Moon river
「おかえりなさい」
各々出掛けたときよりもだいぶ増えて帰ってきた私達を、ソレイユは温かく迎えてくれた。
私達は、一杯飲みたいと言う近藤さんだけ店に残し、四人で最上階の〝音楽室〟へ向かった。
店に生演奏の設備が整っている事から分かるように、ここは客も従業員も、音楽を愛する人達が集う場所らしい。
かつて小さなホテルであったと言うこのビルは現在、住み込みで働く人間が多い為に半分くらいが客室をそのまま利用した各自私室や、共有の居住スペースとなっている。
ホテルを廃業した後、もうそんなに客室は必要ないからと、店舗に改装するついでにみんなが使える音楽室を作った。
音楽室に入るには、まず他の部屋とは違う厚くて重たいドアを開け、三畳ほどの小さなスペースに所狭しと置かれた工具や線を避けながら、また分厚いドアをもう一枚あけなくてはならない。
最上階だという事もあって、履き慣れないヒールでは辿り着くまでに大変な労力を費やす場所である。
やっとの思いで辿り着いたそこは、学校などでよく見るものとは少し違う〝音楽室〟だった。
天井まで埋め尽くす壁一面の本棚や、鏡とアクリルで囲まれた要塞みたいなドラムセット、その他趣味も趣向もよく分からない楽器たちがケースに入ったり入らなかったりしながら並べられていた。
音楽室と言うよりは、楽器店の内装の方が近いかもしれない。
乱雑そうだが、品の良い照明や高級そうな絨毯はどれもセンスが良くてまとまりがあり、木と、金属と、紙の匂いがたちこめる空気は、どこか懐かしさを感じさせる。
そんな味のある空間で特に存在感を醸し出していたのは、中央で堂々としている木目調のグランドピアノだった。
部屋の広さか、それ自体が持つ雰囲気からか、下にある白いピアノより少し大きく見え、所々に施された彫刻は繊細で見事なものだった。
滑らかな曲線と気品の漂う佇まい。
丁寧に手入れをされて居るのだろう、見て取るだけで大切にされて来たことを窺わせる彼女はまさしく「存在している」と言うのが一番しっくりくる。
「綺麗」
感嘆の声をもらすと、なんだか一層引き立って見えた。
「褒め上手さんにはサービスしなきゃね。良かったらいかがですか、一曲」
ピアノに目を奪われている私の様子を見て、マスターが鍵盤の蓋を開けてくれた。
中までピカピカで、ほうっとため息が漏れた。
もちろん私はピアノなんて弾いたことがないので遠慮をしたが、マスターが代わりに『ドレミの歌』を弾いてくれた。
さすがにこれならば小学校の音楽の時間に習ったことがあるけれど、すぐにマスターは右側を私に空けて、私に弾くよう促した。
鍵盤ハーモニカとは話が違う。
私は緊張しながら、でもやっぱり断りきれずに、今見たマスターの指の動きをなぞってピアノに触れてみた。
私の拙い主旋律に、マスターが単調な和音をつけてくれる。
柔らかく落ち着きのある深い音は、まるで貴婦人の歌声。
私はただ右手を添えているだけなのに、それは立派な演奏だった。
「いいぞ、上手だ」
褒め上手さんはどうやらマスターの方だった。
機嫌良く楽しそうなマスターはまるで見せて教えてくれているようで、すっかり乗せられた私は、今見た左手を真似て両手を使って弾いてみる。
それを見たマスターは今度は鍵盤の一番隅まで使って伴奏を付けてくれて、聞いたことのないドレミの歌が仕上がった。
良いものは、ちょっとくらいの悪いものは隠してくれるのかもしれない。
「素晴らしい。ティファニー、私は天才を見つけてしまったようだよ」
「それは大変。鍵をかけて隠しておけば良かったわ」
「もったいないよ。もっとやろう」
私とマスターのお遊びを聴いていたティファニーさんは、お茶目な返事をしながら笑顔で拍手をくれ、隣で準備をしていたリュウは、そのままギターでドレミの歌を弾き始めた。
ティファニーさんが歌ってくれて、その弾む歌声にマスターが続けて同じ伴奏を付け、私もティファニーさんの歌う英詞を追いかけて再び鍵盤をなぞった。
誰でも知っている子供の歌だと思っていた。
そんな曲でも、格好良く決まるとなんだかすごく嬉しかった。
「ミュージカルみたいです」
「ミュージカルはお好きで?」
「映画はよく観ます。サウンドオブミュージックも、ビデオで見ました」
「映画が好きなのね。リュウ、なにか知ってるのない?」
