小さな恋のうた
イブの一日が終わりそうな頃、今まで隠れるように静かにしていたリュウが、ピアノに触れた。
オリヴィアさんが旅立つ時間も迫っていた。
もう二十四時間以上起きているのでいつ倒れてもおかしくない、ここを出たらきっと興奮の反動でおかしくなってしまうと、ポールに文句を言っていた所だった。
リュウが弾きだしたのは、女の子が好きそうな、お姫様の映画の曲だった。
一人から始まったその曲には、私のよく知る人達がそれぞれ楽器を持ってステージに集まり音を重ね、みんなが満足するまで歌を歌って何度も繰り返された。
この夜の絶えないショーのプログラムは、そうやって作られてきた。
誰かが始めた一曲に、違う誰かが加わって、曲が終わるとその中の誰かがまた違う一曲を選んで弾き始める。
そんなんだから、決まった曲を決まった通りにしか弾けない私は、輪に入れなかった。
よく見て聞こえる特等席から、私はそれを見て楽しんでいた。
次に曲を変えたのはココ。
塗り替えられたテンポや雰囲気はそのままに、とっておきのラブソングを披露する。
張り切る演者につられて、続々と立ち上がり出した歌い手達を抑え、マイクを握ったのはロバートだった。
王子様が彼ならば、お姫様は決まってる。
渋い顔をしながらステージに上げられたロンドンは、少し恥ずかしがりながら声を重ねた。
完成したのは、甘い甘い、愛の歌。
曲が終わり、拍手があがり、盛り上がった所で音楽は一度止まった。
その場にいた人間全員がこの事を知っていたかのように、ありとあらゆる音がぴたりと止まり、静寂が訪れる。
「楽しい夜に、ごめんなさい。今、僕に少しだけ時間をください」
しんと静まり返った店の中、息を飲む音や心臓の高鳴りがとても良く聞こえる。
「特別な家族で過ごす、楽しいクリスマス、僕は今年で最後になるかもしれない。……来年、僕は、夢だったイギリスに行きます」
息を吸う音、感嘆の声、タメイキ。
「ごめんね、ロンドン。君には一番最初に言うべきだったのに……。寂しい思いをさせてしまう事はよくわかっていたから、今日まで言えなかった。でも、夢だったんだ。君が美容師になると聞いてから、僕も一生懸命追いかけて、そこから生まれた夢なんだ。だから、本当にごめん」
首を振る髪の揺らぎ、鼻をすする音、彼女はもう泣きそうだ。
「家族と離れるのは辛い。いつ帰れるかも分からない。年に数回だって無理かもしれない。だからどうしても今日、みんなの前で言いたかった。笑って送り出して貰えたら、勇気も出ると思って」
みんな静かに聞いている。
うんうんと、頷く。
首は縦にふりながら、彼女の目はもう彼を見えなくなって行く。
「新しい生活は慣れるまでに時間がかかるし、周りは言葉も通じなければ文化も違う。常識も知らない。友達だっていない。迷惑も心配もたくさんかけてしまうだろう」
「でも、君と一緒なら、生きていけると思うんだ」
震える声に、空気が一変して歓喜の声が上がる。
見開かれた彼女の目の前には、細長いチケットの袋と、目を潤ませて、微笑む彼。
「僕と一緒に……きてほしい」
答えなんて決まってる。
結末なんてわかってる。
落としてから上げる、盛大に仕立てあげられたハッピーエンド。
もちろん彼女はチケットを受け取って、中に入っていた「Marry me!」のメッセージに涙し、その手紙の下に隠し持っていたジュエリーケースに気が付くと、声を上げてその場に崩れ落ちてしまった。
店中の女の子に支えられて立ち上がった彼女に、彼はひざまづいて、中を確認してもらう。
割れんばかりの拍手、歓声が上がり、口笛が鳴る。
これが映画だったら、ここで明るい曲調の音楽がかかってエンドロールだったろう。
暗転の後、ゆっくりと電気がついて、耳鳴りが残る中私は席を立つ。
ひとしきり抱き合った後、ロンドンはステージを飛び降りてこちらへ向かって走って来た。
「アンナちゃん、見て!」
左手の薬指に、立派なダイヤモンドが光っていた。
ふわふわと遠くに行きかけた意識が急に引き戻されて現実味を帯びる。
「おめでとう」
「ありがとう!本当にありがとう!」
真夜中の小さな街の小さな店に、お日様みたいな笑顔が咲く。
愚痴も文句も惚気話もたくさん聞いて来たけれど、ぐしゃぐしゃに泣いているのに、彼女は今、世界で一番綺麗だった。
私はどんな顔が出来ただろうか。
悲しい事をちぎって渡し、嬉しい事を報告する先に、私が居た。
其処彼処でハッピーが溢れていたその大きな輪の中に、私も存在していた事を今気付いたような感覚だった。
私も嬉しいよと、鏡のように精一杯真似して笑顔を送る。
夢は終わらない。
そこからは、今日がクリスマスイブだと言うことも忘れ、店ではラブソングパーティーが開催されて、もううっとりとしたムードなんか朝まで訪れないであろう盛り上がりだった。
エルメスに追い出され、ついに境界線から連れ出された私も、少しだけまぜてもらった。
ステージの上からは、カウンターの中よりももっと店中見渡せた。
「見てて」
人の渦の端っこに見つけた綺麗な瞳と視線だけ合わせて、マイクを通さず、騒めきにたったひとつの願いを乗せる。
彼にならば、この想いも届くだろう。
一晩で身体中に溜まった熱を全て放出するように、全身全霊を込めて紛れ込む。
一体化することで、満足する。
まだ心のどこかに咲いている小さな花が、少しの風で揺らいでしまう事の無いように。
実を結ぶ事無く枯れるなら、いっそ摘み取って真っ新に戻せるよう、全部出す。
私の狭い世界の中で、今一番大切な愛する人の幸せを、心から願って想いを乗せる。
空っぽになれば、少しは体も軽くなる。
羽ばたく力もつくだろう。
今夜の月は綺麗だろうか。
身体中が、ぽかぽかと心地良かった。
ふわふわして、夢を見ているような、夢を見ている自分を見ているような、不思議な感覚だった。
今日一日に詰め込みすぎた約束を全て果たし、私は自分の用事を済ませるために、店の奥へと引っ込んだ。
たかいは、怖い。
気持ちが昂ぶると、同時に恐怖を覚えてしまう。
だから逃げ出す様に、光へ背を向けた。
木曜日に着たまま来て、置いて行ってしまった制服を持って帰らないといけない。
冬休みを迎えるために、もう一日学校へ行かなくてはならない。
それが無くては紛れ込めないのが学校と言うものなのだ。
私は私に戻らなければならない。
三年二組四番の受験生に。
本来ならば、クリスマスに遊んでいる場合じゃ無いのだ。
だからティファニーさんの部屋に向かいたかった。
制服。
私に一番見合った服。
正服。
戦闘服。
一歩一歩階段を上りながら、途中で足が上がらなくなった。
「だめだめだめだめ」
もう目は開く努力をやめ、耳も頭も途端に働かなくなり、体が浮いて、全身の力がふっと抜けた。




