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ANNA  作者: 神崎 銀
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異邦人

 夢とは、当然ながら目を覚ますと終わってしまうものである。

 一度覚めてしまうと、その夢にはもう戻れないのが常である。




 散らかった部屋の中、何もかもやりっ放しで眠りこけていた私が、うだる様な暑さと体の痛みに目を覚ますと、時計は昼をさしていた。

 その気怠さと体の熱さと重たさには、覚えがあった。

 水を飲もうと部屋を這い出て、台所へ向かう。


 しかし、そこには先客が……兄が倒れていた。

 真夏の真昼間だというのに、青い顔をしてぶるぶる震え、息も出来ずに困っていたので、私は自分の不調などすっかり忘れて兄に飛びついた。


 兄は生まれつき体が弱い。

 私はそれが怖かった。

 ひどい時期には毎週の様に昼夜を問わず病院に担ぎ込まれ、その度に本人はもちろん、家中の空気が重たく沈んでぴりぴりしていた。

 至って健康で何ともない私さえ、そういう時にはお腹が痛くなってみたり、気持ちが悪い気がしたりもしたけれどなかなかそうとも言えないし、幼児に毛が生えた程度の人間に何が出来るわけでもないので、一人部屋の中でなるべく物音を立てない様に布団にくるまって時間が過ぎるのを待ったりしたものだ。

 本当は逃げ出したいくらい怖かったのに、幼かった私にはその力が無かった。

 今はすっかり慣れてしまったので、過去形で話すのだけれど。


 心が騒がないでいてくれると、落ち着いて行動出来る。

 病院に連絡をし、車の手配をし、受診の準備をして兄に付き添い、そのまま入院に至ったために荷物をまとめに家を往復した。

 大したことではないと言うが、大したことではないのなら入院などさせないでほしいと思いつつ、飲み込んだ。

 日常が変わってしまうのは、私にとってストレスだ。

 でも大人はよく嘘をつく生き物だから仕方ない。

 終わったら病床の兄からタクシー代とは別に報酬を頂いてしまった上に、誕生日を迎えた今月のお小遣いは病院往復のための交通費と称した両親からの例年に無い上乗せもあった。

 もらってしまったからには返さなければならない。

 病院とは恐ろしく退屈な所らしく、行く度に「あれが欲しい」「これが無くなった」と無心され、それらを揃えて運んでやっては不用品や洗濯物をまとめて持ち帰り始末する。

 バスを乗り換えながら病院を往復なんて事をしていると、私の一日なんてあっという間に終わってしまった。



 私自身の不調は、数日のうちに治まったので筋肉痛だという事にした。

 私は健康だし、もう考えて動けるんだから、自分の事は自分で解決しなくてはいけない。

 困った時は助け合う。

 それが家族というものである。


*****



 一人バスに揺られている間は、色んな事を考えた。

 特に移動時間が長かったこの期間、暇な私は、あの不思議な体験に関していくつか仮説をたてた。




 其の一・私は監視されている説。



 特に注意して考察したのはリュウの事である。

 どの場面においても、彼の存在を切り離して考えるのは無理な話だ。


 リュウは、私が彼を認識する前から、私の事を知っていた。

 大量生産されたであろうバッグの、更におまけである小さな鏡ひとつを手掛かりに、あの日まで巡り合った事は無いはずなのに。

 ロマンチックに騙されて浮かれていたけれど、よくよく考えたらおかしい。

 まさか引きちぎった訳では無いだろうし、そんな事があったら私だって覚えているだろうから、きっと拾ったのだと思う。

 いざ落ちるその瞬間を見て、「落としましたよ」と声をかける間もなく今日を迎えたのだとしたら、運命的ではあるが、果たしてそんな一瞬の内に赤の他人の顔を確定に至るまで判別出来るだろうか。


 近藤さんもそうだ。

 たった一度、それも横断歩道のあっちとこっちで目が合っただけの人間を、いくら日常的に人を注視しているお仕事だからと言っていちいち覚えていては頭の中が人の顔だらけになってしまう。

 覚えていたにしても、その日の事をわざわざ引き出して話す程、距離を近く取れるだろうか。

 現に、ずぶ濡れの裸足で幽霊と見間違えるほど衝撃的な第一印象を持っておきながら、二度目に会った時はそれが私だと説明するまで気が付かなかった上に暴言を吐いた失礼な接客業従事者も実際にいる。

 私が近藤さんを覚えていたのは、尖らせていた神経を逆撫でして来るような強烈な印象があったすぐ後に、二度目の出会いに至ったからだ。

 即ち近藤さんも、以前から私という存在を認識していた上に、あの日リュウと出会っていた事さえも知っていたのではないかと考えた。

 それならば、仲の良いマスターが私の色々を見抜いて話しかけて来るのにも納得がいく。



 そしてもう一つ、確信に近い理由がある。


 バスの事だ。

 「バスの時間は気にしないで」と、私がバスを利用していることは誰にも言っていないのに、ティファニーさんは知っていた。

 リュウに至っては先日の小雨の降る夜、最終のバスが何時に出るのか、私がどのバスに乗るのかさえも知っていた。

 路線によってはもっと遅い便だってあるのに「時間が無い」と焦り、バスターミナルに着くなり、既に出発の準備が整っているバスを見つけて「間に合った」と言い、息を切らす私の手を引きずるように先導して乗せた。



