Bye Bye Blackbard
家にはこの一ヶ月、入学式から帰っていない。
両親にはマスターからの勧めも協力もあって、ソレイユにいる事は伝えてあるが、連絡は一度もない。
働くようになったら私はますます家に帰らなくなるどころか、むしろ胸を張るだろう。
今の私には家に帰るという、そんな一番当たり前の事が苦痛でならず、その一番普通であるべきことから逃げていた。
支えてくれる人も、話を聞いてくれる人も、ご飯を作ってくれる人も、同じレベルで反抗できる人も、それを受け止めてくれる人も十分過ぎるほど足りていて、喧嘩をしながら笑い合い、毎朝笑顔で送り出してくれる人達がここには居る。
毎日シャツにアイロンをかけ、洗濯や掃除はもちろん、包丁の使い方だってだいぶ上達したし、宿題だけで無く予習復習も自分から出来るようになった。
その上たとえ微々たるものでも、お金を稼げるようにまでなったら、もう上出来だ。
帰る意味など無いとさえ思っている。
帰らなきゃと思うと、胸に刺さったままの黒い棘に気付いてしまう。
まるでそれは本当にそこにあるように、私の呼吸の邪魔をする。
膨らもうとする肺を大きくさせてくれず、私は呼吸をする事にさえ不便を感じるようになっていた。
痛みは無いし常にそうだという訳でも無く、気にしていなければ平気でいられる事の方が多いのだが、久しぶりに思い出してしまった。
現実は甘くない。
何をするにも、十五歳の私には〝保護者の許可〟が必要で、念願のアルバイトをする為には、その苦みと向き合わなければならなかった。
アルバイトの許可を得るための申請書には、保護者の同意欄があった。
別に学校側が確認する訳でも無さそうなので自分で書いて出してやろうかとも思ったが、マスターにその誤魔化しは効かない。
「もしも何かがあった時」誰が困るかと言えば、責任の取れない私に代わり、マスターやティファニーさんに迷惑をかけることになるのだから、結局私が困るのだ。
マスターからの良い返事をお守り代わりに、次の日の夕方、友人達と散々駅前で時間を潰した後ではあるが、久しぶりにバスターミナルへ向かった。
金曜日の夜を選んだのは、駅前が賑やかで、同じバスに乗る人も多いからだ。
人の中に紛れてしまえば、少しは楽になれるかと思った。
しかし一週間を忙しく終えた人の波は皆疲れ切って背中が曲がり、ついて歩くにはこちらまでため息が増えそうな速度で進むので、かえって気が滅入りそうになった。
みんな、目には見えない何か重たい物を背負ってる。
みんな同じ、どこに行っても同じ。
でも、その姿はなんだか格好悪かった。
そんな〝同じ〟に紛れるなんて嫌だと、気を紛らすためにCDショップに立ち寄った。
店内に流れる音楽と凝ったジャケットは、囲まれるだけで少しわくわくする。
最初からこうすれば良かったと、うきうきしながら最新盤を眺めて、ジャズを視聴し、気になった物をいくつか購入した。
そしてほくほくとした気分でいざ店を出ようとしたその時、足の生えた黒い壁を見つけた。
黒ずくめの集団では無く単体で、私の電子ピアノと同じロゴが書かれた黒い布製の四角い塊が、のしのしと動いていた。
物理的に、なにか重たい物を背負っている。
他とは違う誰かだった。
辛うじて見えた足元は、見覚えのあるスラックスと大きなスニーカーだったので同じ高校の男の子だと分かったが、その他はすっぽりと隠れてしまって、まさしく歩く壁だった。
よく持ち歩こうだなんて考えたものだなと、中身の分かる私は、横断歩道を立ち止まらずに進んで行くそれの後を追った。
同じく足取りが重くても、これと同じならいいやと思った、好奇心だった。
しかし、道路に一歩踏み出して、ピンと頭の中が張り詰めた。
おかしな音がする。
周りの動きが、少しだけ緩やかになる感覚。
信号機は分離式。
歩行者信号は青に変わったばかりであり、車用の信号は全て完全に赤にも関わらず、動き続ける車の音が聞こえる。
それに〝彼〟は気付いて居ないようだった。
危険な音は大きくなっているのに、彼は足を止めなかった。
「待って!」
口と同時に走り出し、目の前の塊を体ごと掴んで思い切り後ろに引いた。
案の定次の瞬間には、目の前を黒塗りの車が走り抜けて去って行った。
間一髪。
しかしこちらはとても無事では無かった。
彼の足は浮いていた。
それもそうだ、「どっこいしょ」とつい声を上げて持ち上げなければならない物を背負って歩いている時に、自分の意思とは関係の無い力で後ろに体を引かれたら重心が思うように取れないのは自然の摂理。
それに抗っていたのは、紛れも無く己の意思で行動を起こして事態を把握している私の、足と腰と背骨だった。
「おおおお……」
変な声しか出ない。
出るわけがない。
「何っ!?」
返事出来るか!
