Que Sera,Sera
連日、土と風が雨の匂いを運んでくる夏の始め。
私は快適な室内でアルバイトに励んでいた。
週末は朝から晩まで時間の許す限りしっかりと、平日も少なくとも週に三日は、帰宅してから決められた通りの時間きっちり、仕込みや片付けといった裏方仕事を手伝いながら、時々ステージに上げて貰った。
毎日新しい事を覚えて役立てる事は、とても嬉しく楽しい事だった。
ソレイユはいつだって私の味方でいてくれて、どんな私も受け入れてくれて、私が望む事は(内容によっては渋られる事もあったけど)なんでもやらせてもらえた。
時給が発生してもしなくても、ここには私の仕事があって、居る意味があった。
私の日々の鬱憤は、常にソレイユで浄化されていた。
アルバイトの無い日の放課後は、街に出たり藤原家へ遊びに行ったり、趣味と勉強を楽しんだ。
私の帰りが遅い事を心配し、ティファニーさんやリュウのご機嫌はあまりよろしく無かったが、ちゃんと毎日どこで何をしているか連絡をして、帰る約束さえ守れば、お友達と遊ぶ事をマスターは黙って許してくれた。
と言うのも、私のように突発性の学力では無く本物の秀才であるユウキは丁寧に勉強を教えてくれたし、音の出し方しか知らなかった電子ピアノの使い方は、贈り主であるエルメスよりもハルキの方がよく分かっていたので、色んな楽しみ方を覚え、大好きな音楽は特技に、勉強は趣味になっていた。
出来る事がどんどん増えて、やりたい事が次々と湧いてくる。
色んな事をひとつひとつ確実にこなし、信用も信頼も得た私の未来は更にやりたい事の幅を広げ希望に満ちて、私の毎日は朝起きてから眠りにつくまで、以前にも増してやるべき事で溢れていた。
そうでもしないと、満たされてくれないのがアンナという女の子なのである。
アンナの噂は、もう自分で把握し切れない程広まって、立派な人物像を作り出していた。
良い子でいるのは大変なのだ。
それすら〝期待〟と喜んで、そんな幻みたいな女の子に成るべく、私はそれに応える努力を怠らなかった。
誰かにとっては皮肉であり攻撃であったとしても、どうもありがとうと受け取って返す。
勉強が出来て、友達も多くて、手先も器用で女の子らしくて、いつも笑って柔らかそう。
良さげな事はなんでも自分の物にして、その通りになってみせた。
良い子でいたかった。
特別であり続けたかった。
出来ないなんてあり得ない、ぼんやりする時間が勿体無い。
常に目も耳も神経を集中させて頭を動かし続け、意図的に使わないと、聞こえる音と範囲は限られている。
自分を守る為に鍛えた耳は、ちゃんとその通り周りの音や声を聞いていないといけない。
光のさす方を目指して歩くと、その後ろには必ず影が出来る。
光源に近付けば近付く程、影はより大きくなる。
地に着いた足にぴったりと張り付いて、下でひっそり待っている。
その影を消す為には地べたを這うか、飛んで切り離してしまう他無いだろう。
私は、飛ぶ事を選んだ。
黒いものからは逃げていたい。
近くに居ると、胸が痛い。
自宅から学校までは五分とかからない好立地にも関わらず、朝は毎日遠回りをして駅までユウキが迎えに来てくれる。
ハルキは夜更かししがちで朝にめっぽう弱い上に、平日は週刊発行される漫画雑誌各種を買いたい欲があって、最初の一週間は頑張ったものの、今は迎えに出る事を諦め、学校に着くまで会う事は殆ど無い。
その距離感が私には心地良いし、彼の負担にもならずに丁度いいと思っているのだが、逆に学校で会う事の少ないユウキは、朝と昼、そして放課後のこういう時間をとても大切にしてくれている。
二人とも良い友人だ。
むしろこの二人以外に、私にはもう友人と呼べる人は居ない。
高い所を目指し過ぎて、気付けば周りには誰も居なくなっていた。
着いてくるのは、本気を出せば私なんかすぐに叩き落とせる力を持ちながら、こんな私に弱みを握られてそれが出来ないでいる二人くらいだっただけ。
そんな二人の更に上であり続け、目立ち続けることで、私はまた二人を守ることが出来ていたから、持ちつ持たれつの関係が続いていた。
