Comment te dire adieu?
顔を上げるやいなや、派手な呼びかけと共に力強い体当たりを食らった。
後ろにしっかり倒れてベンチから落ちたけれど、なんとか頭は守ってもらえて、その後は足が浮くのもお構い無しに抱き上げられ、まるで凶悪な誘拐犯に人質に取られた我が子が帰って来たような、ここに私が居るのが奇跡みたいな、そんな大袈裟な喜び方をされた。
「ほら、居たじゃないか」
「居ったあ!良かったぁ……」
大きな体と長い腕に不似合いな、情け無い声がした。
まだ痛い程巻き付く腕の隙間から顔を出すと、光の中でマスターが笑っていた。
新品の帽子が、よく似合っていた。
「おはようございます」
「おはよう、良い朝だね」
「リュウ、痛いよ」
「ごめん」
挨拶すれば、微笑みが返ってくる。
文句を言っても、聞いてもらえる。
私はちゃんとここに居る。
教えて貰うまで分からなかったなんて、私はまだまだ馬鹿みたいだ。
「ポールのお見送りを」
「どうもありがとう。ご存じの通り彼はマイペースでね。いつもふらりと来て、黙って行ってしまうんだ」
「足跡を残して行ってくれました」
「黙って行ったらあかん。心配したやろ」
「寝てたじゃない」
「起こしてええのに」
「あなたは絶対しないでしょ。それともなあに?起きるまで見張ってれば良かった?」
「まあまあ。じゃあ、あいこだね」
賑やかな声が近くでする。
三人で歩く道は来た時よりもずっと歩きやすくて、一人の時よりもずっと気持ちが良かった。
もう心が動く事を恐れなくて良い。
嫌われたくないと、躊躇わなくて良い。
逃げ道は出来たし、そんな彼が「大丈夫」だと私を託して行った人達を信じないのは、誰に対しても失礼だ。
店に戻ると、もうすっかり店の住人達は皆起きて、朝の活動が始まっていた。
店の前の通りは既に綺麗に雪が片付けられていて、厨房からは良い匂いがし、朝のお茶用のお湯が沸いている。
店の隅では、満面の笑みで迎えてくれたティファニーさんが、机を一つ占領して何やら作業中だった。
「ステキなプレゼントありがとう」
ティファニーさんの傍らには、ポールが買ったあのカラフルな花束が置かれて居た。
ただ、その一言を言ってから、ティファニーさんの笑顔が驚きの色を隠しきれずに固まってしまった。
続かない会話を不信がり、店中の視線が私に向かい、止まった。
お尻の下に敷いてしまったコートはびしょ濡れで、もう一度袖を通すことが躊躇われ、手に持って帰って来た。
だからその時の私の服装は、もちろんセーラー服だった。
ルイは変な顔をしていた。
ルルは眉を潜め、ココは口をぽかんと開けていた。
いつも涼しい顔が出来るエルメスさえも目を見張り、忙しそうにしていたヴィヴィも動きを止めて、リュウは周りと私を見比べている。
駅前では何も言わなかったマスターも、困った顔で私を見下ろしていた。
「やっぱり、だめですか?」
皆一堂に、首を横に振った。
それがノーなのかイエスなのか、一瞬ではわからなかった。
「驚かせてしまってごめんなさい。隠しているつもりもあったし、正しく諭されることが怖くて、今まで言えなかったの。私の不良行為の片棒を担がせてしまって、本当にごめんなさい」
みんなに聞こえるようにそう言って、マスターに向き直る。
「でもマスター、お願いです。どうか、もう少しだけ、ここに居させてください。今までのことは十分反省します。ご迷惑をおかけすることも、極力なくすよう努力します。私ソレイユを失ったら、何を糧に生きたらいいのか分からなくなってしまいます。今朝ポールには、お約束をもらってきました。だから、彼が迎えに来てくれるまでで良いんです。昼間だけ、お客さんとしてだけでも良いんです。だから、どうか」
今朝ゆるんでから、熱を帯びやすくなった目頭に注意しながら、できる限り声を落ち着かせて話したつもりだが、マスターの困惑は更に深まった。
バーを出入りし、目的も無く街を徘徊し、日付が変わるギリギリに帰宅していて良い年頃で無い事は、自分でわかっていた。
それを他の誰でも無いここの誰かにつつかれるのが怖くて、ずっと背伸びをしたまま出来る限り隠す努力をして、目を瞑ってくれる事を願って来た。
