差し入れを準備していた。
「忘れ物はない? お守り、カバンの奥に入れたわよ」
雫が甲斐々しくみゆの身支度を整える。午前7時の集合に合わせ、大きなスポーツバッグを背負ったみゆが「いってきます!」と元気に玄関を飛び出していった。
その数分後。入れ替わるように一階へ降りてきたのは、黒いスポーツウェアに身を包んだ湊だった。玄関先には、すでに白い息を吐きながら自転車で駆けつけた陽太くんが待機している。
「あ、湊さん!いまからでもみゆの見送り間に合いますか!?」
「……急げばな。正門までだ」
二人はみゆを見送るため、星和学院の正門へと向かっていった。蓮くんは「どうしても外せない追い込みがある」と、二階の自習机から一歩も動かずにペンを走らせている。
「いってらっしゃい。……蓮くん、お昼には戻るわね」
雫は、家の中に残った蓮にそっと声をかけ、静かに家を出た。
彼女の予定表には、一分の隙もなく『運転免許実技試験:合格』の文字が刻まれていた。
雫にとって、運転免許の取得は単なる「事務的なタスク」に過ぎなかった。
大学の成績はGPA4.0を維持。家事、料理、裁縫。彼女の手にかかれば、あらゆる事象は効率化され、最適解へと導かれる。学科試験も当然のように満点。彼女の頭脳には、教本の全ページが構造的にインプットされていた。
(物理法則と交通法規。それらを正確にトレースするだけ。何も難しいことはないわ)
試験車に乗り込み、教官に一礼する。その所作の美しさに、隣に座った年配の試験官は、手元の書類から目を上げた。
「……では、発進してください」
「はい。よろしくお願いいたします」
ルームミラーの角度、サイドミラーの確認、シートベルト。指差し確認に淀みはない。雫は脳内で、エンジンの回転数とクラッチの接合点を数値化し、完璧な発進をシミュレートした。
しかし、アクセルを踏み込んだ瞬間から、彼女の「計算」は音を立てて狂い始めた。
「……水瀬さん。もっとスムーズに。加速が急すぎます」
「失礼いたしました。計算上のトルク配分を……」
「理屈じゃなくて、身体の感覚で調整してください」
雫は冷静に修正を試みた。しかし、教本通りの「理論値」でハンドルを切っても、実際の車体は路面の細かな傾斜やタイヤの摩耗具合によって、彼女の脳内シミュレーションから数センチずつ、確実にズレていく。
難関のS字クランク。
雫の瞳には、路肩までの距離がミリ単位の数値として投影されていた。
(ここでハンドルを320度……後輪の軌道半径は……)
――ガクンッ。
「……あ」
縁石に、タイヤが微かに接触した。
雫の頬から、血の気が引いていく。人生で初めて経験する、「物理」が「意志」に従わないという不条理。
「脱輪ですね。……水瀬さん、落ち着いて。次は方向転換です」
教官の声は淡々としていたが、雫の脳内では警報が鳴り響いていた。
バックでの車庫入れ。彼女は焦りを押し殺し、ミラー越しに完璧な角度を導き出そうとした。だが、理論を優先するあまり、実際の車体の「膨らみ」への感性が追いつかない。
「……終了です。発着点に戻ってください」
「残念ですが、不合格です。水瀬さん、知識は完璧ですが……少し、車という『実体』を信用しすぎていませんか? 頭で考えすぎて、手足の感覚が疎かになっています」
試験官から手渡された、冷徹な不合格の書類。
雫はそれを、信じられないものを見るような目で見つめた後、深く一礼して受け取った。
教習所からの帰り道。冬の冷たい風を頬に受けながら、彼女は駅のホームで立ち止まった。
手元にある「不合格」の文字。それが、自分の人生に刻まれた消えない泥のように思えてならない。
(……こんなの、湊やみゆに報告できるわけがないわ)
今頃、みゆは式守先生や仲間たちとマイクロバスに乗り込み、決戦の地へ向かっているはずだ。正門まで駆けつけた湊や陽太くんは、今頃は河川敷で、自分たちを更新するための死闘を繰り広げているだろう。
(彼らはあんなに命懸けで自分を更新しているのに、私は……)
家に戻ると、蓮くんはまだ二階で勉強に没頭していた。
雫はエプロンも着けず、ダイニングの椅子に深く腰を下ろした。
(何が悪かったの? 速度、角度、視認。すべて教本通りだったはずよ。……それなのに、どうして車は私の思い通りに動いてくれないの?)
