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ANNA  作者: 神崎 銀
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It’s Only Paper Moon



 死んだかと思った。






 気が付けば、私は素肌にガウンでティファニーさんのベッドを占領していた。

 凄く既視感。

 辺りを見回すと、ベッドの角の際にはティファニーさんだと思われる白い布団の塊が乗っていて、ど真ん中に伸びていた私には毛布が三枚もかけられていた。

 体には鈍い痛みがあったものの、なんとか一人で起きられたので、まだ暗い部屋の中を慎重に進み、洗面台で顔を洗った。

 冬の水は冷たくて硬くて、変な声が出そうだった。

 着替える為に手探りで自分の鞄を探していると、ソファにリュウが居た。

 寝息が二つある事にも気付かなかったくらい静かに、そして私はまた殆ど服を着て居ないのに、懲りていないのか平気なのか、ここに居るのが当たり前みたいな顔をして寝ていた。

 更に慎重になって身支度を整え、店まで降りて、昨日みんなの楽器と一緒に並べられていた自分のギターを持って、外へ出た。


 店は今日も休み。

 いつ終わったのかも知らない昨夜の余韻を残しつつ、仕込みのために早起きをする人も居ないソレイユは、しんと静まり返って寂しく暗く、少し不気味だった。

 外もまだ街灯が付いたままで、その下だけきらきらとした光の粒が舞って見える。

 視線を落とすと、狭いビルの隙間にさえ満遍なく積もった白い絨毯の上に、真新しい足跡を付けて楽しんだ人がいるようだ。

 それを追いかけて街へ出た。

 ここに住んでいる人しか知らないであろう、人の居なくなった市街地はとても新鮮で、不思議な景色だった。

 どこか遠くへ来たような、どこか遠くへ行けそうな、そんな朝。



「おはようございます。お見送りに来て下さるとは、光栄です」

 駅舎の前で、見慣れた老紳士が待っていた。

「私が見送りに来たとでもお思いですか」

「そうで無くては困ります」

 ポールは不敵な笑みを浮かべ、静かに歩き出したので、今度はその背を追いかけた。

 一緒に歩いているのに、何も話しかけて来ず、それどころか独り言も言わないのが奇妙で、私はついにホームまで来てしまった。

「それは、貴女の物ですか?」

「はい」

 静かに並んで座ったベンチで投げられたシンプルな質問に、限りなくシンプルな返事を返した。

「そうですか」

「少しなら、弾けるんです。もっと練習したら、きっとすぐ上手になります」

「そうでしょうね」

「私が見送りである事を望むと言う事は、今の私では、まだ連れて行けないという事ですか?」

「そうです」

 限りなく簡素な返答に、閉ざした筈の胸が痛んだ。

 最後の希望のつもりだった。

 見送りにではなく、あわよくば連れていってくれたらいいのにと、本気で思ってやってきた。

 ここでだめなら、本当にだめだと。


 やっぱりそう。

 いつもそう。

 みんなが私に優しくするのは、結局私の向こうにもっと良いものが透けて見えるから。

 どこに居たって、私は透明。

 私の物語の中でだって、主役じゃない。

 私に興味を示したのは、ソレイユを出入りする人間であると知って、それもティファニーさんの配下にあると知って、少しばかり期待をしただけだった。

 最初に声をかけたのも、きっとあのギターに見覚えがあっただけだ。

 私の向こう側を見ていた。

 あの人が、会いたかった子だから。

 あの人が、気にかけている子だから。

 あの人が、良い子だと思っているから。

 あの人が、側に置いているから。

 優しくしておけばその誰かが振り返り、近付けば向こうから勝手に近付いてくる。

 本当に欲しいのは、いつだって私の向こう側。



「貴女は、賢く見えてもやっぱり子供ですね。こんなに簡単に捕まってしまうようでは親鳥が心配するのも納得です。やはりま(・)だ(・)連れていけない。あなたは今少しここで、学ばなければいけない」


 顔を上げると、ポールはわざとらしいほど困った顔で、笑っていた。

「そんなに悲しい顔をしないでください。騙して申し訳無かった。無口がお好きなのだと思い、少し静かにしてみただけです。押してダメなら引いてみろと言うでしょう。今、私が貴女を連れて行かないのは、帰る家を失いたく無いだけです」

 そう言いながらポールは胸ポケットから小さな紙の束を出した。

 受け取って眺めると、芸能や音楽事務所の関係者の名刺やら、手書きの連絡先ばかりだった。

「貴女の価値です。あそこには私以外にも貴女の怖い親鳥の敵は沢山いたのです。貴女は卵なんかじゃなかった。すっかり孵《かえ》ってもう飛べるのに、貴女の親鳥は鍵付きの巣箱まで作って隠して抱え込んでいる。私が率先して守って差し上げたことはきちんと伝えておいてください」

