Raining
この世にどん底なんて無い。
朝から大声で捲し立てられ、逃げる様にソレイユを出た後、学校に着くなり私は生徒指導室へ連れて行かれた。
着くとそこには、校長教頭に担任と、かしこまった大人ばかりが勢揃いしていた。
「土曜日の夕方から夜にかけて、どこに居ましたか?」
私を信じようとしている、担任のすがる様な目が痛かった。
何の前触れも無しに聞かれたので、土曜日は朝から街に一人で出掛けていたと言い、自宅に帰宅したのは何時か問われても、帰っていないと正直に答えた。
嘘はひとつも言わなかった。
「カラーギャングと一緒に居ましたね」
一緒に……?
「あ、はい」
私は何も考えずに、まず肯定してしまった。
空気が淀んだ。
「でも」
もちろんそこから先は、誰も何も聞いてくれなかった。
大人たちは、ざわざわと一人一人勝手に喋り始めた。
土曜の夜、休日だからと出掛けた、その帰り。
みんな黒い服を着ていたから、きっと彼等はカラーギャングだったのだろう。
いきなり囲まれて「アンナ」と呼ばれたから返事をして、カバンを見せろと言われたから差し出したら、あまりにも乱暴に扱うので、大切な物だから気をつけて欲しいとちょっと注意させてもらった。
そのあと、とても怒らせてしまったのだが。
あの時確かに私は同じ場所に彼等と存在していたけれど、直後鳴り響いたけたたましい笛の音と怒声にびっくりして、逃げ出してしまったのだ。
誰かが「逃げろ」と大声で言うものだから、つい従ってしまっただけなのだ。
一言でも会話をしたらもうそれは友人なのだろうか。
言う事を聞いてしまったらそこには信頼関係が生まれるのだろうか。
絡まれただけで面識も無いし、不快感しか残らなかった私はむしろ被害者なのに、人目を避けて歩いていたとか、家に帰っていないとか、実際に後ろめたい事があったせいで上手に言葉を選べずに困ってしまった。
言葉をわかりやすく伝えるために組む事が出来ないどころか、単語すら出てこない程に頭が働いていなかった。
季節外れの黒いタイツも、指先まで隠れるカーディガンも、頬に沿う様にぴったりと撫で付けた髪の毛も、絆創膏も、全部がなにかを隠している証拠であり怪しさを増した。
喧嘩も暴力も、不良グループに属する事も、ここでは処罰の対象だ。
確かに揉み合ったし、警察は嫌だし、親とはうまくいっていないかもしれないけれど、私が言いたいのはそう言うことでは無いのに。
「ごめんなさい」
上手く伝えられないまま、彼等はそれを肯定として受け取った。
私が日頃授業態度や成績に問題もなく、指導も素直に聞くと約束した事を加味し、協議にかけられる今日一日、私は校内で隔離されて反省文とプリント学習をする事になった。
限りなく黒に近いものの、まだグレーであるこの件はどこにも共有されず、あの場に居た人間だけの話というはずだった。
けれど、そんな異常事態はすぐに学校中に広まって、チャイムが鳴るより早く校門を出る私の背中には、冷たい視線を感じずには居られなかった。
入学早々、一学期が終わる前から二回も三回も生徒指導される奴が普通であるものか。
聞こえない筈の声が聞こえる気がして、気分が悪かった。
もうどれが何だかわからなくなった筈の棘が、傷に障って痛かった。
もう動く事もなく、揺れる事もなく、中に満ちていたものだって、きっと全て隙間から溢れ出てしまっただろうに、心はまだそこにあるらしい。
私の一件は不問となった。
そもそも事の発端は、また噂話だった。
土曜日の夜に、私が黒い服の男達と会話し、一緒に逃げて行った様子が、どこからか学校に情報提供されたらしい。
その話以外に証拠はなかったのに、当の本人が証言してしまったのだから学校としては問題にしなければならなかったのだが、学年トップであるはずの私が一日かけて書いた小学校一年生の日記みたいな、ただ起きたことを時系列順に並べた拙い反省文を読んだ教師たちは驚愕し、私に休養を言い渡して終わった。
一方的に知られていただけで、私と彼とはあの場に居たと言う共通点以外に接点は無いので、私が黒側に引き込まれる方がおかしい。
でも、白のはずなのに、白くない。
帰りは担任に自宅まで送られた。
