Miracles Happen
お昼が近付くにつれ、私は今にも鳴りそうなお腹にはらはらしながらも、内心うきうきしていた。
購買に関しては、これまで私も何度か行ってみたいと思っていたものの、朝ごはんをしっかり食べる習慣もついて、帰宅すればおやつがあると分かっているので、わざわざお弁当に追加したり間食したりするほどの必要性は感じていなかった。
しかし今日は違う。
余裕のない朝を迎えた事は反省すべきだと思うが、おかげで新しい体験が出来る。
購買でパンを買う、実は憧れていたのだ。
近所の飲食店や個人商店が日替わりで売りに来ているらしく、毎日でも飽きないと生徒の半数以上が利用している為、いつも昼休みが終わる頃には殆ど完売してしまう。
いつか悠生君が食べていた、パンの厚みと同じくらいクリームが挟まったメロンパンがとても美味しそうだったので、どうせ買うならあれが食べたい。
今日はパン屋さんの日だと良いな。
そして、いつもより余計にお腹が空いて待ちかねた昼休み、わくわくしながら購買へ行くと、噂に聞く通り凄い人だかりが出来ていた。
ほぼ上級生ばかりで、身体ひとつを取っても大きな人の壁は厚く固く、一応一番後ろっぽい所に並んでみたものの、ちっとも前に進めない。
飛んでも跳ねても前は見えず、飛び交う声が多すぎて情報を得る事すら出来なかった。
甘く見ていた。
ここはもう私が想像していたうきうきスポットなんかじゃ無い、戦場だ。
自販機のジュースでなんとか夕方までもつだろうか。
可哀想がったマスターやヴィヴィが下駄箱に何か届けてくれてあったりしないだろうか。
諦めかけて身を引こうとした時、少し動いた壁の隙間に、私は強く押し込まれた。
前後左右、全て人。
ぎゅうぎゅうで暑苦しかったが、一度入ってしまえば後は人の動きに合わせて進むだけで、なんと待っていた時間よりも早く私は先頭に辿りつく事が出来た。
「いらっしゃーい」
そして、そこでにこやかに迎えてくれたのは、ヴィヴィだった。
ちょっと意味が分からなかった。
飢えた成長期の獣の真ん中で、聖徳太子よろしくあちこちの声を聞き分けてテキパキと動きながら、計算機も使わずにいっぺんに三人分の会計をしていた。
「やっと会えた。欲しいのあったら言ってね」
ヴィヴィはニコニコしていたが、私はいじけて商品に目を落とす。
確かに近所の飲食店であり、味は確かで、サービス精神旺盛で高校生にも優しくて、パンも美味しいし、今日は幸い私の望んだ通りその日だったらしいけれども。
誰も教えてくれなかった。
今日まで知らなかった。
知ってたら……もうちょっと、考えたのに。
整然と並べられたケースの中は、見覚えのあるものから高校生向けらしいボリューム満点のもの、安くて美味しい見た目が可愛いものばかり並んでいてとても迷った。
お目当てのメロンパンはまだ二つ残っていた。
「クリームサンドメロンパン!」
言葉と言葉の隙間をついて声をかけると、並んでいるカゴごと取って貰えた。
「ひとつ?」
「ふたつ」
私はひとつで良かったけれど、顔の真横で代わりに返答があった。
「あとは?」
今度は、私に言葉がかけられた。
囁き声が、耳にかかってくすぐったかった。
状況を把握するのに少々手間取ってしまった。
初めての事に、どきどきが止まらない。
そこには、迫り来る人の圧から守るように、両腕で作った隙間に私を挟んで、悠生君が〝笑って〟いた。
首だけ振って答えると、悠生君はそのままいくつか追加して、私の分までまとめて会計した後、安全に人集りの外へ出してくれた。
ちょっと意味が分からない。
たった今受け取った二人分の昼食が入る袋を漁りながら、人の壁に背を向けて歩き出した金髪を追いかけ、ちょこまかと視界に入るために変な動きをしてしまった。
「ごめん、払うよ」
