デイ・ドリーム・ビリーバー
楽しい夏休みになるはずだった。
気が付くとそこは、真っ暗闇の中だった。
頭上からは音を立てて水の粒が降り注いでいて、私は裸足のまま地べたに転がり、びしょ濡れだった。
遠く聞こえるサイレンの音はやかましく、蒸し暑くて空気が薄いこの場所は、私の胸を騒つかせ絶望へ押しやるには十分過ぎた。
「どうして……」
私の希望の象徴が、音を立てて崩れていく。
甘く儚く、輝いていた日々が、遠い夢の彼方へ消えていく。
これは、私の夢物語
夢の中、何度も目を閉じては目覚め直して始まった記憶を辿り、
どうか、どうかと祈りを込めて
私はもう一度目を閉じる。
雨に似た音は消えてくれず、息苦しさは増していく。
それでもなお、私は祈った。
薄れ行く意識の中、目覚めた場所に居る人が、どうかあの人であります様に。
*****
長い長い、夢を見ていたんだと思う。
それはもう、いつどこで眠って、どこから始まったのかもすら、思い出せないほど。
「凪子」
私を呼ぶ、声がする。
「おはよう」
目を開けると、どこか知っている気がするのに、いまひとつ分からない人が私を見下ろして笑っていた。
「おはよ」
寝起きで、殆ど声が出なかったけど、彼はしっかりと聞き取って頷き、笑ってくれた。
「ご機嫌いかが」
「ふつう」
白い部屋の真ん中で体から何本も線や管を繋ぎ、枕元では規則的な機械音が蚊の鳴くような命の音を刻んでいた。
電気が付いていて明るかったけれど、その部屋には窓が無かった。
外の空気が吸いたいのにやはり声は出ず、口元には邪魔臭い透明のカップが張り付いていて、人工的な酸素をシューシューと送り込んでくるので変に苦しかった。
どかそうにもつつこうにも、体が思うように動かせずに、不満気な顔だけ見せ付けたら、やっぱり微笑まれただけだった。
私の名前は海川凪子。
十六歳。
私が暮らしていたのは、埼玉にある療養所。
珍しく積もるほどの雪が降った寒い寒いその朝に、死にたがりの私は何度目かの生死の境を彷徨って目覚めた。
意識がはっきりして、記憶が残っているのがその日からなので、それより前の事はよくわからない。
ただ、眠っていた期間が随分と長かったようで、頭も体も鈍ってしまって、当面の目標は「日常生活を送れるようになる事」だった。
歩く事さえままならない筋力に、会話も上手くいかないくらい回らない頭と口。
少し考えたり動いたり、文章なんかは読むだけで疲れてしまって、治療に関するような大切な事柄すら、読み上げて、さらに要約して貰わなければならない。
それどころか一日中起きている体力さえ保たず、食事を取る気力も残さず寝こけてしまう事もしばしばあった。
普通に生きるとは、なかなか大変な事だった。
散々寝ておいて、まだ足りないと寝ている毎日。
今思えば、とても都合のいい、淡い幼い夢を見ていた。
登場人物はやたらと印象深い美形や良い人ばかり。
異性の友人、仲の良すぎる家族、優しい田舎町、頭が良くて器用で人気者の私、そしてそんな私を愛してやまない王子様。
なんでもかんでも、思う通りでドラマチック。
痛みもあり、音も色もしっかりついて、匂いも温度も覚えているのに、確かにあれは夢だった。
私の身体に付いている傷は、大小問わずほぼ全てが、自分で付けたものだと聞いた。
私が思いつくまま話す〝思い出話〟を、他人は相槌を打つだけで誰も『彼ら』を知らなくて、一人も会いに来てくれなくて、あんなに大事にしていたはずの物さえ私は何も持っていなかった。
『彼ら』はきっと、私の中に居た『私』達だ。
人の求める人であろうとするあまり、私自身が生み出した空想。
私自身がそうありたいと願いながら、一番欲しかったものたち。
だからいつだって味方でいてくれて、みんな、どこか私に似ていた。
人の言うことをよく聞いて、肯定から入る大人な私。
