煉獄の処刑人の弱点
西園寺女子中等部の調理実習室に足を踏み入れた瞬間、私たちはその光景に圧倒された。
テニスコートと同様、そこには一切の無駄がなかった。磨き上げられたステンレスの調理台、寸分の狂いなく整列した器具。
「さあ、星和の皆さんもエプロンを着けて。午後の練習に必要な栄養、自分たちの手で仕込むわよ」
白河さんの声は、コート上の冷徹な響きとは一変し、春の陽だまりのような柔らかさを帯びていた。
「美咲さん、火力が少し強いかな。野菜の甘みを引き出すには、弱火でじっくり『対話』するように炒めるのがコツだよ」
「は、はい! 野菜と対話……野菜さん、こんにちは……!」
緊張でガチガチの美咲がフライパンを揺らす横で、白河さんは鮮やかな手つきで包丁を躍らせる。トン、トン、トン……とリズム良く刻まれるタマネギは、まるでお手本のように均一な厚みで積み上がっていく。
「白河さん、まるでお店の人みたい……」
私が思わず漏らした感嘆に、隣でジャガイモの皮を剥いていた西園寺の部員が、誇らしげに顔を寄せた。
「部長は『家庭科の女王』でもあるのよ。栄養学に基づいたメニュー構成はもちろんだけど、隠し味のセンスが天才的なの」
白河さんは星和のメンバー一人ひとりの動きをさりげなく見守り、フォローを入れていく。
「奈緒さんは調味料の計量をお願い。莉奈さんは盛り付けの準備を。みんなで一つの料理を完成させるプロセスは、ダブルスの連携に通じるものがあると思わない?」
その穏やかな空気に、私たちの肩の力も少しずつ抜けていった。
だが、調理室の最果て、窓際の調理台だけは、まるで冬の嵐が停滞しているような異様な緊張感に包まれていた。
「……雅さん、大丈夫ですか?」
白河さんが、おたまを片手にクスクスと笑いながら声をかける。
そこには、鳳仙さんが、一本のキュウリを「親の敵」かと言わんばかりの形相で見つめていた。その手に握られているのは、最新鋭のラケットではなく、一本のピーラーだ。
「……黙れ、こころ。この『皮剥き』という工程は、テニスの打点制御よりも遥かに微細な神経を要求される。……チッ、また厚く削げた。これでは歩留まりが悪すぎる」
あの中等部テニス界を震え上がらせる『煉獄の処刑人』鳳仙雅が、ピーラー一本を相手に大真面目に格闘している。彼女が剥いたキュウリは、もはや元の形を留めないほど細く、歪な多角形へと変貌を遂げていた。
「鳳仙さん、力みすぎですよ。グリップを握りしめすぎです」
私がたまらず横から声をかけると、鳳仙さんはハッとしたようにこちらを振り向いた。その瞳には、試合中の殺気ではなく、純粋な困惑が浮かんでいる。
「水瀬……。貴様、私に『指導』をするつもりか? ……ふん、いいだろう。やってみせろ。その理論、実証してみせろ」
私が手本として、力を抜いてスッとピーラーを引くと、皮はリボンのように滑らかに剥がれていく。
鳳仙さんは「なるほど、これがインパクト瞬間の『脱力』の応用か……」と低く呟き、再びキュウリに挑んだ。
しかし、次に彼女が勢いよく腕を引いた瞬間、キュウリは手元から鮮やかに射出され、床を転がって白河さんの足元まで届いた。
「あっ……」
鳳仙さんが、年相応に「やってしまった」という顔で固まる。
そのあまりに人間味のある失態に、調理室全体に一拍置いて、ドッと大きな笑いが弾けた。
「鳳仙さんでも、できないことがあるんですね!」
美咲が屈託なく笑うと、鳳仙さんは顔を耳まで真っ赤にして、「……笑うな! 私は今、食材の物理的特性を解析していただけだ!」と、必死に威厳を取り戻そうと叫んでいる。
その瞬間、私たちが抱いていた「王者への恐怖」は、温かな湯気の中に溶けて消えていった。
「……よし、完成。皆さん、お疲れ様。盛り付けに移りましょう」
白河さんの晴れやかな号令で、調理実習室は仕上げの活気に包まれた。
並べられたのは、高タンパクで消化に良い蒸し鶏のシトラスソース和え、色鮮やかなラタトゥイユ、そして鳳仙さんが(文字通り命を削って)剥いたキュウリの入った春雨サラダ。
「いただきます」
全員の声が重なり、賑やかな昼食が始まった。
「……美味しい! 白河さん、これ本当に中学生が作った味ですか?」
莉奈が目を輝かせてサラダを口に運ぶ。ドレッシングの酸味が、午前中の練習で火照った体に心地よく染み渡っていく。
「ふふ、喜んでもらえて嬉しいわ。料理は『段取り』がすべて。テニスの戦略を立てるのと、本質的には変わらないのよ」
白河さんは上品に箸を運びながら、隣に座る春花部長と談笑を始めた。コート上ではあんなに冷徹に星和の弱点を突いてきた彼女が、今は一人の少女として、部活動の悩みや学園生活の話題に花を咲かせている。
一方、その向かい側では、鳳仙さんが自分の「作品」である歪なキュウリを、黙々と、しかしどこか神妙な面持ちで噛み締めていた。
「鳳仙さん、お味はいかがですか?」
私が恐る恐る尋ねると、鳳仙さんは箸を止め、鋭い眼光を向けてきた。
