Little By Little
春休みが始まって間もなく、まだ寒さの残る三月の街を、マフラー一本だけで身を守り、セーラー服の裾を翻して、私は全力で走っていた。
受験当日、あんなに特別視した通学路も今はそれどころでは無く、マリアンナの前を通ったらちょうど出ていた青柳さんにも、右手で小さく挨拶だけして済ませ、人の波をすり抜けてやっと見つけた赤いドアに、走ったままの勢いでぶつかって行った。
二枚の扉を開ける間に勢いはだいぶおさまったものの、息も胸も弾んだまま真っ赤な顔をした私を、カウンターの隅の「私の席」を陣取っていたマスターが両手を広げて迎えてくれた。
「受かった‼︎」
マリアンナから作っていたピースサインを突き出して突進すると、マスターは大きな声で笑いながら抱き止めてくれ、カウンターの中のエルメスは小さくガッツポーズをした。
「おめでとう。よく頑張ったね」
「がんばった」
「うん、よくやった。偉かったよ」
空っぽだった体の中が、欲しかったもので全部埋まった。
カウンターから出てきたエルメスやヴィヴィも、偶然居合わせたお客さんまでも、温かい言葉をかけてくれた。
私は無事、第一志望校に合格する事が出来た。
合格発表の今朝は、一睡もできなかった事もあり胃の調子がすこぶる悪かったが、張り出された数字の中にぱっと自分の番号を見つけた時は、久しぶりに人間らしい顔色になった事を自覚した。
私は今日この日までの覚悟を結局マスターにしか伝えていなかったのだが、ヴィヴィやエルメスは何となく察してくれたし、ティファニーさんはマスターに何を言われた訳でもないのに黙って待っていてくれた。
ただその他大勢は私が急に来なくなった事を寂しがり、ルイに至っては面倒な性格を拗らせて、一人で怒ったりヘコんだりした上で自主的に反省文を書いたらしく、原稿用紙の束を渡された。
彼なりの誠意である。
色々と勝手に推測して反省し、改善しようと努力する意思を示してはいたが、至極どうでもいい内容だった。
しかし内容はともかくとして、私が居ても居なくても、私の存在がソレイユにあり続けていてくれた事がわかり、嬉しかった。
「ありがとう」
その場に居たのは三人だけだったが、言わずには居られなかった。
平日の昼前、少なからずお客さんもいたけれど、マスターは合格祝いにと店のピアノを弾かせてくれた。
この数ヶ月、必死に遠ざけていた大好きな音楽に触れられる事が嬉しくて、私は謙遜も遠慮もなく飛び付いた。
何を弾こうか一瞬迷ったけれど、ここで覚えた曲を二曲と、ついこの間卒業式で歌ったものを一曲、弾いて歌った。
誰に教わった訳でもなく、目と耳で吸収したはずの合唱曲にさえ、ピアノを弾く指や当日よりも大きく出る声にソレイユが寄り添ってくれ、上手に弾ききる事が出来た。
お洒落やヒール、食事や睡眠、人と会話をする事さえ我慢していた禁欲生活の中で、音楽を遮断するのが一番こたえた。
吐き出す先もないのに、どこでどう区切っても、生活の中、学校の授業にさえ組み込まれている音楽は、入り込んでくると勝手に体が疼いてしまう。
音が与えてくれる快楽を知っているが故に、一度逸れたら戻って来れない事は重々分かっていたので、入試が終わるまではと自分で決めたルールが辛すぎた。
想いと力を目一杯込めて、音を重ねて声を上げる。
解放感と充足感、最高に楽しかった。
弾き終えて立ち上がれば、さっきより少し人の増えた店内で拍手があがった。
照れ笑いを浮かべて一礼し、マスターの元へ駆け寄ると、沢山褒めて貰っている横で作業着姿の男性に声をかけられた。
「デビューおめでとう」
はじめましてと挨拶をしつつ、私は一方的に知っているちょっと顔の怖いその人を、マスターは店と長い付き合いのある地元工務店の社長さんだと紹介してくれた。
会社が近くて、少し早いが昼休みに寄ったらしい。
「噂は聞いていたからね。これから楽しみだね」
社長さんは、ティファニーさんのファンなのだそうだ。
歌声が似ていると、最高の褒め言葉をいただいた。
簡単なご挨拶を済ませ、ヴィヴィからお昼ご飯を受け取って、マスターと共に店を出た。
席にはおしぼりとグラスが二つ並んでいたので、ニヤニヤとこっそり社長さんが視線を送った店の奥に誰が居るのか想像し、大きな声で「いってきます」と声をかけた。
車の中で食べた特製サンドイッチはため息が出るほど美味しくて、よく噛んで食べなさいと注意されつつ、あっという間に平らげてしまった。
我慢の後のご褒美は格別だと、これまでどれだけ自分を追い詰めて、辛すぎて泣いた事までべらべらと早口で喋り倒す私の愚痴を、マスターは上手に相槌を打ちながらずっと聞いてくれ、学校に寄ってから自宅まで、ずっと私を上機嫌にさせたまま送ってくれた。
「明日も来れるかい?」
「はい。これで安心して春休みに入れます。書類も今日中に準備して、まとめてから行きます」
「大事な事だね。きっと一日中ティファニーが店に居るから、顔を見せてあげて。誰よりも君を待っている」
「じゃあ、朝一番に会いに行かなくちゃ」
「それは良い。リボンをつけておいで。二人用の特別な朝ごはんも準備しておこう」
部屋に戻り、最後になった制服を脱ぐと、しばらく仕舞い込んでいた大好きな物を次々と出して気分を上げた。
