So Nice
その日から、私の〝普通〟がまた変わってしまった。
昨夜は、ティファニーさんとリュウに挟まれて寝た。
そして今朝は、揃って寝相が悪い二人に“幸せの重み”を教わりながら目が覚めた。
腕に抱かれたまま安らかに一日を終えたはずが、今や首と腰を固定され、髪と足を体で踏まれて、身動きひとつ取れやしない。
我慢したのにお腹が鳴って、頭の上でリュウに吹き出された。
「こういう音は聞こえるの」
「……ごめん」
「おはよ」
「おはよう」
同じ布団で目を覚ます。
不思議な朝だった。
誰も何も言わなかったが、その日は自主的に外出はせず、家の中でちやほやされて過ごした。
昼近くまで寝ていたので家事は全てやられてしまっていて、昨日の夜から作り置きされたカレーと甘すぎるカップケーキで一日の食事は事足りた。
扉の無くなった音楽室は使えなかったけど、自分で持ってきた電子ピアノが早速活躍し、一日中くっついて離れなかった暇なピアニストが頼んでもいないのに優しく指導してくれた。
そして寝る前には、私が明日着るブラウスに、ティファニーさんがアイロンをかけてくれた。
それから毎日、それはティファニーさんの日課になる。
代わりに、これまでティファニーさんがやっていた事と殆ど同じ事を、リュウがするようになった。
恥じらいもせず、躊躇いもせず、いいこいいこと頭を撫でて、どこに行くにも付いて来て、何をするにも手を出して来る。
そして呼ばれたから返事をしたり、そこに居るから話しかけたりといったそんな程度の事で、とても幸せそうに笑うのだった。
まるで私の事が、可愛くて仕方ないみたいに。
そして憂鬱だった月曜日、学校ではやはり事件の話題で持ちきりで、それに関して私は盛大に盛り込まれて巻き上がった煙の下の火を消す作業をして回って忙しかったので、悠生君を気にしてなどいられなかった。
あんなに気になっていて、声を掛けるきっかけも作って、話題もあったのに、それまでと認識が変わっていた。
そして私の周りで、私の存在が変わり始めた。
私がそれをどれほど望み、学校から正式な許可も出ているというのに、ゴールデンウィークが開けても「テストが近い」という理由でマスターはなかなか働かせてくれなかった。
猫撫で声で甘えようと、逆に口を利かないでみようと、頑固なマスターにはちっとも通用しなかったので、私は思い当たる「先生」を総動員し、自分の持てる力全てをかけて一学期中間テストに臨んだ。
成績は良いに越した事はないとマスター自身が言っていた。
やってやればいいんでしょ。
もう文句は言わせまいと私は強気だった。
一学期中間テスト。
一年生にとって、これは最初の〝試練〟だ。
今まで地域の中学校という幅広い生徒の中から選び抜かれ、再構築されたトップクラス集団の最初のテスト結果というのは、自分の立ち位置を把握する為の重要な情報だ。
テストの内容もそれに合わせてレベルが上がり、これまでの単元など理解している事が前提で、授業は物凄い速さで進んでいく。
右も左も、数ヶ月前まではクラスでも指折りの優等生。
しかし一位が百人集まったところで、当然一位になれるのは一人だけだ。
今まで一位を死守して来た人間が急に百位にされる。
そういう事件が、ここでは起こる。
それで自尊心を見失い学校を去る人も居るくらいだというので、みんなが必死だった。
地を這う事は辛く、「あとは上るだけじゃないか」といくら他人に希望をほのめかされようとも、地を這った事の無い人間にとって上を見ることは絶望でしか無い。
真ん中に居れば賞賛も注目も浴びる事はなく、多少の誤差が目立たない分存在が危ぶまれる。
まあいいかと折り合いをつけられる性格ならともかく、一度頂点を知ってしまった人間がそこから降りるには、これまでの努力以上の勇気が必要なのだ。
そして迎えた運命の日。
そんな切羽詰まって生きている彼らの最初の頂点は、よりにもよって『一年一組一番』だった。
昇降口に張り出された、名誉ある成績上位者二十名の名前の中「一位」の横に並んだあまりにもシンプルな数字の列に私自身も驚いて、印刷ミスかと思った。
