Smile
ソレイユの前。
店の外で、迎えに出ていたマスターと、後ろからはお通夜みたいな顔をした二人に挟まれて私は捕まった。
何処を見ても、待望の「おかえりなさい」という温かな雰囲気は無かった。
私はまだ何も言っていないのに一報は早くも店に届いており、待ちなさい座りなさい、どうしてこんな事したの、気を付けなさいと言ったでしょうと責め立てられ、あまりにも全員が同じ調子で同じ事を言い、誰も味方についてくれないのがつまらなくなって、私はまた逃げ出した。
階段を駆け上がり、音楽室に飛び込んで鍵をかけ、さらに楽器庫の中の重たそうなもので入口を塞ぎ、やかましくドアを痛めつける輩を大声で威嚇して籠城した。
もやもやして気持ちが悪い。
安心したくて帰ってきたというのに、私の報告より先に聞いていた噂話を前提に話が進むのは、心底面白く無かった。
大好きな音楽室でさえ窮屈に感じる。
感謝しろと言いたい訳じゃない。
でも怒られたかった訳でもない。
事故みたいなものじゃないか、気を付けていたって遭遇してしまう時はある。
あんなもの、誰が予測出来たと言うのか。
私に刃先は当たらなかった。
なんなら私は、当たらないだろうと分かって飛び込んだ。
私はあの場に居られた事を本当に良かったと思っているし、知る限り誰も怪我はしていなくて、ちゃんと言われた通り遠くへも行かず、夕飯までには帰って来た。
無駄遣いどころか買い食いだってしていない。
あの時は、リュウを助けなくちゃいけないと、それしか考えていなかった。
リュウが外側を歩いていた。
ティファニーさんが話をしていたから、それを一生懸命聞いていた。
後ろから迫られたら、分かるはずがない。
手の届かない所に居た私には、二人を守る方法はあれしかなかった。
私は、私に出来る事を精一杯しただけだ。
守られるだけでなく、誰かを守れる人になりたかった。
結果的に痛い思いをしたティファニーさんに小言を言われるのは仕方ないとしても、束になって寄ってたかって同じ事を頭ごなしに喋ったら、私はどこでごめんなさいと言えばいいのか。
そもそも「ごめん」の一言で許す気も無さそうなのに、肩を持つ係も作らないなんて、大人のする事か。
ふと「独り」に気付いてしまい、黒い棘が主張を始めた。
息が詰まってイライラする。
考えるのをやめようと目を閉じても、なんだかよくわからない黒い物が体の中に溢れて、ますます気持ちが悪い。
体は重く、胸は苦しくて、空気は吸う事どころか吐く事も辛い。
頭が痛い。
吐き出す先が無いものだから、私はあらゆる感情をピアノにぶつけた。
色んな人の心を受け止めて来た年季の入った貴婦人は、私に代わって怒ってくれた。
大好きな音楽をこんな風に使うのはあまり気が乗らなかったはずが、ずっと歌ってきた愛の歌よりも、力強く頼もしく、私は私を忘れ、よく見えた。
しばらくして、私は再び寂しさと心細さに押し潰されそうになりながら、床の上でめそめそ泣いていた。
貴婦人のおかげですっかり落ち着いて、反撃の準備を整え、勇んで足を踏み出そうとした矢先の出来事に、即席で湧き立てた強気はあっという間にどこかへ消えてしまった。
時間を見ようと確認した腕時計がヒビ割れていたのだ。
転んだ時にぶつけたのだろうか、大切に大切にしてきた、ティファニーさんから初めてもらったプレゼント。
それを壊してしまった。
更に、急いでドアを開けようとしたら、ノブが変な音をたてて回らなくなった。
ドアの向こうに自分が作ったバリケードを思い出し、青くなった。
何かの拍子に何かが挟まって出られなくなってしまったのだ。
心の支えにしてきたお守りも壊れて、すっかり気持ちも折れてしまい、扉の前にうずくまって、ついにはわんわん声を上げて泣いた。
ここが開かなければもう一生会うことも出来ない、謝れもしない。