キッチンに並ぶ、一点の曇りもない調理器具たち。
いつもなら寸分の狂いもなく美味しい料理を仕上げる彼女の手が、今はひどく頼りなく見えた。
(……反省しなければ。明日は、もう一度『感覚』を再構築するの。物理的な数値ではなく……もっと、直接的な……)
雫は手帳を開き、今日の不合格の原因を冷徹に書き出し始めた。
それは、湊やみゆに見せている「優しい姉」の顔ではなく、目的を完遂するために自らを切り刻む、冷徹な「管理者」の顔だった。
明日、合宿中のみゆから電話が来るまでに。湊たちが練習から帰ってくるまでに。
私は私を立て直さなければならない。
1月5日、午前10時。
前日の屈辱を雪辱すべく、雫は再び教習所のロビーに立っていた。
一睡もせず、彼女は昨夜、教本の内容を「三次元の動体シミュレーション」として脳内で数千回繰り返していた。
「水瀬さん、準備はいいですか?」
昨日と同じ試験官が、手元のタブレットを確認しながら声をかける。雫は短く「はい」と答え、試験車へと向かった。
発進の瞬間、雫の感覚は昨日よりも研ぎ澄まされていた。
アクセルを踏み込む右足の裏に、エンジンの鼓動が伝わってくる。湊が「右手」の筋力で打球の威力を微調整するように、彼女もまた、車体という巨大な筋肉を、自らの神経系の一部として捉えようとしていた。
「……いいですよ。加速の伸びも、ブレーキの加減も格段にスムーズだ」
試験官の声が漏れる。S字クランクに入った雫の視界には、もはや数値化された距離計は存在しなかった。代わりに、タイヤが路面を噛む音、車体がわずかに傾く重力加速度を、皮膚感覚で処理していく。
縁石を掠めることもなく、淀みのない曲線を描いて車体は抜けていく。
しかし、最後の方向転換――バックでの転回時、彼女はわずかな違和感に動きを止めた。
「……切り返し、一回ですね」
試験官が厳しくチェックを入れる。
理論上の角度は完璧だった。しかし、昨日よりも路面がわずかに凍結し、摩擦係数が変わっていた。その「環境の揺らぎ」に対し、雫の補正が一瞬だけ遅れたのだ。
試験終了後、発着点に戻った雫に、試験官は昨日とは違う、少しだけ期待を込めた表情を見せた。
「水瀬さん。驚きましたよ。一日でここまで動きが変わるとは。……ですが、まだ合格を出すことはできません。技術はありますが、いざという時の『修正力』が、まだ理屈に縛られています」
雫は唇を噛んだ。完璧を求める彼女にとって、この「一歩手前」という状態が、不合格よりももどかしい。
「この感覚を忘れないうちに、明日も再試験の予約を入れられますが……大丈夫ですか? 精神的にも疲れるでしょう」
「……いえ。明日、必ず終わらせます。お願いします」
雫の瞳に宿った意志の強さに、試験官は少しだけ圧倒されたように頷いた。彼は席を立つ間際、教官としての個人的な助言を残した。
「水瀬さん。君はコースを『なぞって』いる。そうじゃない。車を『置きたい場所』に、自分の手を伸ばす感覚で動かしてごらん。ハンドルは道具じゃない。君の指先だ」
家に戻ると、湊や陽太くんはすでに河川敷へ向かっており、二階からは蓮が時折、溜息をつきながら参考書をめくる音が聞こえていた。
雫はリビングの椅子に座り、目を閉じた。
両手で、架空のハンドルを握る。
(……指先。私の、指先……)
脳裏に浮かんだのは、昨日の解析討論で湊が語った言葉だった。
『相手の力を利用し、その予測という殻を内側から破壊する』
車も同じだ。エンジンの爆発、路面の抵抗、重力。それらすべての「外部の力」を拒絶するのではなく、自分の一部として取り込み、調和させる。
(……見えたわ)
雫の細い指が、空中でわずかに動く。
それはもはや計算された動作ではなく、水面を走る波紋のように滑らかで、淀みのない「意思の表出」だった。
明日、三度目の正直。
完璧な姉が、初めて「理論」を捨てて「感覚」を支配する瞬間が近づいていた。
1月6日。三度目の朝、私は鏡の前で自分自身に完璧な「礼装」を施していた。
乱れのない髪、指先のシワ一つないブラウス。二階からは蓮くんが追い込みの暗唱をする微かな声が聞こえ、湊と陽太くんはすでに、冬の厳寒を切り裂くように河川敷へと走り出していった。
私は静かに玄関の扉を閉めた。手帳の「実技試験」の横に刻まれた昨日の屈辱的なチェックマークを、今日、私は「確信」へと書き換える。
試験場のコースに立つ私の指先に、もはや余計な力みはなかった。
