月光
ここ最近、ソレイユで食事を取っていないリュウはきっと栄養の偏ったものでお腹を満たしているであろうと危惧し、ヴィヴィと一緒に電子レンジしかないリュウの部屋でも食べられる保存食を作った。
学校には学食があるはずだが、毎日二十二時過ぎに帰宅してからしっかり目の夜食を食べていたので、どうせ外でろくに食べていないのだろう。
すぐに食べられる二人分のお弁当も用意して、今日も帰りそうにない彼を迎えに行くために電車に乗った。
いつも来るのは決まって夜で、それも前回はあまり良い印象で終われなかった如月荘は、今日も街灯の光を浴びて青白く不気味に聳え建っていた。
何をしていたのかは敢えて聞かず、ご飯を食べて、一緒に帰る。
ただそれだけだ。
ソレイユに着けば、いつもなんだかんだ、良くも悪くも丸く収まってしまうのだ。
クリスマスイブよりも良くない事は起きないだろう。
一度でも経験してしまえば慣れて大きく構えていられる便利な脳味噌は、今日も絶好調だった。
学校が終わる頃を見計らい、なんなら部屋で待つつもりで鍵まで預かって来たのだが、カーテンの隙間からはうっすらと明かりが漏れていた。
消し忘れか、それとも今日は早く帰ったのか、本当に具合でも悪くて休んでいるのか、少し心配になった。
チャイムを押しても、誰も出て来やしない。
自宅のチャイムにも気付けない耳になったのだろうか。
それとも寝ているのか。
確かめるようにもう一度チャイムを鳴らすと、どしどしと重い足取りが玄関に近付いて、扉一枚挟んだ向こうで止まった。
ふと、何か嫌な気配を感じた。
「ソレイユの、おつかいです」
沈黙を続ける小さな穴に声を張る。
しっかり見つめて、三秒待った。
「……ごめん、今無理」
沈み切って力無い、掠れた声だった。
来るんじゃなかった。
嫌な予感ていつも当たっちゃう。
リュウがチェーンをかけそうになったので、素早く鍵を開けてこじ開けたドアの隙間に足を突っ込んだ。
「いやいやいやいや!待て待て待て、待って!」
「私を騙せると思ったら大間違いよ!ティファニーさんに頼まれちゃったんだから観念しなさい」
爪先からじりじりと入り込み、隙間から腕まで入れたらさすがのリュウも一瞬力が抜けたので、玄関を開け放って中に押し入った。
「嘘つき」
部屋中に充満していたタバコとお酒の臭いが、夜風に混ざって溶けていく。
荒げた息を整えるための深呼吸さえ躊躇する、薄い空気。
同じだ。
同じだった。
あの日と違うのは、部屋にはリュウしか居なくって、その目は私を見る事も出来ずに玄関の隅で縮こまっているということ。
扉を隔てていても溢れて来ていた嫌な気配は、この臭いだ。
「お誕生日、お祝いしたかったわ」
「……ごめんなさい」
十九歳のリュウがしでかした、クリスマスイブの大事件。
たくさんの人を巻き込んで心配も迷惑もかけたばっかりに、それまで見て見ぬフリをして来た大人達でさえももう見逃してやれないと、次の誕生日まで禁酒禁煙の約束だった。
破ったらどうなってしまうのか、そこまでは聞かなかったけれど、きっと良くない事になっていた。
謝ったという事は悪い事をした自覚はあるようなので、誕生日はまだなんだろう。
ティファニーさんが、自分で来ないで私に来させた理由もきっとそう。
全部分かってしまう人だから、リュウが何をして何の為にここに居て、こうなる事も知っていた。
でも自分が来てしまったらどんなに可愛くても怒らない訳にいかないから、私を仕向けたのだ。
連れて来いと言いつつ今日中に帰れない事も分かっていて、二人っきりで一緒にしておいたって何も起きない事も知っているから。
どうして?とは、聞かないと決めていた。
知りたくても、踏み込む事が嫌だった。
リュウが優しい顔の出来る馬鹿だってことは、もう私さえ気付いていた。
キッチンのシンクには空き瓶と空き缶の山が出来、お土産を仕舞おうと開けた冷蔵庫の中は未開封のビールや炭酸水が冷えていた。
それらを全て押収し、代わりに健康的な食事が詰まったタッパーをギチギチに詰め込む。
ベッドサイドには飲みかけのウイスキーと高そうなウォッカ、ベッドの上には飲み口に灰が付いて煙の立つ缶と、まだ氷と薄茶色い水が入ったグラスが開きっぱなしの携帯電話の横にそのまま置かれていた。
だらしないを通り越して危険でさえあるその光景に、一度は引いた怒る気力がまた湧き上がる。
信じらんない。
ありえない。
小言も文句もありすぎて纏まらないので、鼻息を荒げてそれらに次々と手をかけた。
全部持って帰ってやる。
歩いてでも帰ってやる!
持ってきた袋に収まり切らない程の押収物をパズルの様にまとめ直し、シーツのしわを整えて、仕上げに取った携帯電話を充電器に挿す。
ピコン、と小さく音をたて、接続したままの画面が少し見えてしまった。
見てはいけないと咄嗟に思ったのに、私は画面から目が離せなくなった。
見たかったんじゃない、知りたかった訳でもない、しかし勝手に手が伸びた。
画面には、痩せた背中に大きな天使の翼のタトゥーが入った、女性の半裸画像がでかでかと写り込んでいた。
首筋にはシルバーのチェーンが光り、長い黒髪をかきあげる左手の腕時計が、いつか私が壊してしまったそれとよく似ていた。
そこは黒地に白と赤の文字が並ぶ見るからに怪しい掲示板。
小さな文字の羅列の中に『アンナ』の名前がいくつも混ざっていた。
『アンナ』を挟む罵詈雑言。
止まらない指が辿って行くと他にも写真が載っていて、様々なタイプの男性と肩を並べて歩く姿や、頬を引っ付けて無邪気に笑うプリクラ、セーラー服だったりミニスカートだったりロングドレスだったりする『アンナ』が其処彼処に写っていた。
私が目指したアンナではなく、悪意の元に切り取られて作り出された、新しいアンナ。
どれを見ても、どう見ても、そこに居たのは私だった。
雷を落とされたような衝撃に、震える手から携帯電話が落ちた。
ごとりと床に落ちた重たい音を聞きつけて、それまで私がどれだけ暴れようと静かに縮こまっていたリュウがやって来た。
「リュウ……」
けれど、そこから先が言えなかった。
耳に心臓があるみたいにうるさくて、吸ったのか吐いたのか分からない程息苦しくて、藁にもすがる思いだった。
けれども部屋の入り口で、私を見つめるリュウの目は、私の知らない色をしていた。
確かに私を見ているのに私の何も見えちゃいない、私が誰だか分かってもいない、私を私から知ろうともしない、そんな目だった。
何かが壊れた。
ばちんっと大きな音をたてて頭の中で何かが弾け、音の無い世界がやって来た。
もう覚えていない。
伸びた手も、投げられた声も全て跳ね除け無我夢中で部屋を飛び出して、何も持たずにソレイユまで帰った。
どうやって帰ったのかも分からない。
ただ、目眩と頭痛と激しい吐き気に悶えながら朝を迎えたのは、音楽室のピアノの下だった。
非常に異常であった私を、一晩中気味悪がりもせず、貴婦人はただ静かに隠して守ってくれた。
どうにか帰ったソレイユで、どうにか平静を取り戻した私が居た。
なので、夢だと思うことにした。