「いらない。この間のお礼したかったんだ」
悠生君はそう言いながら、私の手にメロンパンと追加で買ったクッキーをくれた。
「先日は危ない所を助けて頂き、ありがとうございました。遅くなってごめんなさい。ずっと考えてたんだけど、女の子が何を喜ぶか分からなかったし、なかなか話し掛けられなくて」
「私、話し掛けられ無いほど怖かった?」
「そうじゃない。可愛いよ。人と喋るのも喋りかけるのも、僕がもともと苦手なんだ。フレンドリーに見える?」
「見え、ない。だから意外……」
「だよね。でも、好きなものに対しては前のめりなんだ。まだ足りなかったら、なんでもするから言ってね」
きょとんとして立ち止まった私を、悠生君がぽかんとして見つめる。
「僕で、良ければだけど」
夢にまで見た、嘘、待ち焦がれた瞬間は、内容まで甘くて本当に夢みたいだった。
「もちろん」
ふわふわとして、現実味が無い。
「……なんでも?」
「うん……って言っても、なんでも出来ちゃうからな。でも本当に、なんでもいい。なんかしたいんだ、もっと。難しい事でも、下らない事でも、命は惜しいけど、出来ない事だってやってはみるよ。なんなら明日からお昼は僕が買って来てもいい」
「そんなに張り切らなくていいよ」
「迷惑?」
「そんな事ない。こうやってお話出来て嬉しい」
「僕も嬉しい」
目を細め、歯を見せて、悠生君はきらきら笑った。
「私、その顔が見たかったの。もう充分」
「え?」
「悠生君て良い人だね」
もっと緊張してしまうかと思っていたのに、予想以上に安定して冷静に返事が出来る。
きっとそれは、目の前に居る悠生君が、私の想像よりもずっと前向きでリラックスした状態で、私と向き合ってくれているからだ。
いつも物静かな無口を気取って、感情もあまり表に出さないのかと思っていた悠生君は、よく喋りよく笑う子だった。
「ハル」
後ろからかけられた声に、二人揃って振り向いた。
「千円貸して」
そこには、偉そうに踏ん反り返ってお願い事をする友喜ちゃんが居た。
「やだよ」
「待って」
「待たない……って、何やってんの出さないで!逃げて!」
友喜ちゃんが言うならと思い、私は無意識に役目の無かった財布から千円札を取り出している所だった。
友喜ちゃんがそこにいて、困っていて、お願い事をしている。
私にとってはこの上なく稀な事象で、なにか動いて見せ、存在をアピールしなければいけないと本能的に感じたのだ。
その手を悠生君が止めようとしたのだが、そのほんの数秒の間に友喜ちゃんは音も無く駆け寄って来て、私が顔を上げた時には既にすぐそこに顔が迫っていた。
待って、と、呟いた時には既に走り出していただろう。
「アンナちゃん……?」
かけられた言葉と、顔の近さに目眩がしそう。
私を映した黒い瞳が想いを溢れさせるまでに、私の返事は間に合わなかった。
私の方が自分の目と耳を疑い、言葉を詰まらせてしまった。
「いや……」
「間違えるはずない!」
言い切るより先に、友喜ちゃんはその場に膝からくずれ、私の手を取って、すがるように泣き出した。
会いたかった。
本物のアンナちゃん。
ずっと探してたの。
夢じゃなかった。
アンナちゃんは本当に居た。
何度も『アンナちゃん』と呼ばれ、廊下を通る人には通り過ぎるまで見られ、時に指を指されてこそこそされ、私は動けなかった。
駆けつけた先生に事情を聞かれても答えられるのは友喜ちゃんだけで、当の本人は「幸せ!」と叫んでまた泣いた。
何が起きているのか分からない。
良い事なのか悪い事なのかの区別もつかない。
貸してあげたハンカチの角でほんの少し目頭を抑え、まじまじと手元を眺める友喜ちゃんは、泣きながら笑っていた。
目と鼻の頭を赤くして、困った顔をするその人を、私は確かに知っていた。