出る杭は打たれ、高木は風に折られる。
みんなと同じ事が出来なきゃ普通では無いし、普通で無い人間は、憚られるものなのだ。
その気持ちも解らなくはない。
かつては私もその輪の中に居たのだから。
人の噂など時が経てば消えてしまうけれど、消えてしまう前に違う人を伝わると、新たな噂となって流れ出す。
かつての私を知る人が見たら、今の私は異質でしか無い。
高校デビューだとか、姉は元ヤンで兄は引きこもりだとか、警察に顔が割れているとか、水商売をしているとか、一概に違うとも言えない悪い子の私は、アンナを散々陥れようとした。
成績が急に上がった事も、高価な持ち物を持てることも、急につるんで歩く人間が変わったことも、立場も違い何も知らない人から見れば、そこには黒い影が立つ。
違う事は違うと笑い飛ばして気にもせず、そんなものに負けない強い女の子でいる事で表面上は人気者でいられたけれど、それはただ注目を集めているに過ぎず、関係性をしっかり見れば、一緒に遊んでいるフリをして一向に終わらない〝かごめかごめ〟をしているようだ。
遠巻きに様子を伺い、手を繋ぐ人の数を増やして輪を広げる事で、彼等は私に近付く事も当てられる事も避けている。
もうそんな人間しか周りに居なかった。
でも、私が真ん中で鬼をしている限り、ハルキもユウキも歌う側で居られるから、私は分かっていても後ろの正面を当てないでいる。
そして、その日は不意にやって来た。
六月も終わり。
もともと週に二日ほどしかなく、時期もあってなんだかんだ上手いこと避けて来れた体育だったが、いよいよ明日はそうもいかなくなってきた。
梅雨明けも近いのか、ここの所は晴天が続き気温も高く、絶好のプール日和が続いていた。
すっきりと晴れた青空を背に、コンクリートに焼き付く自分の影を見下ろしながら、私は深く深く考え事をしていた。
正直に言おう。
悪い事も考えた。
ズル休みしたい。
シャワーやお風呂がそこそこ平気にはなったって、私が泳げない事に変わりは無いのだ。
ただでさえチビなのに、水深が一番浅い所でも顔が出ない大きな水の箱の中に浸けられたら、私はどうなってしまうのだろう。
しかしなんだかんだ理由をつけてサボっても、草むしりか何かしておけば良かった中学校と違い、今度は一度の欠席が大きく成績に関わり、最悪の場合単位が取れない。
それは困る。
そんなあまりにも深刻な顔を放課後まで引きずっていたら、ハルキとユウキに心配された。
私はいつになく真剣に、泳げないので明日の体育をどう乗り切ろうか考えていると告げると、笑いを堪えたような変な顔で納得された。
すぐにハルキは有事の際は率先して助けに行くと力強く言ってくれたが、そもそも彼は運動全般が苦手なのであまり期待できなかった。
ソレイユに帰り、ティファニーさんのためのお茶を淹れながら愚痴ってみたら、雨の降るおまじないをしてくれた。
横で聞いていたルイは爪を割るとか物騒な事を言いだしたが、どれくらいやれば良いかやって見せて欲しいと言うと悄気ていた。
水着をわざと忘れて行く案も出されたが、前回持って行ったきり使わず学校に置きっぱなしにしていたので、残念ながら実行できなかった。
ルルの世代では、授業とは名ばかりのただの水遊びだったらしく、着替えてさえいればしのげるのではないかという情報も得た。
誰も泳げるようになれとも言わず、泳がせようともしないので、それで良いんだと少し気が楽になった。
ソレイユにさえ居れば、私の悩みなどこんな具合にすぐに解決してしまう。
顔は洗えるようになったし、死ぬ気で頑張ってみたら案外泳げるようになるかもしれないと前向きな考えさえできて、私はすっかり気分を切り替え仕事に励んだ。
しかし、再び学校に舞台が戻ると、私の新たな噂がすぐに流れていた。
私はその日、本当に偶然にも女子特有の体調不良に見舞われて体育を見学する事になったので、その噂はますます力を持った。
