Time after time
たばこ屋のおばあちゃんにもらったチョコレートも、私が家に行った事も、リュウは綺麗さっぱり忘れていた。
リュウの怒った顔が怖いと言ったらそれはそれは盛大にへこんでいたが、アンナに対して怒った事は一回も無いと胸を張るので、あの夜玄関を開けるなり暴言を吐かれたとちょっと大袈裟に伝えたら、昨日の朝より反省していた。
リュウが覚えていないのならば、ティファニーさんにまで伝わっていないだろうと思い、二人の秘密を増やして終わりにした。
ちょっと意地悪を言うたびに、リュウの中の私の居る場所が分かりやすく伝わってくるのが申し訳無いけど面白くて、まだ嬉しかった。
私を大事にしなければティファニーさんに怒られて、ティファニーさんを大事にしなければ私に嫌われる。
ソレイユの人みんながきっとそれを知っているし、リュウは誰よりも理解している。
いつも通り私の左側におさまると、駐車場までの短い道を歩く途中、半分こするはずのチョコの代わりにプレゼントをくれた。
いちご味のリップクリーム。
元はポールからの贈り物だそうだ。
リュウのカードを引いたのは、ポールだった。
どこかの店で買ったままのビニール袋に、それより大きなカードをセロハンテープで貼り付けた質素なプレゼントだったので全く期待はしていなかったが、想像以上に使い道に困ったので「貰って欲しい」と言った。
ならばと、私は「貰ってあげる」事にした。
「ありがと。大事に使うね」
男性が男性に贈る物にしては少し変わっているし、カードを引いて相手を想像した時はきっと違う何かを考えていただろうに、ポールはなんと気の利くお洒落な紳士だろう。
リュウは絶対使わない。
ならば違う誰かに、きっと女の子に、笑い話ついでに渡す事を見越してこれにしたんだろう。
いくら口下手でも口実があれば話しかける事が出来る。
お金では買えず、リボンもかけられないプレゼント。
仲直りの伏線。
全て受け取って、笑顔を返す。
その時、歩きながら私の顔ばかり見ていたリュウが、自転車に轢かれそうになった。
自転車の存在に私は気付いていたけど、いつまでもリュウが歩き方を変えないので腕を引き、リュウは直後に横を通り過ぎた自転車に心底驚いていた。
「大丈夫?」
「うん……」
今日はリュウが内側を歩いていた。
いつもは歩行者のルールに則り右側を歩くため、当然私の左に来るリュウが車道側を歩く。
それが癖で、優しさなんだと思っていた。
「ねえ、リュウ。左側、本当は不便でしょ?」
つい先程、瞼の裏に過ぎった紳士の言葉がふと蘇り、今度はしっかりと聞いてみたら、予想通りだった。
リュウは、数年前に事故で左半身を弱くしていた。
今でこそ日常生活に支障はない程度に回復してはいるが、左耳は完全に聴力を失い、左だけ若干視界が狭かった。
「言うたっけ?」
「危ないから、今度からこっち歩いて」
「そっち行ったらアンナの声全然聞こえへん。ただでさえ小さいのに」
「私が大きな声で喋ればいいんでしょ?」
「声やなくて」
「うるさい!」
怒った私にそれ以上文句が言えず、残りの数メートルは私がリュウの腕を引き、路側帯の上を歩いた。
私から聞かなければ、きっと本当にずっと教えてくれなかった。
必要以上にキョロキョロと首を動かして辺りを伺う事も、私の左側を歩くのも、話す時には屈んでくれることも、全部自分にとって必要でそうしなければいけなかったからだった。
隠してた、つもり。
教えてくれたら、私にだって、リュウの為に何かが出来たかもしれないのに。
私はまだ、彼にとって何かを挟んだ向こう側の、そんなに遠くにいる事を知って腹が立った。
今朝、駅のホームで、私に頼るべき大人を理由付きであげながら、ポールはたくさんヒントをくれた。
私がこれを知らないこと、ポールは気付いていたのだ。
ピアノを弾く時、私は左側が弱くなる。
初心者にはよくある事だけれど、目と耳で音を覚えて弾く私は、教えた人間のクセがそのまま出る。
曲によってクセが変わる事に気付いたポールは、本気で空を目指す気ならば、ピアノはエルメスに教わる様に言って行った。
その〝頼るべき大人達〟の中に、リュウは入っていなかった。
大人でも無ければ正解でもなく、私が歩み寄らなければ寄っても来ない、そう言う場所にリュウがいる事を、私を傷付けないように、そしてリュウを悪く言わないようにポールは教えてくれていた。
帰りの車の中、試しにリップの蓋を開けてみたら、味よりも先に匂いが凄くて、真冬だというのに車の窓を全部開けて走る羽目になった。
鼻だけは良く、匂いで酔ってしまうリュウには辛かったのだろう「くそじじい」と小さく歯軋りをしながらとても不機嫌そうな顔をして、ポールを酷いあだ名で呼んだ。
「聞こえるよ。耳がいいから」
私の好きな人の悪口を言ったので、黒い冗談で返してやった。
もちろん返事は無かった。
大事な話は聞き逃すといけないので、車の中は、くだらない話か会話をしない選択しかない。
「甘い」
「ほんまにイチゴ味なん?」
「うん。本当にイチゴの味がする」
「まじか」
「味見する?」
私の精一杯強がった提案も、冷たくて激しい風の音に紛れ、届かず消えた。
しっかり甘いのは匂いだけ、ちゃんと酸っぱくて青臭い、本当にイチゴの味がした。
何があろうと、何を知ろうと、私が決めた想いは変わらない。
出会ってしまったおかげに、鏡の様に写し取った性格が、頑固で諦めの悪い私を作り上げた。
これからも私は大好きな人と、その人が大切にする人達のそばに居たい。
誰かの幸せを心から祈り、その笑顔を守るために私が出来る事を精一杯したい。
好きな事に一生懸命になってみたい。
もう私がリュウの右側を歩く事は無いだろう。
そこはしっかりと声を聞き、願いを聞き、手を繋いで守ってあげたい誰かの為に空けておかなくてはならない。
左手には、荷物を持ってあげて。
私はそんな幸せそうな貴方を、左側の後ろから、着いて行って守ってあげられる人でありたい。
後ろから迫る危険を察知し、大事な物を落とさない様に見張ってあげる。
どこかから声をかけられた時、かけられた事を教えて繋げてあげる。
人より耳は良い自覚があるし、ヒールでも走れる。
これからもずっと一緒にいる為に、貴方も、貴方の愛する人も守れる、そんな強い人になりたい。
この二日、自分の足と自分の意思で、出来る限り思い出を巻き戻してやり直した。
そして思い出して、吐いて捨て、必要なものは拾い直した。
それでも尚、変わらず手の届く所に残ったものを、今度はちゃんと手を離さずに大事にしたい。