ハンドルを握る。昨日、試験官が残した「ハンドルは自分の指先」という言葉が、私の内で一つの「感覚」へと昇華されていた。
「……始めてください」
発進。クラッチを繋ぐ左足の裏に、エンジンの振動が心地よいリズムとして伝わる。
S字クランク。私はもう、縁石までの距離を計算などしていなかった。
車体の四隅が私自身の手足の延長となり、アスファルトのざらつきをタイヤ越しに皮膚で感じ取る。ハンドルを切る角度は、脳内の数値ではなく、車を「置きたい場所」へと誘う、淀みのない意思の表出だった。
「……見事だ。淀みがまったくない」
試験官が思わず独り言を漏らす。方向転換でも、私は路面のわずかな傾斜を逆手に取り、重力を利用して車体を滑り込ませた。
発着点に戻り、エンジンを切る。静寂の中で、試験官は手元の書類に力強く合格の印を刻んだ。
「合格です、水瀬さん。……三日でこれほどまでに車と『対話』できるようになるとは。君には、理論を超えた何かがあるようだ」
「……ありがとうございます。支えたい相手がいるものですから」
私は淑やかに一礼し、免許証の交付窓口へと向かった。手渡されたばかりの、まだ真新しいプラスチックのカード。そこには「水瀬 雫」の名前と共に、私が初めて「完璧な理論」を捨て、泥臭い試行錯誤の果てに手に入れた、確かな『支配』の証が刻まれていた。
夕食の支度を終え、リビングには出汁の香りが満ちていた。
食卓では、湊と陽太くんが向かい合って座り、春に控えたU-17ジュニア選抜世界大会に向けた戦術ノートと、タブレットに映る海外選手の動画を鋭い視線で追っている。
「……甘いぞ陽太。その踏み込みの角度では、世界のパワーに押し負ける。もっと体幹の軸を意識しろ」
「くっ……わかってますよ、湊さん! でも、今のタイミングじゃないと差し込まれる!」
二人の熱を帯びた会話。その傍らでは、蓮くんも参考書を開きながら、時折鋭い一言を添えている。この「戦場」のような、けれど心地よい規律に満ちた空間こそが、私が守るべき水瀬家の姿だった。
その時、玄関の扉が重く開く音がした。
「ただいま……」
消え入りそうな、震える声。
私はキッチンから顔を出した。そこに立っていたのは、西園寺での過酷な合宿を終えて帰宅した、けれど魂がどこかへ抜け落ちたような顔をしたみゆだった。膝の上のスポーツバッグが、彼女の罪悪感を象徴するように重く沈んでいる。
私は、彼女の心の動揺をあえて見ない振りをし、今日手に入れたばかりの『武器』を掲げて微笑んだ。
「あ、みゆ! お帰りなさい、お疲れ様!」
私は、交付されたばかりの免許証を、まるで聖遺物でも扱うかのように大切そうに胸に抱いて見せた。二度試験に落ち、一人で焦燥に駆られていたことなど、この完璧な微笑みの裏側に永遠に埋没させて。
「見て、みゆ。ついに取れたわ、普通免許。……まだ車は手元にないけれど、どの車種にするか湊と蓮くんに相談していたところよ。湊たちを一番安全に、快適に運べる車を……私の手で選んであげたいから。さあ、冷めないうちに座りなさい。今夜は貴女の帰還祝いも含めて豪華にしたのよ」
みゆの瞳は、私の眩しすぎるほどの慈愛に、窒息しそうな戸惑いを見せていた。けれど、それでいい。彼女たちが戦う場所がコートなら、私が戦う場所はこの家なのだから。
「……おめでとう、お姉ちゃん。蓮さんも、お疲れ様です」
みゆが力なく告げると、湊がゆっくりと顔を上げた。その冷徹な視線は、妹が抱えてきた「闇」を瞬時に見抜いていた。
「……おかえり、みゆ。鳳仙雅から連絡を受けた。西園寺での合宿、最終日に何があったのかも……すべてな……」
湊の声が、リビングの空気を一変させる。
私は静かに、煮え立つ鍋の火を弱めた。戦いに疲れた彼らを癒やし、再び戦場へと送り出す。そのためなら、私は何度でも完璧な歯車として、この家を回し続けてみせる。
免許証の冷たい感触が、私の胸元で静かに主張していた。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
雫視点の番外編も4度目になります。(内1エピソードはまだ非公開ですが・・・)
今回は珍しく雫が運転免許試験で四苦八苦する内容でお届けしました。
無事免許取得したのは冬休み最終日。
今はマイナ免許証として交付か従来かを選べるようだけど、
ここでは従来の形式で発行した形式を採用しています。