ティファニーさんからの問いに、まだどこかしらぷりぷりしながらリュウは暫く考えて、『星に願いを』を弾いてくれた。
部屋の中にこだまする音は雑踏の中よりずっと耳に届き易く、相変わらず綺麗だったが、残念ながらちっとも歌い出さない。
聴いていてやきもきしたのか、ティファニーさんが代わりに途中から歌っていた。
とても上手だった。
歌が上手い人と言うよりは、歌を歌って生きてきた人のそれに近かった。
彼女もまた、音楽を愛する人なのだ。
顔を見合わせて、目で合図する。
「歌って」
もっと大きく、少し早く、こっち見てと、教えるようにリードする。
リュウはそれに応えて、嫌々ながらも小さく小さく歌い始めた。
ティファニーさんの声を邪魔しない、それでいて曲に深みや厚みを出すような、綺麗な綺麗なコーラスだった。
言葉で無く、目や気配で心を伝え合える二人の姿が切り離した向こう側の世界に見え、またひんやりとした感覚がぞわぞわと背中を撫でる。
小さな音楽室の中、そこは充分なステージであり、立派なショーだった。
感動と呼ぶには随分と気疎い感情が、胸から喉の辺りを熱くして刺激する。
纏った空気がびりびりして、鳥肌がたった。
「あんたの歌声初めて聞いたわ。歌えたのね」
「歌えない」
「歌えてた。褒めているのよ。ギターも上手になったわ」
「ティファニーの前では絶対歌いたくなかった」
「アンナはいいのに?妬けるわね」
歌い終えてティファニーさんは、鬱陶しがるリュウの耳をつまんでじゃれついていた。
『アンナ』という単語に反応してつい顔をあげてしまった私と、同じく視線を移してしまったリュウの視線がぶつかると、リュウはすぐに目をそらして下を向いてしまった。
「アンナは、大通りの向こうからでもあなたの声を見つけたわ。アンナの耳が良すぎることもあるけれど、それだけいい声なんだから、自信持って歌いなさい。もっと良くなる」
優しく諭すティファニーさんが、先生みたいだった。
きっと先程の歌も、マスターが私にしてくれたように、教えながら歌っていたのだ。
その後は、褒められたせいか急に素直になったリュウが、洋画も邦画もアニメもミュージカルも併せ、何曲も弾いては歌ってくれた。
それはとても生き生きとして楽しんでいる様に見え、うずうずする私のために、マスターはそこら中に転がっている色んな楽器を、曲中に扱い方を教えながら私に触らせてくれた。
最後にティファニーさんのリクエストで、『ムーン・リバー』が演奏された。
リュウは歌わずに、柔らかな旋律を奏でると、ティファニーさんが声を乗せる。
それを私は、食い入るようにその指先を見つめ、歌声に耳を傾けた。
目も、耳も、そこだけに集中し、身体中に染み渡るような音を細胞全部で吸収するイメージ。
「あの、いいですか?」
その日初めての私からの提案を、ティファニーさんは全て聞く前に「もちろん」と二つ返事で受け入れ、急かされたリュウは一瞬驚いたように目をくりくりさせつつ、すぐに頷いて応えてくれた。
「リュウ、アンナにギターを」
マスターがリュウを促した。
やっぱり、言わなくてもマスターは私の言いたいことが分かっているようだ。
言われるがまま、リュウは私にギターを貸してくれたが、マスターの真意には気付いていないようだった。
先程リュウに向けていたのと同じ、ティファニーさんの意志を持った視線が私に送られた事で、私は準備が出来ていた。
そのつもりで、もう一度頼んだのだ。
その目の望むままに、彼女の中まで見抜いて入り込み、その通りになってみせる。
口の形、声の高さ、息の吐き方や体の使い方、全てそっくり真似てみる。
「さあ」と言われたら「はい」と答えられなければ。
「出来ない」なんて言いたくない。
「出来ないの?」なんて言われたら、きっとまたしにたくなる。
少しでも〝そこ〟に近付きたくて、後戻り出来ない所まで自分で進んでいた。
ぽろぽろと、初めて触る弦の感触を確かめて、確信を持つ。
何故か分からないけれど、初めて二人の演奏を聴いた時、確かに感動したのだが、どこか違う感情があった。
何度も、そして色々聴かせてもらって、気付いてしまったのだ。
その正体に。
私は、あろうことか演奏された全ての曲を
「これなら出来る」と、
穏やかに、受け入れていた。
どうすれば良いかが見えていて、正解の音が聞こえていて、完成形を理解していた。
ドレミの歌のように。