私の声なんか届かない、もう誰も私なんて気にかけてくれない。
本当にひとりぼっちになってしまった。
馬鹿馬鹿しいが、本気でそう思って泣いた。
最近情緒が不安定で困る。
私を見つけたリュウは、私がどれだけ酷い顔をしていたか、それを表現する位酷い顔だった。
手には工具を持っていた。
「……開いた」
「開けた」
私が手を伸ばすより早く、リュウは手に持っていたもの全部放り出して私に掴みかかった。
震えるほど強く。
痛いほど強く。
「ごめんなぁ……」
そして私に、その不安定な心臓の音を聞かせて、泣きながら何度も何度も謝った。
「ごめんなさいアンナ、出られなくなっちゃったのね。もっと早く開けてあげればよかった」
「いや、私が悪いんだ。一人になりたいんだと思って。寂しかったでしょう。すまなかったね、アンナ」
「アンナちゃんごめんね、お腹が空いたら出てくると思ってたの」
「ガタが来てるのは知ってたんだ。まさか今壊れるなんて思っていなくて、ごめんねアンナ。怖かったね」
「すまんアンナ!ピアノの音が聞こえてたから、案外元気かと思って……」
ひとりぼっちどころか、ドアの向こうには沢山人が居た。
開いた隙間からどんどん流れ込んできて、口々に、順番も無しにまた好き勝手な事を言い出した。
どうせそこで見張ってるんでしょって、最初は私だってそう思って余裕をかましていられたのだ。
ちょっと私が怒ってみせれば、慌てて違う方法を考えると、小癪な事をどこかで考えていた。
集中して気配なんか読まなくたってきっと誰かが居てくれて、同じ建物の中、一つ屋根の下にみんな居るから呼べば来る。
それはその通りで望んだ通りだったけれど、こんなにも近くに、しかも全員揃っているなんて予想外だった。
「みんなして来なくていいよ、働いて!土曜の夜だよ!」
私の想いは全て見透かされて代弁されたので、もうそんな事くらいしか言えなかった。
謝られたのに許しもせず、助けてもらったのにお礼も言わない私の元から、みんな笑って去って行った。
私が働くまで、守ってよ。
支えあって、どんな手段を使っても。
ここは、誰かが安らぎを求め、明日への力と快楽を求め、おかえりなさいを聞きに来る、そんな場所なんだから。
残ったティファニーさんとリュウは、私を挟んで抱き合い、体温と鼓動で無事を教えてくれた。
良かった。
心の底から、そう思えた。
「ティファニーさん、ごめんなさい。時計を壊してしまいました」
「いいのよ。今度は新しい物を買ってあげるわ」
「あと、先日頂いたばかりのお洋服を破いてしまって……」
「怪我は無い?」
「はい」
そう言いながら三人で確認した服は、ほつれも無く不自然にばっさりと切れていた。
二人は冷たい息を飲み、私は黙って俯いた。
「ごめんなさい。他に思いつかなくて、体が勝手に動いてしまった」
「もう二度としないで」
ティファニーさんのよく通る声が、くぐもっていた。
許されなかったのはそれだけで、ティファニーさんは音もなく通った頬の筋を、すぐに私の肩で拭い消した。
あと数センチずれていたら、ナイフは私の皮膚を裂き、胸に刺さっていたかもしれない。
そうでなくとも、当然あの状況ならばあのままバイクに轢かれていたかもしれないし、転んだ拍子にどこか悪い所をぶつけていたかもしれない。
ティファニーさんにとって、失神するほど苦手な他人の血を、散々見せられたかもしれない。
実際は何も起きてはいなくとも、その場で見ていた二人にとって、そして何処かからそんな話を聞いたソレイユにとって、それは、あってはならない事だった。
誰かを大切に想えば想うほど、失う恐怖が付き纏う。
大切な人が傷付けば、その痛みは自分自身も感じるだろう。
失いたくないと強く願った私と、同じ想いで居てくれる人がいた事に、私は感謝して反省しなくてはならなかった。