明日はこの服にしよう、髪を巻こうか、メイク久しぶりだな、と、期待に胸を膨らませ、弾き足りなかったピアノも弾いた。
クリスマスにもらって取っておいたリボンで、シンプルな髪留めも作った。
すっかり頬が緩んでしまって、幸せを噛みしめる。
まだ合格しただけで入学はしていないし、行き先は指折りの進学校なので、周りにはテストの順位が上の人達しか居ないのだから、精一杯ついて行かなくてはいけない。
春休み中の宿題も既に出されていて、狙って真ん中を歩いていた今までとは違い、必死に走ってしがみついたって真ん中にすら行けないかもしれない。
でも、それすら覚悟して、なるべく綺麗な字で貰ってきたばかりの書類を記入する。
今日は終わりじゃなくて、はじまりだ。
でもそんな日くらい、浮かれたっていいじゃないか。
きっと大丈夫だから。
エルメスはなんでも教え上手だし、先輩でもある現役大学生達はきっと力になってくれるだろう。
食べる物も寝る場所も、息抜きの道具も全部ある。
携帯電話はもう無いけれど、心は充分繋がりを感じて、想像だけの楽しい事や嬉しい事で満ち足りていた。
夜になり、両親が揃うのを待って、私は満面の笑みで合格を報告した。
「受かった!」
父はほーんと相槌のような返事をして、帰宅したばかりの母は書類に目を通しながらはぁーっとなんだかわからない息を吐き、自分の手帳を出した。
「合格発表見に行けたって事はそう言う事なんだよ。落ちた子は、合格した子達に会わないように朝電話が来るんだ」
「思い出させないでよ。この子だって前期はちゃんと落ちてるのよ」
書類はすぐに、揃え直されて返って来た。
そのまま二人は、姉には言うか言わないか、入学式や説明会はどちらが行くかそもそも親は必要なのかなど、カレンダーに加わった新しい行事予定の日程調整を始めたので、私は笑顔のまま部屋に戻った。
何故だろう。
自分でも気が付かない内に、胸の辺りに黒い何かが刺さっていた。
もやもやしたもの。
黒い、鋭い武器。
それは、自分が失敗した時、追い詰められた時、高鳴る心臓や苦しい肺を貫いて黙らせるためのイメージだった。
私はもう、心を動かす事に恐怖なんか無いのに、何故動きを止めようとする。
小学校の時から無遅刻無欠席を決め込んで、プールを休むための仮病くらいしか病気もせず、周りに期待させない代わりに結果だけはきちんと出して、言われる前に行動して、ずっと良い子にして来たのに。
兄にも姉にも負けていないのに。
どうして。
失敗しなきゃいけなかったのかな。
それとも、両親の前に出る『私』は、もっと素知らぬ顔でいて、こんなにはしゃいではいけなかったかな。
忘れちゃった。
娘のフリの顔。
「帰りたい」
自宅に居ながら何を言うのかと、自分でも変だと思いつつ、それは自然と口から出て、私は本当にそう思った。
胸に刺さった棘は、痛みは無いが怖かった。
深く刺さって貫いて、抜けないようにきつくきっちり動かない。
これ以上心が揺れないように、私を守るおまじない。
無理に引っこ抜こうとすれば、きっと広がった穴から満たされていた気持ちまで溢れ出て、どこかに流れて見えなくなってしまう。
今はそれが怖い。
部屋着を脱ぎ捨て、明日の為の服に着替えて、ネックレスを身に付ける。
もう殆ど準備してあったカバンを掴んで上着を羽織り、残念ながら靴が無くて、夏から飾ってあったサンダルを握りしめて、裸足のまま屋根から飛んだ。
庭を抜けて、道へ出て、足音も潜めずにひたすら大きく一歩踏み出して進む。
帰るまでもってくれたらそれで良いから。
ただ早く帰って、ティファニーさんに伝えなくてはいけないと、そればかり考えていた。
まだ伝えられて居ないから。
もう知っているかも知れないけど、自分の口で伝えたい。
リュウにも謝らないといけない。
たくさん謝らないといけない。
ルイにも、ココにも、ルルにも、ロンドンにも会いたい。
早く帰りたい。
少しずつ賑やかになって行く町並みに紛れて、なるべく大きな明るい道を選び、歌いながら歩いた。
駅が見えて、知っている道を歩いて、うっすらと聞こえるボサノバに耳を傾けながら、そのよく通る声と丁寧なピアノの音に導かれるように、ビルの裏に回ってドアを開ける。
そこにある、匂いや音や雰囲気や空気が、冷えた身体を包んで馴染み、入り込む。
「ただいま」
やっと息が出来た気分。
本当はティファニーさんに一目会いたかったけれど、着いた途端に安心してしまって、もうふわふわしだした。
ライブはまだ続いている。
階段を登り、当たり前みたいな顔をして入った部屋で、靴も服も全部脱ぎながら歩き、高いシャンプーにボディクリームまで勝手に拝借してパジャマに着替え、ベッドに飛び込む。
布団をめくったらクマがいたので、しっかりと布団を被り直してクマを抱き、目を閉じた。
ベッドはともかく、パジャマもタオルも、枕さえすぐ使える様に私の物がここにあるのだから、誰も文句は言うまい。
どこよりも安全で、落ち着く匂いの私の場所で、階下から聴こえる歌声がまるで子守唄の様に心地良かった。
まだ薄ぼんやりと意識のある内に、足音だけは潜めて、ノックもなしに部屋に入る人が居た。
「おかえり」
それだけ言って、その黒い大きな影は、相手の都合も考えず、ただ会いたくていきなり湧いて出た私を怒りもせずに、私がすっかり眠ってしまうまで、ずっとそこに居続けた。