藤原友喜は二位、なんと藤原悠生も二十位に入っていた。
教室に入れば、既に昇降口を通って来たクラスメイトが一斉に私を見る。
あの悠生君さえも、顔を上げていた。
「おはよう」
はにかんでみせると、挨拶がたくさん返ってきた。
私を中心に輪ができる。
名前も知らない人が私の名前を読み上げる。
顔も曖昧な他のクラスの一年生が私の噂話をする。
本物の優等生の仲間入り。
「私」という存在の確立。
よりにもよって、普通の市立中学校で、好き好んで真ん中を歩いて来た私の快挙。
快感だった。
「どうだ」
「まいった」
そんな結果を持って帰ったら、マスターの頑丈な首もついに縦に動いた。
夕食もちょっぴり豪華になった。
そしてしっかり腹拵えも済んだところで、私はきちんとドレスを着て、店のピアノを一時間弾いた。
客で賑わう店の中、特別な光が当たるステージの上に、私はついに登ったのだ。
ピアニストとして。
シンガーとして。
私に対価が支払われる、それは初めての〝仕事〟だった。
拍手に包まれ、礼をして、顔を上げて見える景色は、想像以上に美しかった。
奥に下がってすぐ、裏口からリュウが帰宅した。
「おかえりなさい」
「ただいま、アンナ」
そもそもこの家から出て行って帰って来る人間は、私とリュウとティファニーさんくらいなので、私が送り出してこうして出迎えられるのはリュウだけだ。
リュウは真っ先にドレスの事に触れ、流れを説明すると、誰よりも盛大に褒めて自分の事のように喜んでくれたけれど、ステージを見れなかった事をとても悔やんですぐに落ちこんでしまった。
二人連れ立って階段を上り、それぞれシャワーを浴びてから、部屋で今日の一日を報告し合う。
ティファニーさんの部屋の隣が、私の部屋だ。
当てがわれた当初は私の部屋だった筈だが、いつの間にか物が増え、本棚も半分以上使われて、いつの間にか我が物顔で住み着いているので、もう殆どリュウの部屋になってしまった。
しかしながらまだ私も、勉強したり私物を置いたりして所有権を諦めてはいない。
リュウもリュウで、あの家にも、まだ学校に行く為だけに帰ってはいる。
仕事を終えて大好きなお風呂に入り、作業着を着替えて出て行く小一時間の為に家賃を払っていると思うと、他人事なのに心配になるが本人は快適そうだった。
一人暮らしを好んでしていたのだから本来出来るはずなのに、掃除だとか洗濯だとかは専ら放棄し、私にパンツを畳まれるほど打ち解けて気を許し、安心して食べられる物を与えて貰い、時間を気にせず好きな時にピアノやギターが弾けるので、リュウにとっても居心地が良いのだろう。
私が机に噛り付いてノートに黒い線をさりさりと書く間も、リュウはすっかり定位置となったベッドに寝そべっていた。
こうして横取りされてしまうので、あぶれた私は結局ティファニーさんの部屋で寝ることになる。
聞き上手なリュウのせいでその日はいつまでも言葉が尽きず、宿題をしながらも喋り倒していたら、今日は珍しくリュウの方が先に寝てしまった。
私はせっかく掴んだチャンスを逃すまいと満足するまで教科書を睨み、ピアノの練習に励んで粘ったが、気付けばベッドの上に居た。
その事に気付いたのは、丁寧に布団をかけ、朝日が当たらないようにブラインドを調節し、静かに歩く心遣いをしつつ、いざ自分が出掛ける時になって律儀に「いってきます」を言いに来たリュウに起こされた朝の七時半過ぎ、起き抜けから大声で八つ当たりをしてしまった。
寝坊した。
まだ間に合うと主張されるが、それは入念にセットされた外国人風パーマが起きたら完成しているような脚の長い人間の言い分であり、メイクと寝癖直しに時間をかけていたら、私にはお弁当どころか朝ごはんを食べる時間さえ残らない。
店に並ぶ前の焼きたてのパンをひとつねだり、大股で走ってなんとか一限目の始まるギリギリに教室に滑り込む。
きらきらした憧れの生活にだいぶ近付いたと思っていたが、まだまだ鍛錬が足りないようだ。
もう私は、真ん中くらいの女の子ではいられない。