「……皮を剥きすぎたせいで、食感の連続性が失われている。私の『制御ミス』が、この一皿の調和を乱しているな」
「あはは、鳳仙さん、反省の仕方がやっぱりテニス部ですね!」
美咲が遠慮なく突っ込むと、鳳仙さんは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「……だが、水瀬。貴様の言う『脱力』とやらは、一理ある。……こころ、次からは私をピーラー係にするな。レタスを千切る方が、私の破壊的衝動を昇華できる」
「雅さん、レタスを千切るのにも『優しさ』が必要なのよ。あなたが千切ったのは、もはやレタスの破片だわ」
白河さんの容赦ないツッコミに、周囲の西園寺部員からもクスクスと笑い声が漏れる。
「……鳳仙さんと白河さんって、本当に仲が良いんですね」
私がふと呟くと、白河さんは少しだけ遠い目をして微笑んだ。
「仲が良い、というよりは……そうね。中等部に入って以来、私は雅さんの背中を追い、雅さんは私のシステムを信頼してくれた。彼女がいなければ、今の西園寺の『王道』は完成しなかったわ」
鳳仙さんは何も言わず、ただ静かにスープを口にした。
学年も性格も、プレースタイルも正反対。けれど、二人の間には、言葉を超えた強固な「絆」がある。それは、私と湊兄さんの関係とも、春花部長と芽衣先輩の関係とも違う、西園寺という巨大な城を支える二本の柱のような信頼だった。
「……佐藤さん、水瀬さん」
白河さんが、ふと真剣な眼差しをこちらに向けた。
「この二日間で、私たちはあなたたちの『熱』を知った。そして、あなたたちは私たちの『日常』を知った。……だからこそ、明日の最終日は、一切の容赦をしない。それが、私たちが対等なライバルとして交わす、最高の礼儀だと思うから」
「ええ。望むところよ」
春花部長が力強く頷く。
昼食も終盤に差し掛かり、温かな紅茶の香りがテーブルに漂い始めた頃。それまで黙々と箸を動かしていた雅さんが、不意にカップを置き、隣に座る白河さんを真っ直ぐに見据えた。
「……こころ。貴様、今のままでは明日の練習試合、水瀬に勝てんぞ」
その一言で、和やかだった食卓の空気が一瞬で凍りついた。白河さんのティーカップを持つ手がわずかに止まる。
「雅さん……。それは、私の『システム』に欠陥があるとおっしゃるの?」
「欠陥ではない。完成されすぎているのだ」
鳳仙さんは腕を組み、冷徹な分析者の目で言葉を続けた。
「貴様のテニスは、相手の予測を上回る『最適解』を積み重ねる城だ。だが水瀬の『波』は、その城の基礎となる計算式そのものを書き換える。……今の貴様では、彼女の不規則なリズムに飲み込まれるのが目に見えている」
白河さんは静かに視線を落とした。午前中の練習で、私のリターンに進藤先輩たちが翻弄された光景を思い出しているようだった。
「……午後のメニューを変更する」
鳳仙さんの言葉に、全員の視線が集まる。
「こころ、貴様は私と一対一で打ち込め。私の『暴力的な個』を叩き込み、貴様のシステムに耐性をつけさせる。……そして、水瀬」
名前を呼ばれ、私は背筋を正した。
「貴様には、西園寺のレギュラー陣の相手を頼みたい。一人ずつ、徹底的にだ」
「えっ……。私が、西園寺の皆さんに『教える』ということですか?」
困惑して問い返すと、鳳仙さんは鼻で笑った。
「教える? 勘違いするな。貴様はただ、コートの反対側でその『波』を全開にしていればいい。……教えた経験など必要ない。むしろ、慈悲など捨てて、西園寺の誇りを根底から叩き潰すつもりでやってくれ。それが彼女たちにとって、何よりの薬になる」
「雅さん、それは少しスパルタが過ぎませんか……?」
白河さんが苦笑混じりにフォローを入れるが、鳳仙さんの眼光は本気だった。
「星和のエースに揉まれて折れるような根性なら、全国など夢のまた夢だ。……水瀬、受けてくれるな?」
「……分かりました。私にできることなら」
私は鳳仙さんの挑戦的な瞳を見つめ返し、深く頷いた。
西園寺の部員たちが、不安と期待の入り混じった表情で私を見ている。
「よし、決まりだ。佐藤、小林、田中。貴様らも西園寺の別メニューに混ざれ。……今日、この午後の数時間で、両校の境界線を完全に消し飛ばすぞ」
鳳仙さんの力強い宣言とともに、私たちは再びコートへと向かった。
昼食時の穏やかなエプロン姿はもうない。
白河さんは鳳仙さんと共に、更なる高みを目指して「王道」を磨き直す。
そして私は、西園寺の「組織」という壁に、たった一人で巨大な「波」をぶつけに行く。
午後の日差しが照りつけるコートには、午前中とは質の違う、より純粋で、より激しい闘志が渦巻こうとしていた。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
数ヶ月前のみゆだったら鳳仙雅といい勝負の失敗作をつくっていたんだろうなと考えていました。