私が耳をそば立てて目を見張るのと同じように、私の小さな発言もどこかで拾われて勝手に形を変える。
「アンナの背中にはタトゥーが入ってる」
聞いた私がびっくりだ。
私の水嫌いは幼稚園くらいからだったと思うので、小学校中学校が同じだった人間にはそりゃあ何かと理由をつけて私がサボっていた事を知られているので仕方ない。
そんな記憶が濃く残った人の頭には、私が無理矢理水に浸けられてパニックになり、プールサイドで青い顔をして震えていた場面の記憶は都合よく抹消されているのも、致し方ない事だった。
この自由な学校でさえタトゥーは流石に校則違反に当たるので早々に釈明したい。
噂によると、天使の羽が背中一面に描かれているそうだ。
確かにそれではスクール水着からはみ出てしまうだろう。
身に覚えは無いけれど、自分の背中をまじまじと見た事も無いので、今日にでも確認してみようと鼻で笑って、聞こえないフリをしておいた。
肩甲骨の影だと思っていた。
当の私がそうだと言うのに、その噂はとんでもない所まで話を大きくして飛んで行った。
一学期期末試験を終え、昇降口に貼り出された名簿の一番上には、再び私の名前があった。
黒光りする文字を見て、私の心の隅に居るもやもやが少しだけ晴れる。
人は優秀であればあるほど、信頼され、信用が得られるのだ。
陰で何を言われようと、私の言う事が正になる。
二位はハルキ、三位にユウキも並んで、私はとても誇らしい気持ちだった。
どれだけはみ出ても良い。
どれだけ目立っても良い。
高く、遠く、目指すのだ。
しかしそれ以来ユウキが、私の朝のお迎えを辞めた。
それどころか、学校に来る事も辞めてしまった。
私に学年一位を譲った上に、ハルキにまで追い越されて相当ショックを受けたのかと心配になったが、同じ家に住んでいるハルキさえあまり顔を合わせていないというのに、ただの一友人である私など会う事はおろか連絡を取り合う事さえも叶わない。
ハルキに聞いても、放っておけと投げやりだった。
空気が重く、気分が悪い。
ごく一部で、暴力沙汰による自宅謹慎処分の噂が流れ始めてからは名前を出す事さえも気後れし、本人に確認する事もままならない今、私はどの声も聞き入れる事が出来なかった。
ユウキについて触れられなくなってから、ハルキとの会話が格段に減った。
と言うより、私の方がなんだか話しかけ辛くなってしまって、もともと一人を気にしないハルキが一人を堪能している所を見ていたら、会話をする意味を見失ってしまった。
ただなんとなく、クラスから浮いた者同士半径二メートル以内くらいに存在し、各々好きな事をしているという変わった二人組。
そして放課後家に行く事はもちろん出来なくなってソレイユで過ごす時間を増やした結果、気付けば自然とハルキとの距離も離れて行った。
そして不思議な事に、まるで関連しているかの様に、リュウまで帰って来なくなった。
そもそもリュウには自分の家があるし、一人の時間が必要な人間である事はソレイユの人間ならば知っている性格なのでそれには誰も何も文句は無かったのだが、一人分の洗濯物を畳む事やシングルベッドに一人で眠る事が、私はなんだか寂しくなった。
「ティファニーさん、今日一緒に寝てもいいですか?」
「もちろんよ。なあに、遠慮してたの?」
「せっかく与えてもらった自分のベッドが空いているのに使わないのは、なんだか失礼な気がして」
「なんだ、空いてないから来てただけなの」
ティファニーさんは優しくて、自分の横を広く開けて私の居場所を作ってくれたけれど、顔はなんだかつまらなそうだった。
「なら明日にでもお部屋番を連れに行って来てちょうだい」
わざと寄ってみた私に、一人分の布団をかけて、ティファニーさんは柔らかく笑った。
「はい、そうします。おやすみなさい」
私もリュウもそして多分ルイも、ちゃんと秘密にしていたはずなのに、ティファニーさんは私がリュウの家を知っている事を知っていた。
ティファニーさんはなんでも知っている。
私の背中に翼がある事も、きっと彼女なら知っているだろう。