でも、本来ならばそう言った時に正しい道へ制してくれるのがあるべき大人の姿だという事も、自分のしている事がソレイユみんなの迷惑になる事も分かっていて、それでもただ優しく受け入れてくれた事や可愛がってもらえた事が嬉しくて、甘えに甘えて居座って来てしまった事をずっと気に病んでいた。
罪悪感を隠すために、心を開き切れなかった。
それでも私は、まだ『アンナ』でいたかった。
「困ったな」
マスターの返事に、これ以上言い訳もお願いも、言葉にできなかった。
私の我慢を読み取って、私の手にハンカチを握らせたマスターは、困った顔のまま姿勢を低くし、甘えたように見上げて、私の手を包んでくれた。
「ごめんね、アンナ。私たちは、君のお願いをその言葉のまま聞いてあげられない。君の心の内も知らず、喜んでくれると思ってリボンまで付けてしまった自分が恥ずかしい。真面目な君のことだから、こんなものを渡されたら気に病んでしまうかな」
私は言葉の意味が吞み込めずに、まばたきで返した。
はっとして握らされたハンカチを開くと、白いリボンのついた鍵がひとつ、入っていた。
「これは」
「うちの裏口の鍵だ。開いている事がほとんどだけど、いざ来た時に入れなかったら困るだろう。本当に残念な話だけれど、私たちは君を悩ませているとも知らず、君がここに来ることをいつだって心待ちにして、甘やかして、怒らせて、驚かせて、笑わせることを大いに楽しんでいたどうしようもない大人達だ。それでもいいなら、遠慮はいらない。いつでもいい、好きな時に来て、好きなことをしていくといい。そのために、受け取ってくれないか」
わざと下手にでてみせて、マスターは確信を持った微笑みを向ける。
これから私がしようとしていることさえ見透かして、背筋を伸ばして構えたのが分かった。
ほら、あの人の言う通り。
いきなり飛びついた私をしっかりと受け止めて、マスターは力強く抱きしめてくれた。
「私たちは謝られるような事をした自覚もされた自覚もなければ、自分たちが悪いことをしているとも思っちゃいない。それなのにアンナひとりが抱え込んで悩んでいたのなら、それは私たちが謝らなくてはならないことだ。もしもアンナが怒られそうになったら、その時は私たちも呼んでおくれ。みんなで行って理由を聞こう」
言い終えて、マスターは豪快にわははと笑った。
「それでもいいかい?」
「もちろんよ」
ティファニーさんをきっかけに、みんなが笑いながら返事をした。
誰一人、そこには私を追い出そうとする人どころか、私を〝正しい道〟へ導こうとする人も居なかった。
私の覚悟などものともせず、そこはいつも通りのソレイユだった。
私が何者であろうと、これからも変わらず時が流れて毎日が過ぎていくだろう。
私の願いを言葉のまま受け取れないと言ったマスターの困惑の真相は、「ポールが迎えに来るまで」という条件だった。
なので私は素直に、ソレイユでまだまだ学び、健やかに育ち、美人になったらという条件を満たすために帰って来たことを告げると、マスターは「一本取られた」と悔しがっていた。
そもそも、引き渡す気がないのだ。
それなのに私が〝ポールの言うことをきいて〟引き返して来たことが悔しいらしい。
わかったのに、なんだか落ち着かなかった。
ふわふわして、ざわざわして、その形がはっきりとわかるくらい、心が動いていた。
「さあ、残りのプレゼントはご飯の後ですよ」
ポールからの花束をドライフラワーにするために分解して、私が代筆した付属のカードをラミネート加工していたティファニーさんに、ヴィヴィが「お片付け」をせがんだ。
元気な声と共に、キッチンからぞろぞろと住人達が出て来る。
今朝は店や空部屋で眠って居たという、パーティーで見かけた人達も何人か居た。
クリスマスは、今日なのだ。
素敵な朝が、また始まる。
自分の着くべき席を探すと、ティファニーさんとリュウの間が、しっかりひとつ空いていた。
「私そこで良いのかしら」
「私が行っても追い出されるだろうね」
マスターは私の肩を抱いて席まで案内し、椅子をひいてくれた。
「ねえ、汚れない?エプロンいる?」
ティファニーさんが私を子供扱いするのは、今日に始まった事ではない。
「大丈夫です」
けらけら笑って、伸ばされた手を握り返した。




