Quiet Night Quiet Stars
十五歳。
柳澤柳の人生は、一度終わった。
クラスメイトに飛べと言われて、五階の教室の窓から飛んだ。
なんでも「はい」と答えるだけで生き延びてきた彼には、そんな自分の行動に躊躇いも疑いも無かった。
思えば、寂しい人生だった。
八歳のとき、母は眠る柳の隣で眠るように死んだ。
父は有名な音楽家で、家も地元では名のある旧家だったが、母が亡くなるまで存在を知らなかった。
『柳』と言う名は、愛人だった母が一生名乗る事の出来ない『柳澤』の姓への憧れと、父『龍臣』への深い愛から付けられた、戒めの様な名前であった。
まだ幼かったことと、男の子であるという理由から、母の死後は実の父に引き取られたものの、その道は荊を裸足で歩くよりも辛かった。
生んだ覚えもないのに、父によく似た目の色の違う息子を、育ての母は良く思わなかった。
父は厳しく、決して息子だからと味方をしてくれる人では無かった。
けれども亡くなった母は、父がどんなに偉大で素晴らしい人であったか、死ぬまで言って聞かせてくれた。
そして父も、自分には必要無いだろうに、柳を引き取る際、母のピアノも残して共に自宅に置いてくれた。
今がどうであれ、そこにはきっと愛があったのだと、柳にとってそれだけが救いだった。
だから、その日までは、なんとか生きてきた。
病院で目を覚ました時、父親は「なんて事をしてくれたんだ」と柳を心底軽蔑し、最大限に侮辱した。
医者は懸命に彼を生かす努力をした事を後悔しただろう。
あれだけの大事故でありながら一命を取り留めたことは、それだけでも大変な奇跡であった。
時間はかかるけれど、本人の頑張り次第で、日常生活に支障無い程度に回復する見込みもあった。
しかし、それでは駄目だったのだ。
左耳の失聴と、手足の麻痺。
それは、繊細な音の技術を必要とする音楽の世界では、死んだも同然だ。
たったひとつ信じて歩いて来た道はそこで突然に閉ざされ、二度と志す事を許されなかった。
生きる意味を失ってしまった。
育てる意味も失われて、家を追い出された。
それが、十五歳だった。
行く当ても無ければ生き方も知らない中、夜の街でヤクザの愛人に拾われたばかりに、また従順に言う事を聞いて息をつなぐ毎日がやって来た。
『レオン』と、数日前に死んだ彼女の飼い犬の名前を引き継いで、それに返事をする変な日々。
ホストクラブで働くために素性を隠して名前を捨て、表の世界を知る前に裏の世界を知りすぎて常識を捨て、最後は自分も捨てた。
「いつどこで死んでもいい」
それが、唯一の覚悟で最大の武器だった。
母が死んだ時、知らない家での生活中、そして病院と、野垂れ死にかけていた夜の街、目を覚ます度ろくな事がない。
もう二度と目覚めないでいられるのならそれに越した事はない。
そう思っていれば、怖いものなんて何も無かった。
十六の冬に、仕事をひとつ受けた。
死ぬ気で行け。
余計なことは口にするな。
どこで生まれ、どこで育ち、どうやって生きてきたか絶対に言ってはいけない。
そこに住んでいる女の人に会い、彼女の指示に従う事。
行けば分かる。
一目見たら分かる。
成り上がりとは違う生粋の金持ち故に、どんな姿で矯めようと育ちが所作に出ている、上品な美人。
目を引くし、向こうもすぐに柳の存在に気付くだろう。
その人だけは信じて良い。
柳が命を預けていた拾い主、杏子さんとの、最後の契約だった。
約束はそれだけ。
終わらないのに帰って来たら殺すと言われた。
死にに行くようなものなのに、これ以上死にようがあるものか。
今ここでどうにかなっても受け入れられる柳にとって、正直何処に行こうと、行った先でどうなろうと、どうでも良かった。
それまで持っていたものは没収され、代わりに用意されたキャリーケースを持って、渡されたチケットを頼りに、一人飛行機に乗った。
そうやって、リュウはこの街にやって来た。
〝最期〟の覚悟をして。
言われた通り街に来てすぐ、そんな柳に最初に声をかけたのは、小さな少女だった。
寒さに頬を赤く染め、目をきらきら見開いて、消そうとしたって消し切れない〝その道の空気〟を纏った生気のない男を、怖がりもせずに見上げていた。
器量云々以前に、上品な美人と称するには少し幼い。
聞いた話とも、想像とも、随分違って驚いた。
その時、確かに柳は驚いたのだ。ものすごく。
胸が跳ね上がる感覚は、もう何年も忘れていたのに。
だから、食い入るように顔を見た。