 そういえばリュウは、私と初めて会話をした時、私を見て一瞬だが、ひどく驚いたような顔をしていた。

 そこに私がいる事が有り得ない事のような、誤算みたいな、そんな感じ。

 公共の場所なんだから人が通るのは当たり前だし、わざわざそんな所で弾き語りなどしていたら、興味を持たれてもおかしくない事は想像出来るどころか経験もあるだろうに、彼は私を見て大変驚いていた。

 「ティファニーさんにだけは聞かれたくなかった」らしいので、外で弾いていたことには納得がいくけれど、それにしたってあの驚き方は異常だった。


 あの時、狙ったように鳴った電話も引っかかる。

 本来接触は避けるべきだったのかもしれないし、次の指示をするためだったのかもしれない。

 今もなお、頂いた腕時計か、直して貰った靴底かにGPSが埋め込まれているかもしれない。

 カフェ&バーは世を忍ぶ仮の姿、その実態は街に蔓延《はびこ》る小さな悪も許さない正義の組織・ソレイユ。

 日々目的も無く一人徘徊する不良少女A(通称アンナ)を街の彼方此方で見張っている。




 

 其の二・全て私の夢物語説。



 誰もがそうとは限らないのかもしれないが、夢の中とは不思議なもので、初めて見る人や場所でも、何となく自分との関係性が理解できていたりする。

 映画の中で見た学校が自分の通う学校として位置付けられたり、見たこともない人が友人として登場したり、そういう事である。

 そして面白いくらい破天荒な事が起きる。

 もちろん自分の脳内で起きている事なので細かい所が曖昧になるし、想像でも補えない所は先に進めないまま終わったりする。

 そして不思議な事に、目が覚めると時間と共に自然と忘れてしまう。

 ソレイユにいる間の事は、この感覚が一番近かった。

 幼い頃私は、夢の中に出てきた物でも、しっかりと手に持ったまま目を覚ませば現実の世界に持ち帰れると思っていた。

 もちろんそんな筈は無いので何度その無垢な子供心を寂寥感《せきりょうかん》で満たした事か。

 知っているからこそ、終わりを恐れて、あんなに胸が騒いだのだろうか。

 しかしこれはあくまで仮説というか妄想に近く、こうしている間も私の左手首では持ち帰る事が出来ないはずの夢の痕跡《こんせき》が時を刻んでいた。 




 其の三・アンナ人違い説。



 これは一番最初に考えた。

 アンナと呼ばれて返事をしておいて何だが、私の名前は『アンナ』では無いし、かすってもいない。

 ローマの休日を見た直後だったと言うのも大いにあるが、私を誰かと(まあ、アンナ)と勘違いしているのでは無いかと考えた。

 アンナがプリンセスであるかどうかはさておき、きっととても健全で純良な人間で、だから皆優しかった。

 顔なのか背格好なのか年頃か、どこかしら似ているのだろう。

 誰かが勘違いをして、そのまま情報が共有されて、そう言う事になった。


 一番有力なのに先述したような妄想の方をわざわざ膨らませた上にそれを一としたのは、わざわざ言う必要も無いだろうが、乗っておいて恥ずかしかったからだ。

 どうにか自分を正当化したかった。

 間違いだなんて認めたくない。

 逃げ道が欲しかった。

 本当にそうだったらどうしよう。

 あの鏡、私のじゃなかったらどうしよう。

 そうこうしている間に本物のアンナが現れたらどうしよう。

 だとしたら勘違いしているのは間違いなく私じゃないか。

 しにたい。


 そんな事を考えていたら、私はますます街へ出辛くなった。

 また会うことが出来た所で、私に何が出来るだろうか。

 もう受け取ってしまった形の無いものを、どう返せば良いのだろうか。







 そうして私の夏休みは終わり、あの熱もすっかり冷め、兄も退院して私の日常が帰ってきた。

 弾けると思って触ったギターも、魔法が解けてしまってからではどう足掻いたってちっとも思い通りにいかなかった。

 頭の中で新しく更新されるのは、待合室に流れるオルゴールのポップスくらいで、それだって飽きるほど同じ音の繰り返しで精進することも無い。

 街には何度か出てみたが、あの日とは全く違う空気に物怖じして、結局何もしないで帰って来てしまった。


 一人で見る街の中は、私の良く知る、誰も私を知らない街だった。

 

 私が動かなければ、この縁は切れ、全て時の流れの中で無かったことになる。

 彼らにも彼らの日常がある。

 これ以上踏み込むのは良くないだろう。


 淡々と考えている筈なのに、ふと「彼ら」について触れてしまうと次々と優しい笑顔が浮かんでは消え、黒いもやもやがやって来た。

 もやもやしたものは大きくなると、また私の背中を狙う。

 苦しい、寂しい、恋しい、辛い。

 慣れない感情に焦り、苛立つ。

考えない事が一番いいけど、それも出来ない。

 むしゃくしゃして、いらいらして、その内ぴりぴりして来る。


 夏休みの最終日、そんな気持ちで寝そべったまま、足元に横たわるギターの弦を爪先で弾いたら、一番細い弦が切れた。

 身体中の血が湧き立って、音を立てて引いていった。


「しにたい……」


 頬に滲む汗をそっと手の甲で拭い、私はギターを思い出と共にしまった。




そうだ、これが私の日常じゃないか。


 


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