squall
「あかん、バス!」
この日、初めてリュウが私の目を見て発した言葉は、私の魔法を解く呪文だった。
もう最終のバスの時間が迫って居た。
無事に歌い終えた安心感と、ティファニーさんとマスターがたった二人なのに割れんばかりの拍手を送って褒めてくれた事に喜ぶ暇もなく、もう〝今日の終わり〟へ向かって走らなければならなかった。
時の流れを感じなかったせいで、自分でもまさかそんな時間だとは思ってもいなかった。
「遅くまですみません」
「こちらは構いませんよ。またいつでも会いに来て下さい」
マスターは優しくそう言って、ピアノを撫でていた。
荷物はリュウに押し付け、興奮冷めやらぬティファニーさんは私の頬に別れのキスをしてくれた。
転がる様に階段をかけ降り、慌ただしく挨拶をして店を飛び出す。
「間に合わなかったら帰って来いよ、車出すから」
「ありがとう」
通りに出てから、あの失礼な店員もわざわざ追いかけて来て優しい言葉をくれたので、声を張り上げ、大きく手を振って答えた。
いってらっしゃいと再び送り出され、今度はリュウと二人で街へ出る。
バスターミナルまでの道を、互いに無言のまま歩幅に気を使いあって進んでいると、頬を撫でるぬるい風が雨の匂いを運んで来た。
リュウもそれを感じ取ったのか、天を仰ぐ私と同時に空を見る。
「走ります」
歩幅を大きくして隣に並ぶ私の意志を受け取って、リュウは遠慮なくまた私の前に出た。
ポツリと鼻先に雨粒が当たり次第に数を増やしていく中、私達は手を取り合って光の中を走った。
夜の街を彩るネオン、心ばかりの街灯と、濡れたアスファルトに反射するヘッドライト、雨粒を纏ったショウウィンドウまでもがきらきらと輝いていた。
*****
一人、バスに揺られて考える。
水玉模様の窓ガラスには、頬をピンク色のグロスできらきらさせた、知らない少女が映っていた。
今日は目紛しい一日だった。
色んな事があった。
彼女もきっとそうだったのだろう、満足そうに、でも少し眠たそうにうっとりと目尻が垂れていた。
良い日だったんだねと心の中で語りかけ、微笑むと、彼女はそっくりそのまま私に微笑み返してくれた。
幼気な十代の、私によく似た少女だった。
せっかくまた彼に会えたのに、鏡や靴のお礼もできなかったし、私がへし曲げてしまった首は大丈夫だったのか聞き忘れてしまった。
あの時は必死だったから咄嗟にあんな行動を取ってしまった訳だけれど、一応反省して、次に会ったら伝えようと思っていた謝罪の文言も練習して来たのに伝えられなかった。
それどころか会話らしい会話もしていない。
でもきっと、ティファニーさんの前なら大丈夫じゃなくても大丈夫と言いそうだ。
彼女の言う事はなんでも聞くし、聞いてあげる事に満足していて、彼女もそれを知っている。
そう見えた。
そしてマスターは、人を従えるのがとても上手。
イエスと言わせに来るし、ノーと言うのにはそれ相応な理由を探さなくちゃいけない。
近藤さんを持ち上げていたけれど、きっと近藤さんさえもうまく扱っている気がする。
もちろん、私も。
あの人達一体何者なんだろう。
ほんの少し、まだ怖い。
でも、それ以上に興味が湧いて来てしまって困る。
身体の奥が、昂っている。
自宅に戻り、すぐにギターを出した。
今日聞いた音と、見た指の運びを照らし合わせて、正しい音を探す。
同じにはならなくても、少しでも近くに行きたくて、記憶を辿りながら弦に指を這わせる。
近い音が聞こえる度に、二人の声と姿が浮かんで見え、止めることが出来なかった。
瞼の裏に焼きついた見つめ合って歌う二人の姿は、初めて見た時と同じ様にまさしく誂えた様にお似合いで、二人のそれぞれの行動からは、いつも隣に誰を置いて歩いて居るのか言葉にせずともよく分かった。
互いの特性を良く知っている。
だから黙っていても良くわかる。
体が勝手にそう動く。
背の高い彼にも、それに合わせて歩ける彼女にも、追いつくためには私はいつも走っていなくてはいけない。
きっと疲れる、でも、きっとそれは楽しいだろう。
私の中で、すでに感情が燃えていた。
眠る前、今日の夢のかけらをひとつひとつ袋から出して並べて見ると、どれも散財したとは言い難いかけがえの無いものに見えた。
足にぴったりあった靴、きらきら揺れる髪飾り、白いレースのワンピース、リボンの付いたランジェリーに、専門店の蜂蜜、あの飴やみかんさえも、全部布団に持ち込んで抱いて寝たいくらい。
布団に転がり、目を瞑るのも勿体無くて、今日一日を何度も振り返った。
今日は何があったっけ。
きちんと思い出して並べ直し、何度でも見返せるように配置する。
身体中に満ちた温かいものが、気を付けないと溢れてしまいそうになる。
初めての事、得意でもなければよく知りもしない事が、なにをやってもうまくいった。
出来ると思う不思議な自信があった。
胸の鼓動はちっとも落ち着く様子は無く、次はいつ行こう、明日行ったら迷惑だろうか、早く朝にならないかと何度も寝返りを打つ。
夜の短い夏の事を、初めて少し好きになった。
小窓から差し込む月明かりに、机の上でなにかが反射して光った。
のっそりと起き出して見てみれば、あの手鏡だった。
〝Marianna〟
はっとして、あの日直して貰ったきりしまい込んでいた靴を出すと、そこにも同じロゴが付いていた。
私の持ち物に唯一付いていた、名前らしい文字列。
でもソレイユにはもうみんなに愛される『マリア』が存在していた。
音楽室の真ん中で静かに佇む貴婦人、今日、鍵盤の蓋の裏に金の文字で名前が刻まれていたのを見た。
だから、半分とってつけてくれた、純日本人の私にも合う可愛いあだ名。
朝を待つ薄暗い部屋の中、何かが噛み合う。
『アンナ』は、あだ名。
体の中がざわざわする。
血が昂ぶって、むずむずする。
思い出しただけで、息が詰まる。
またいつか、出会えた時に
私を呼ぶための名前。
「さようなら」では無く「おやすみなさい」と伝え合い、バスの内側で離した左手が、また熱を帯びて疼く。