玄関だけくぐって車を見送った後、家主が帰宅する前に散々歩いてタクシーを捕まえ、店先で待たせて、マスターからなけなしのバイト代を前借りさせてもらって代金を支払った。
「ごめんなさい」
「良いんだよ、必要だったんだろう?」
「はい、すみません」
「ごはんは?」
「食べてきました」
私は、嘘をついた。
「アンナ、少し話ができるかい?」
「ごめんなさい。今日はもう寝たいです」
「そうか。ゆっくり休みなさい」
マスターは、私が無断で、下校時刻から大幅に遅れて帰宅したことを責めなかった。
ほんの少しだけさした希望の光がマスターの優しさを思い出させてくれて、そしてほんの少しだけ眉間に力の入った不安げな顔を見てしまったら、心配をかけてはいけないと思って口から出てしまった。
その目が曇ったら、もう私は駄目なんだ。
それなのに、素直な自分で居られるはずのソレイユで、私はついに嘘をついてしまった。
ここにさえ帰って来れば、どうにかなると思っていた。
けれどもソレイユの空気をいくら吸っても、私は落ち着いて話を出来る気がしなかった。
きっと口を開けば言い訳ばかりしてしまう。
応えてもらえなかったら、今よりもっと落ち込むだろう。
最後の逃げ場と思っていた人も、飛ぶ事をやめた鳥を飛ばしてくれる人では無いから、武器の無い私はもうどこにも行けない。
ティファニーさんは怒っていた。
謝っても謝るなと怒られて、また謝ってしまったので、きっとまだ怒っている。
ご飯やお風呂を断るだけのそんな会話もドア越しにしかしないので、とうとう愛想を尽かして一人で部屋に戻ってしばらく騒いでいた。
ティファニーさんの言う事さえも聞けなくなってしまっては、私はもう立派に悪い子だった。
悪い子には罰を与えなくてはいけない。
夜が明けるたび世界が変わる。
ソレイユでさえ身を隠して生活するようになり、人の顔が分からなくなってきた。
いつか自分が透明人間になったような気分でいた事があったけど、本当に今はそうなってしまったみたいに、私からも見えなくなっていく。
机の中身はごっそり無くなり、ロッカーの鍵も取り外されて、上履きが下駄箱の名前ごと消えた。
鞄は誰の物か分からないゴミと勘違いされて、思いがけない所で転んだり持ち物に何か挟まっていたり、よく怪我をする様になった。
まるで日常の一部の様に、誰もこの事について触れもせず気付いても居ないので、きっと私が悪いのだ。
神様は見てる。
だから逃げたりはしない。
逃げる所ももう無い。
ただ、毎日生きるだけ。
金曜日、帰ろうと下駄箱を開けるとローファーが無くなっていた。
代わりに、ちぎったルーズリーフがひとつ入っていた。
私、靴をどこで脱いだんだ。
ここではないどこかなど。
懸命に記憶を辿ったが、思い出せなかった。
大事な物なのに。
携帯電話の無い私との連絡の取り方に困ったのだろうか、取り出した紙は短い手紙で、差出人は〝友喜〟だった。
それは久方ぶりの、お誘いの文言に見えた。
プールに金魚を放そう。泳がなくていいように
私はすぐにハルキの下駄箱を見た。
そこにはまだ靴が残って居たので、手紙を入れ、走った。
鍵のかかるフェンスを越えて入ったプールサイドには、人の姿は見えなかった。
連日の雨をもろともせず、きらきらと水面は輝いていた。
慎重に足を進めて覗き込み、水の中に眼を見張る。
金魚を探した。
青い中、赤い金魚はよく目立つ。
止まる事なく揺らぐ視界で、懸命に赤を探した。
そして、のまれた。
次の瞬間には、私の身体は水の中にあった。
何が起きたかわからない。
柔らかくて冷たい水の真ん中に、体が浮いていた。
音は無く、視界は歪み、ぼやけて、光がとても強かった。
私は静かに、沈んで行った。
音の無い世界は壮大で美しく、遠く聞こえる笑い声は明るく楽しそうで、青白く光る水底の空が綺麗に見えた。
沈んで行くのに体は軽く、とても、気持ちが良かった。
逆さまの空へ落ちて行けば、きっと何もかもが逆さまの向こう側へ行ける様な気がした。
それはきっと、とても幸せな事なんだと、なんだか素直にそう思えた。
溜め込んで隠していた、最後の一息が、まあるく形を作って、私の中から出て行った。