「ハル‼︎」
その声は、電話越しに聞こえた。
不意を突かれて足が宙に浮いてしまった彼よりも、急に会話が途切れた電話の向こうのその人の方が、状況は深刻だったようだ。
今にも泣き出しそうな悲痛な呼び掛けに、血の気を全て持っていかれた。
今、なんて?
ゆっくりと地面につけて、震えながら恐る恐る見上げれば、私がまだしっかりとしがみついていたのは、片手に携帯電話を持って呆然と立ち尽くす悠生君だった。
「悠生君……」
「あ、は……はい」
変な確認をしてしまった。
それから何も言い出せず、抱き合う形のまま、しばし見つめ合った。
街に溢れる音がやけに大きく感じた。
「アンナーーー‼︎」
敏感になっていた耳に、喧やかましい声が直撃して我に帰る。
見つかってしまった。
横断歩道の真ん中で立ち止まっている訳にはいかないと、とにかく道だけ渡り切り「ごめんなさい」と言い捨てて私は逃げた。
「待て!コラ、おい‼︎」
「うるせーーーーー‼︎」
見れば車の列の中に、見覚えのある白い車が停まっていて、運転席からは何かがはみ出て叫んでいた。
さっき引いて行った血の気物凄い勢いで逆流して、つい口からちょっと出た。
このままでは心臓が暴走して血管が何本か死んでしまう。
後ろから違う声で呼び止められようが、それが下の名前にちゃん付けだろうが、振り向けなかった。
そんな私に向かって、めげずに悠生君は大きな声でお礼を言い、頭まで下げていた。
見ていないけれど、気配で感じる。
音だけで無く人の心まで、私の耳は聞いてしまう。
そうだ、私はまだ街に居たんだ。
強く願うと叶ってしまう不思議な街で、私の想像をなぞりながらもサービス満点に大きく超えてくるこの街で、小さくもロマンチックでも無い大変な「きっかけ」にありついてしまった。
久しぶりに帰った自宅、自分の部屋のベッドに飛び込んで、枕に向かって叫んだ。
事が事なので誰にどう説明したら良いかも、そもそも言って良いものかも分からず、とにかくこの興奮を吐き出してしまいたかった。
悠生君もピアノを弾くらしい。
そんな初めて見つけた小さな共通点に高揚する暇も無く、同時につい口に出てしまった汚い言葉と自分の行動に、後悔と反省の波が押し寄せて頭の中が忙しかった。
恥ずかしい、触っちゃった、会話しちゃった、でもやっかいなのに見られた、しかも大声で怒鳴られてうっかりそのまま反撃しちゃった、聞かれた、恥ずかしい。
もうダメだ、全部お終いだ。
完全に変な人だ、なんなら不良の仲間入りだ。
しかもこの事は既にソレイユで共有されているに違いない。
自信がある。
ソレイユに帰った瞬間に「ふっざけんな!」から始まって全部話すに決まってる、あーもう、本当やだ!
誰に何を言われるのも、何も言われないのも苦しい。
どこに行くにも、しんどい。
失敗した。
「しにたい」
口に出してはみたけれど、もう刺さっているものは変わらなかった。
いくら失敗しようと貫かれようと、たとえ真剣に望んだ所でこればっかりはそう簡単に叶わないし、今私が居なくなった所で起きてしまった事はもう変えられない。
接点は持つべきではなかった。
今日の出来事が彼の中でどう処理され、私はどんな位置についたのか、考えただけで月曜日が憂鬱だった。
でもお礼を言ってくれたし、名前も覚えていてくれたんだから、普段から私に対してマイナスイメージは少なかった筈だ。
せめてゼロになってくれ。
それが友喜ちゃんにどう伝わって、彼女がどう解釈するか、それが怖いが多分大丈夫。
どうせ学校で会う事は無いに等しい。
これまで通りが続くだけ。
良い事と悪い事を同時に考えて平行を保つ。
悠生君は電話をかけながら歩いていたから、あの時車に気が付けなかったのだろう。
いつも学校の中でさえ電話を掛け合い、隣に感じている事が必要な二人の事だ、何が起こったか分からなかった友喜ちゃんにとっては、その目で無事を確認するまで安心なんて出来ないだろう。
電話越しの声が、熱く、震えていた。
もっと優しく「大丈夫だよ」って言ってあげたら良かった。
やり直せないのに正解を求めていたら、ふと頭の中に妙な記憶が蘇った。
正確には、ずっと出かかっては引っ込んでいたみたいな記憶が、鮮明に呼び起こされた。
人よりやたらに良く聞こえる耳と、一度見たら覚えてしまう厄介な脳味噌。
小さくて細い体、弱々しい返事。
必死に呼びかける友喜ちゃんの声が、確かに重なった。
「ハルキ、だから、ハルなの?」
昨今〝ハルくん〟はそう珍しい名前では無い。
納得させるように呟くと、それっきり私の胸は暴れる事なく、急に沈黙を取り戻した。
冷静にならなければ。
もっと冷静であれば、心が乱れる事もなく、正しい答えが見えるはず。