「ティファニーさんを親鳥と呼ぶのはやめてください。ティファニーさんは人間で、私はティファニーさんから見て何者でもありません」

「彼女は貴女を天使だと言っていましたけれどね。金の卵、天使の歌声……我々の世界では、よくこう言った言葉を使います。ですから私は、光り輝く才能をお持ちの方には、翼があると考えているのです。普段は隠していても、見える人には見える。彼女もまた、翼を持つ人ですね」

「ならば、ティファニーさんも連れて行けば良いのです」

「連れて行きませんよ。彼女はもう飛びません」

 よく響く低い屋根の下で、ポールは高らかに笑った。

「翼を持てども飛ばない鳥は居ます。彼女自身が見つけた彼女の道と幸せな居場所を奪うつもりはありません。誰でも、好きな事には前向きでいられるものですからね。私も自分の気の向くまま好きな事ばかりしているのに、それが仕事として成り立っているおかげでとても有意義で充実した毎日を送れています。困難があろうとぶつかる元気だってあります。

 良いですか?好きな事をして生きるという事は決して楽ばかりではありません。そもそも楽に生きるためには、いかに効率的に動けるか、自分の力と相応しくないものを見極め無ければなりませんから、失敗だって経験です。「やってみなければわからない」という真理はそこにあります。嫌な事を理解するという事だって必要なのです。好きか嫌いかは食べてみなければわからないし、甘い物ばかり食べていても長生きは出来ません。時には緑の葉っぱや硬い根も必要で、辛い苦いも知らなくては旨味は分かりません。しかしそれを知った上で食べる甘い物は、絶品です」


 急に饒舌《じょうぜつ》になったポールは、そこから随分私の事を貶してくれたが、改善方法とそれぞれ頼るべき人を理由付きで丁寧に教えてくれた。

 名前の挙がった人々は、どれも彼が見込んで信頼し、私も良く知る大人達だった。

「今の私では、衣食住に困らせる事こそしませんが、それ以外を満たしてさしあげることができません。その紙切れを持って来た者の中にも、それができる人間はまず居ないでしょう。足りないのは私の方です。ですから、今はここでお別れをしましょう」


 発車の時刻が近付いて、ホームに到着した特急列車に、ポールだけが乗り込んだ。

「またお会い出来ますか?」

「もちろんです。今度は貴女に会いに来ます」

 自分でも気付かぬ内に、頬に一筋涙が伝った。

「貴女は美しくなる。貴女が望み続けて下さるのならば、必ず私は迎えに来ます。それまで安全な場所で、よく食べ、よく眠り、たくさん遊んで心を動かして下さい。どんなものも、使わないと使え無くなりますからね。心が止まると人は死んでしまいます。どうか自分を大切に、綺麗なままで居て下さい。いつか一緒に月へ行きましょう」

「その時は、連れて行って下さるの?」

「羽ばたくのは貴女ですけれども、大丈夫です。鳥は飛べても空までですが、人は月まで行けます」

 そう言って、ポールは私にハンカチを渡し、固い握手を交わした。

 昨夜見たばかりの、極上のラブロマンスには劣るが、まるでプロポーズみたいだと思った。

「必ず?」

「必ず。お土産は何が良いですか?」

「では、大きな花束を」

「お約束します。貴女が望むものはどんなものだって差し上げましょう。では、それはその時までに洗っておいてください」

「はい。必ず」

 ふっと自然に、笑顔がこぼれた。



「自信を持って。貴女は愛されている」



 閉まるドアの向こうに、穏やかな微笑みと、向けられた手の平が消えて遠くなる。

 昨日初めて会ったばかりのおじさんを、私は泣きながらいつまでも見送った。

 接した時間は少ないけれど、誰よりも私を見て、私の声を聞いて、私を分かろうとして、きちんと向き合ってくれた人だった。

 勝手で頑固で自由で遠慮も無い代わりに、真っ直ぐ自分の意見をくれた人だった。

 誰よりも私の近くに歩み寄り、「私のために」分かりやすくたくさん動いてくれた、良い人だった。


 良い出会いだった。


 名前入りのハンカチを握りしめ、うっすらとオレンジ色に輝き始めた空が綺麗だと思えた事さえ、喜んで報告して良い事だと思った。

 きっと真っ直ぐ受け取って「それは素晴らしいものを見ましたね」と、一緒に喜んでくれるから。





 ポールと別れ、駅前でギターを弾いた。

 座るには少しためらう石のベンチにコートを敷いて、昨夜歌いきれなかった愛の歌を沢山歌った。

 歌っている途中で、不意に冷たい風が吹き抜け、前髪をくすぐった。 


「おった……」


 風に紛れて運ばれてきた、弱々しい呟きに、顔を上げる。





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