ちょっとやんちゃで時々反発もしたい、子供な私。
知識と才能にあふれ、誰かの役に立ちたい私。
年相応の会話や振る舞いをして、はしゃぐ私。
誰かを、無条件に深く愛したい私。
誰かに、愛されたかった私。
最後まで認める事が出来なかった、愛されなかった私。
だから彼らはあんなにも個性的で、感情豊かで、友好的で、自由だった。
私が拒むはずなど無いのだから。
「つまり、凪子の中で生き続けている訳だ。今も。文字通り」
「みんな最初から居なかったのよ。そう言う話をしたつもり」
「みんな最初からそこに居たんだろう。そう言う話だと思ったけど」
うまく言葉に出来なくて、つらつらと書いた箇条書きのメモみたいな夢日記を読み、興味を持ってくれたのは、病院関係者であるものの茶髪に色付き眼鏡というクセの強い風貌で、医師でも看護師でも無く、何をしているのかいまいちよくわからないお兄さんだけだった。
私を呼び戻した、その人だ。
毎日私に「おはよう」を言いに来る。
貴崎さんと言うのだが、男なのにキサキ(妃)という下らない理由であまり本名を好いていないらしく、尊敬と親愛を込めて『キング』とお呼びしている。
本人には初対面の時から「お兄ちゃん」と呼ぶよう勧められたが、そう呼んだ事はないし、呼ぶ予定も無い。
好奇心旺盛で多趣味、センスがあるのか無いのか、時々アロハシャツに雪駄にロレックスみたいな格好で現れるが、ロマンチストで詩人で、頭も良い。
器は広く、想像力も豊かであるおかげに、私の言う事をちゃんとわかろうとしてくれる。
居心地のいい人だ。
「元気になったら、僕と世界を見に行こう。この世界は広く、素晴らしいよ。中には凪にぴったりの住み良い場所があって、気の合う人もきっと居る。凪にとって生きやすい所を見つけに行こう」
その提案に、私は乗った。
世界は広い。
男と女、大人と子供、日本と諸外国、それどころか各家庭レベルでさえ常識にズレがあるように、人と場所で〝普通〟は変わる。
その中にはきっと、私自身が変わらなくてものびのび生きていける場所があって、私の望む普通を普通とするコミュニティがある。
多くの人と触れ合い、生き方を間近で見る事は自分自身を見つけ直して変わるきっかけにもなり得るし、大きく成長する事だって出来るだろう。
その旅に、キングは保護者として協力する事を約束してくれた。
私を取り巻く現状も、私の中に隠れている『私』の存在も認め、自分でさえ思い出せない過去まで全部含めて私なんだと受け入れて、大切にして大切にされる、絶対安心の安全基地。
何の繋がりが無くても、私が子供でも、常識を取り払ってしっかりと向き合い、お互いに理解できるまで話を聞いて助けてくれる人は、多くは無いが夢では無く、本当に居るんだと言うことを、彼は最初に証明してくれた。
誰も私を知らない所に行きたい。
思うように生き、自分を理解するために、取り繕わなくて済む場所に行きたい。
誰も私を知らないと言う事は、私が何を知らなくても誰も気にしないと言う事だ。
そんな希望を込めて放った言葉はそのまま受け取られ、キングは退院が決まったばかりの私をアメリカへ留学させる手続きを始めた。
英語がわからなくても、学びながら特別授業が組まれるコースがあると言うし、全寮制の学校なら他にも同じ様な留学生が多くて安心だし安全だと、たった一人で放られるようだ。
始めてしまえば意外とどうにかなるらしい。
頑張れと満面の笑みを向けられたが、膨れた私を見て「後で僕も必ず行くから」と付け足された。
「約束よ」と小指を突き出せば「もちろん。約束だ。でも、こう言うと直前になって不慮の事故に遭う気がして来るんだけど、僕だけかな?」などとふざけて来る。
「その時は」
「いいよ」
キッと睨み付け、私が続けようとした言葉も覚悟も受け止めて、キングは笑った。




