Wonderwall
次の日の朝、何も言わずに置いておいた書類には母がサインをしてあって、いつもより多いお小遣いと共に並んでいた。
帰って来ていなかった事に気付いていたのかいないのか、これがちゃんと帰って来なさいと言うメッセージなのかただの経費なのか、私にはもう分からなかった。
顔を見て、声を聞いて、分かり合う努力は、お互いする気が無いようだった。
荷物をまとめ、残して行って欲しかった物を全て持ち、見るからに家出少女のような格好で私はバスに乗った。
もちろんピアノも持ってきた。
「妖怪八十八鍵童子」
店の前を掃除していたルイは、私の姿を見るなりからかいに来て、笑いながら荷物を運ぶのを手伝い、すぐに朝ご飯を出してくれた。
「ティファニーさんは?」
「リュウの散歩行った」
「リュウ〝と〟散歩ね」
「日本語ムツカシイネ」
急に片言になってふざけつつ、ルイはテレビをつけた。
まだ掃除は途中だったろうに、一人のご飯を可哀想がって付き合ってくれているのだ。
妖怪オニイチャンモドキ。
人懐こくて小さいものと女の子を可愛がるが、口が悪い。
テレビでは、地元のあまりハッピーではないニュースをやっていたので、「あらやだ」「困るわあ、物騒ねえ」と奥様の様な会話でふざけ合うついでに昨日の話を少しだけして、ルイは文句を言う代わりに「イノチダイジニ」と私を気遣った。
口は悪いが、害はない。
あの時だって、怒鳴ってはいても、決して怒っていた訳ではない。
私が荷物を整理して、宿題やら家事やらをしているうちに夕方になってしまった。
出掛けたまま帰って来ない二人が気になって、迎えに出ようかと思い店に声をかけた。
「あんまり遠くに行っちゃだめよ」
「晩御飯までには帰って来るんだよ」
「車、気ぃつけろよ」
まるで小学生みたい。
「はあい」
不思議と馬鹿にされた気はしなくて、むしろご機嫌で街に出た。
遠出をする気は無かったが、毎日勉強する為だけに使っている様な部屋に少し荷物が増えたので、手に入れたばかりのお小遣いを握りしめて楽器店をのぞいた。
折り畳み式の脚とカバー、持ち運び用キャスター、ちょっと良いペダル、ピアノひとつで欲しいものがぐっと増えてしまい、同じ売り場を何度も往復した。
小一時間物色していると、店のガラス越しに目立つ二人組を見つけて、結局何も買わずに店を出る。
日の暮れた街の中、背の高い黒服男と、夜会巻きで苺色のロングワンピースのツーショットはなかなか近寄り難い絵面だったが、よく見れば男の方はお尻のポケットに財布をしまい損ねて膝の裏でぶらぶらさせている抜けっぷりだ。
あれは気持ち悪くないのか、そういう感覚まで鈍いのか、いきなりお尻を触ったら怒るだろうかと、のんきな事を考えながら追いかける。
知らない人じゃないから、安心してついて行く。
「ん?」
週末の賑わう街に、また嫌な気配を感じた。
人の多い時は、人に紛れて忍び寄る危険もまた多くなるものだ。
空気の変わる音がする。
後方から、小さく息を飲む音が聞こえ、黒い何かが街の色を変えて迫ってくる。
周りの人は気付いていないので、かなり遠かったと思うのだけど、耳につくエンジン音がどんどん大きくなってきた。
音を辿って見つけた先、まだ遠い所に、二人乗りの黒いバイクが凄いスピードで人の波を掻き分けて、こちらに向かって走って来るのが見えた。
避けて行く人の波に、何か良くないものを感じた。
「リュウ、下がって‼︎」
並んで歩く背に向かい、大声で叫んだ。
私が再び振り返ると同時に、灯り始めた街の明かりがおかしな所でキラリと反射して光った。
悲鳴があがる。
人の波が揺らぐ。
もう、すぐそこに居る。
声をかけ損ねた二人がどこまで行けたか、そこまで気は回らなかった。
今日はリュウが外側を歩いていた。
音を聞き取れても、リュウはざわつく街の中では咄嗟にその方向が分からない。
ティファニーさんが気付いても、教えられて動いていては間に合わない。
でも、リュウを呼んだ私の声がティファニーさんの耳に届いたら、すぐにでも動いてくれると信じていた。
少しでも遠くへ行って。
せめて数歩、建物側に避けて。
道の真ん中に躍り出て、正面からバイクを見据えるこの感覚には覚えがある。
それも、つい昨日の夜に思い出したばかりだった。
危ない事がわかっていても、向こうはそれを望んでる。
カラーギャングが鋭利な刃物で人を切りつける、武器を持ち、振り回しながらの暴走行為をする。
連日怪我人も出ている、そんな事件が起きているんだって事は、今朝ニュースで聞いた。
一度経験してしまった人は、躊躇いなんて知らない。
困ったね、慣れちゃうと、心は動かないんだよ。
だからこそ、私は落ち着いて、ただ一点を見つめて駆け出した。
動きを止めた街の中、引き寄せ合うように猛然と動き続けるのは私達だけだった。
ヒーローを気取りたいわけでも、悪党と戦いたいわけでも無い。
それを離して。
ここで止まって。
せめて、ここより先に、その光る何かを持って行かないで。
祈るように伸ばした手は空を切り、私の脇を裂いた大きなナイフは、そのまま私と同時に地面に落ちた。
やっぱり、本当に人を切るわけじゃないんだ。
ニュースでも、カバンを切られたり、驚いて転んで怪我をした人はやっていたけれど、切り裂かれて運ばれた人は居なかった。
前に会った時だって、くっついて来ちゃっただけで、離しようがなかったんだ。
ナンバーの無いバイクはさっさと走り去ってしまったものの、重要な証拠品は残って、もう街にはパトカーのサイレンが鳴り響いていた。
辺りは騒然としていた。
視界の隅で確認した後方では、ティファニーさんがリュウを壁に押しつけてしっかりと抱いて守り、その周りには二人に差し出される手がいくつも見えた。
「良かった」
心の底からそう思えて、笑うことさえ出来た。
そしてすぐに、二人が私を見つけた。
その途端、
リュウは傍らのティファニーさんを殴って突き飛ばし、
信じられない速さで私に向かって走って来た。
当たった所を抑えて蹲るティファニーさんと、それを差し置いて憤慨するリュウがどちらも怖くて、騒然とする現場から、私はまた逃げた。
視線が全て痛かった。
一歩外に出たら、もうこの街は安心して歩けもしない。
早く帰らなきゃ。