焼き付けるように、彼女がそうなのか、味方であるか、探る様に。
少女は〝落とし物〟だと言って、封筒をひとつ手渡した。
柳はまだ自分の荷物の中身さえ知らないままだったので、ただ「はい」と受け取ると、少女はそれだけですぐに去ってしまった。
中身を確認してやっと柳は、この契約が〝最後〟である意味を知り、終わらないどころか、始まりもしない事を知った。
そして、関係無いと思っていた少女を見送って、見失ってしまった事を死ぬ程後悔した。
中に入っていたのは、亡くなった母と柳が写る、唯一の家族写真。
それは確かに柳の持ち物で、愛されて生まれ、生きる事を望んでくれた人がいた事の証だった。
もう二度と戻ってはいけない。
杏子の言葉が急に重くその身に降りかかって来て、潰されそうになった。
始まらない事は終わらせる事も出来ず、短いけれど強かった縁が途端に切れ、心に恐怖がやって来た。
生に執着しない事が武器にならない世界に来てしまった。
生きることは難しく、死を考えるのは苦しい。
それでも生きねばならないのだ。
自分は生かされていた事を思い知った。
再び少女に出会ったのは、それからほんのひと月も経たない内だった。
最終のバスが出る時間帯の、夜の街。
突然降り出した雨と迫る夜が人の足を早めている真っ只中で、互いに俯いて走っていて、すれ違いざまに気が付いた。
声をかける余裕もなく、駆け抜けて行く少女の鞄から何か光るものがこぼれ落ちるのが見えた。
慌てて拾おうと、流れに逆らっていきなりしゃがみ込んだために、蹴られて、踏まれて、泥水に両膝をついた。
少女はもう居なかった、また、見失ってしまった。
そこに運良く、傘をさしてくれる優しい人が現れて、また救われた。
それが、ティファニーとの出会い。
そして、ソレイユとの出会いだった。
その日からまた、死んだつもりでなんでもやった。
それは、胸を張って生きるため。
そして、少女にもう一度会うために。
柳は育った環境のせいか、人の目を見る事や目を見られる事、自分の意見を言う事、自分で考えて行動する事など、人と深く関わる事が全部苦手だった。
自分には心が無く、無い心で人の心を透かして見ようとするのは、とても難しい。
それなのに、人にどう思われるかを過剰に考えてしまう質だった。
そんな柳の性格を知っているかのように、ティファニーは柳に考える事をさせず、時に拳でモノを言い、次から次へと命令をして、自分の言う通りに動かした。
安心して住める家と、仕事と音楽を与えた柳は、見違える程生き生きと毎日を送るようになり、ティファニーはその様子を見て楽しんだ。
柳にとっても、それは心から望んでいた〝真っ当な生活〟だった。
体の事は説明したが、ソレイユは敬遠する事なく接してくれたし、それどころかその腕に価値まで与えてくれた。
一度は閉ざされた音楽の道を、再び歩む事を許された柳は、自分にとって音楽がどんなに偉大な存在であったか思い知った。
毎日が、とても充実していた。
杏子の言う事がどこまで本当かわからない。
そもそも話に言う美人がティファニーなのかも怪しいし、ティファニーと杏子の間には何かあるのか、写真を届けてくれた少女は何者なのか見当もつかない。
しかしあの日、あの少女が居なければ、柳は何も知らないままこの街で途方に暮れて、結果死んでいただろう。
少女は命の恩人であり、柳に人の心と母の愛を思い出させてくれた大切な人だった。
少女を想うと、あの日手元に戻った母の笑顔が同時に浮かび、写真の母を見ていると、少女の事を思い出した。
そしてその度に、真っ当な人間に生まれ変わらねばと心が奮い立った。
もし、もう一度会えたのなら、向こうが覚えていなくても、せめて一言お礼が言いたい。
いつか必死で掴んだ手掛かりは〝鏡〟だった。
ティファニーに聞いたら、マリアンナという地元のブランドが企画で出した限定バッグのオマケだと言っていた。
数年前に一度だけだったし、数も限られていて持っている人は珍しいらしい。
大事なものかもしれない。
ならばこれを口実に声をかけ、あの日自分がしてもらったように、その手にしっかりと返してあげたい。
彼女に、触れたい。
目を見て、心からの言葉を伝えたい。
叶わなくても、せめて、もう一度会いたい。
それが生きる理由になった。
そして、自分を救ってくれたその小さな天使の事を、柳は愛する母の名といつも同じく思い返せるよう『アンナ』と名付けたのだった。




