ただいま帰りました!
最終回です。
岩屋を出て、焼けるような夕日に目を細める。地平線に浮かぶ赤は水面に映り、絵画のように美しい。
海のないソルシエールでは絶対に観ることのできない景色に、帰ってきたのだなあと実感する。
――と、目の前にばっと出てきた男性が一人。
「アンジュ! よかった……! お前、いくらなんでも遅すぎだって!」
泣きそうな顔でわたしに駆け寄る風丸くん。すごく心配をかけてしまったことが、ひしひしと伝わってきた。
「ご、ごめんなさい。わたし、真珠の補修にかかる時間を入れなくて。――っていうか、風丸くん、どうしてここに? 戻ったら連絡するっていう話じゃ……」
「帰るって言った日を過ぎてからは、ここで待ってた」
ぽりぽりと頬を掻きながら、横を向く風丸くん。
夕焼けが彼の顔を赤く染めている。
「心配かけてごめんね。おかげで全部終わったよ。もうあの国には戻らない」
彼の美しい横顔に向かって、そうはっきりと宣言する。ここ日本が、わたしの生きる場所だから。
そう感じさせてくれた風丸くん、洋子さん、小桃ちゃん、そしてメーアにとって、常に恥じない人生を送っていきたい。
手をつないで魚心亭に向かって歩き始めると、ふと風丸くんが声を上げた。
「……あれ、そのイヤリングって」
彼の目線は、わたしの耳元。そこには、白く輝くイヤリングがある。
「……結局、修理は無理だったの。でも真珠をより良い状態に保つためのケアと補修はしてもらえてね」
「うん」
「このまま亀裂が進行するよりは、綺麗に二つにしてしまったほうが真珠にかかる負担が少ないらしくて。それでイヤリングにしてくれたの」
「そうなんだ。……残念だけど、やれることはやったんだもんな。ごめん、俺、何もできなくて」
肩を落とす彼に、慌てて言葉を返す。
「気にしないで。わたしね、この件は誰も悪くないんじゃないかと思うことにしたの。それぞれが、必死に自分の役割を果たした結果だもの。もちろん悔しい気持ちはあるけれど、前を向こうって決めたんだ。――メーアの姿は見えなくなったけれど、ずっと側にいてくれることに変わりはないしね。この姿でも見聞きはできていると思うから、きっと今頃、落ち込む風丸くんを見て笑ってるんじゃないかしら」
半分自分に言い聞かせるように言葉を紡いだ。胸の痛みがなくなったわけじゃない。その痛みと共存する道を選んだだけだから。
隣を向いて精一杯笑いかけると、彼もつられるように白い歯をのぞかせた。
「ははっ。確かに。あいつはそういう奴だな」
「だよね」
――微笑み合ったわたしたちの間に、ざあっと強い海風が吹き抜ける。
潮の香り、茜色に輝く海。
ここに来た日も、そして今も。その姿は何も変わらず雄大で、そこにある。
この果てしな地平線の向こうには、何があるんだろう? わたしの世界は、まだ広がれるんだろうか。
「――ねえ風丸くん」
「ん?」
「三年間、あっという間だったね」
海を見ると、感傷的な気持ちになるのはなぜだろう。
「ほんとだな。特に、二年の夏からか? アンジュと鎌倉に行った日から、目まぐるしく毎日が過ぎていった感じがする」
「わたしも。時の流れが速すぎたし、感じたことのない気持ちをたくさん味わえた。生きてるんだなあって、すごく感じた」
風になびく髪を、空いている手でかき上げる。
夢のようだけど、確かに存在した三年間。わたしの手を握る大きくて温かい手が、その証拠だ。
いつだったか洋子さんが言っていた「青春」という言葉。今ならば、その意味を正しく答えられる気がした。
「ねえ風丸くん」
「今度は何だよ?」
繋いでいた手を離して、身をひるがえして彼の前に立つ。
きょとんとする彼に向かって、心の底から感謝の気持ちを伝えた。
「今までありがとう。そしてこれからも、末永くよろしくお願いいたします」
「……っ!」
頭を下げたわたしは、彼の反応を見ることなく、背を向けて走り出す。
慌てて追いかけてくる様子が背中に伝わってくるけど、なんだか走ることが楽しくて、そのまま魚心亭を目指して地面を蹴る。
もうすぐというところまで来ると、犬の鳴き声が聞こえてきた。
足を休ませ、息を整えるように歩いていく。
そして木々の間から顔をのぞかせたのは、創業二百年の老舗食堂、魚心亭。
「――あ! 安寿!! ……と風丸!」
「アンジュちゃん!」
「わんわんわんっ!!」
お店の前にいるのは、小桃ちゃんとエプロンを着けた洋子さん、そして看板犬しめじ。わたしたちの姿を見つけて声を上げた。
「おう安寿ちゃん! 心配したんだぞ!」
みんなの声が聞こえたのか、中から治郎さんも出てきた。
「――みなさん。お仕事はどうしたんですか? 小桃ちゃんまで」
「安寿のことが心配すぎて、思わず来ちゃったわよ! どこに行ってたか知らないけど、全然連絡付かないんだもの! で、風丸はどうしちゃったの? めちゃくちゃ顔赤いけど」
「――いいか安寿ちゃん。オフシーズンだから、お客さんがちっとも来ない。なんてことじゃあないからな?」
「本当によかったわ。何かあったんじゃないかと心配していたのよ」
頬を膨らませる小桃ちゃんに、にやりと笑う治郎さん。そして、泣きそうな洋子さん。その姿を見て、胸が、目が、熱くなる。
言葉にならない感動が全身を駆け巡る。そっと隣から差し出されたハンカチを受け取り、わたしは目元を押さえた。
「おかえりなさい。アンジュちゃん」
そう言って、くしゃりと顔をほころばせる洋子さん。その胸に飛び込んで、わたしも心の底から喜びの声を上げる。
「ご心配かけてすみません。小早川安寿、ただいま帰りました!」
◇◇◇
――江ノ島には魔女がいる。魔法が使えず、空を飛ぶこともできない、名ばかりの魔女が。
しかし、それでもその魔女は幸せだったという。養父母の営む食堂を手伝いながら、獣医として湘南地域の医療を支える姿は、充実そのものだったという話だ。
そして彼女とそのパートナーの薬指には、揃いの真珠をあしらった指輪が、いつまでも誇り高く輝いていたという。
江ノ島の魔女(了)




