“A” in Wonderland
いつの間にか、眠ってしまって居たらしい。
目を閉じたら起きない自信があったので、なんとかそこだけは意地を張っていたはずが、限界だったようだ。
ふと人の気配を感じて目を開けると、そこはふかふかのベッドの上だった。
真っ白なシーツ、お花のシャンデリア、アンティーク調のドレッサー。
天蓋付きの大きなベッドから見える景色は、どれも私の部屋には無いものばかりだ。
外は明るく、窓からはレースのカーテン越しに、日差しとぬるい風が吹き込んでいた。
隣を見れば、『彼女』は変わりなくそこで横たわり、すやすやと眠っている。
顔の前に綺麗に並んだ左手の薬指に、特徴的なハートの指輪が光っていた。
ティファニー……さん。
夢ではなかった。
そう私が気付けるように、わざわざ身体は重たいまま、鈍く痛んだ。
紛れもなく、そこに居たのは、昨日『彼』と行動を共にしていたあの女性である。
そして、私をここへ連れて来た、その人だ。
サングラスも帽子も無ければ髪も下ろされ無造作に投げ出されてはいるが、その類稀なる美しい容姿は、この田舎町のどこを探しても二人と居ないだろう。
体を起こそうと身動ぎすると、長い睫毛が動いて黒い瞳が私を捉えた。
「おはよう、気分はどう?」
凛としたあの声が、頭に直接響く。
私は、その刺さるような頭の痛みに顔を歪めた。
起きようと思った。
起きようと思って、体を動かしたが、とてもじゃないが自力で起き上がることもままならない激痛だった。
頭が痛い、怠い、体が動かない、口を開けても喉まで乾き切って声が出ず、返事もまともにできない。
願いを込めて視線を送ると、彼女はすぐさま飛び起きて私に触れ、真っ青になって何か叫びながら部屋を出て行った。
耳がきんきんする。
頭の中で、やかましく低い音が鳴る。
ばたばたと重なるいくつもの足音を引き連れて、私の体は勢いよく起こされた。
「アンナ‼︎」
誰それ?
はっきりと戻った意識が、視界を正常にしてくれた。
そこにはティファニーさんと知らない男性が並び、そして見覚えのある顔が私の体をしっかりと抱えて居た。
その美しい色の大きな瞳に映った自分の姿が見える程近く、狼狽えた荒い息を髪で感じ取れる程近い。
「レオン……」
また、会った。
そう、『彼』だ。
力の入る腕と手の平の感覚が、過敏になった皮膚に伝わり冷や汗が出る。
皮膚に。
気付けば肩や腰に回る大きな手は、間違いなく私の素肌に触れて居た。
「うわあああああああああ‼︎」
可愛げのかけらもない大声と火事場の馬鹿力で首を押し曲げると、私は乱暴に布団に戻された。
視界に入ったティファニーさんは辛うじて下着らしきもの(それでも表に出るにはいささか問題のある程度のもの)を身に付けて居たが、私にはタオルケット一枚しか与えられて居なかった。
急激に抱き起こされ、また戻された体は重力をもろに受け、空っぽのはずの胃の内容物だけがそれに反発しようとしている。
「気持ち悪い……」
「意外と元気そうだね」
共に駆け付けた医者を自称するもう一人が、笑いを咳で誤魔化しながら場所を代わった。
いくつか質問に答えたり、体温やら脈やらを計られた私は、熱中症だとか脱水症状だとかの注意を受けて一口二口水を飲まされ、再び素っ裸のまま寝かされた。
「起きて呼んでくれて良かった。また何かあったら、すぐにティファニーに言うんだよ。まあ様子見でいいと思うけど」
「エルメス、大先生に連絡してちょうだい」
「一応電話だけはしておくよ。手が空いたら来てくれるかもしれないね。それまでゆっくり休んで。おやすみ、アンナ」
額と首筋で再度体温を確かめて、『エルメス』は素知らぬ顔で残ろうとした『彼』を引き連れ、部屋を出て行った。
「心配症なの。悪気は無いのよ、ごめんなさいね」
それが誰かのことなのか、自分のことなのか、ティファニーさんはその後も私のそばを片時も離れる事なく私を見張り、飲み物を届けたり、伝言を伝えたりする身の回りの世話は『ヴィヴィ』と呼ばれる女性がその都度やって来て行ってくれた。
私の着替えも荷物も、全て綺麗になって戻ってきた。
思えば昨日はあの暑い中、一日を通してアイスひとつしか口にして居なかった。
その上で走り回って、雨に打たれて、酷い目にあって、心も体もくたくたになるはずだ。
栄養も水分も足りていなかった昨日、ぐるぐる巡っていたあの思いはすっかり落ち着き、今は明らかになった情報をゆっくりと整理する。
彼女は本当に『ティファニーさん』であった。
どう見たって日本人だけれど、華やかな彼女には横文字の名前がよく似合い、そう呼ばれて返事をする様も妙にしっくり来た。
昨日の朝、彼を呼びつける為に電話をして来たのも、結果的に私に逃げる隙を与えてくれたのも、彼女だったのだ。
ティファニーさんの話では、昨夜の私は、あの後一緒にお迎えの車に乗り込み、ここに来てからも自分の足で歩いて移動して、きちんと受け答えも出来ていたという。
お風呂上がりの飲み物を取りに行ったほんの数分のうちにソファで寝入ってしまい、疲れたのだろうと気を遣って放って置いた事を、彼女はとても悔やんで何度も謝った。
正直あまり覚えてはいないのだが、話を聞いているうちに、丸裸にされて湯船に放り込まれそうになった時、必死に抵抗した事だけははっきりと思い出した。
疲れ切った体にとどめを刺したのは、間違いなくそれだったと、自信を持って言える。
何を隠そう、私はお風呂が嫌いなのである。
まだ物心もつかないような幼少期に、一度川で溺れて死にかけた事がある。
その時、子守りを頼まれて一緒に遊んでいた兄と姉は「怒られる」と思ったのか、パニックになって咽せて吐く程泣き叫ぶ私を抱え、自宅に戻るなり風呂場に放り込んで洗って着替えさせ、証拠隠滅を図ったのだ。
痛くて苦しくて、本当に怖い酷い目に遭ったのに泣く事さえも咎められ、両親に甘える事も許されず、いつも通りを求められた。
黙っている事しかできなくて、そうしなければ全てが壊れてしまうと言われて、馬鹿みたいに信じていた。
以来、大のお風呂嫌いになってしまった。
衛生上毎日シャワーは浴びるけれど、髪を洗うにも慎重になりすぎて人より時間がかかるし、だからといって髪を切ろうにも美容院でシャンプーされる勇気が無くて、顔を洗うだなんて毎日命がけでやっているくらい、水が嫌いなのだ。
だから雨も嫌い。
顔が濡れるだけで、命の危険を感じてしまう。
ずぶ濡れになってしまってからでは、もう全く余裕が無くなってしまう。
猫ちゃんみたい、と笑われた。
そんな可愛いものじゃないけど、そう言って笑うティファニーさんの顔はとても穏やかだった。
ティファニーさんは時々話しかけては私が返事をする事に安心して、水を飲むにも寝返りを打つにも手を出し、変な体質の私のために、届けて貰った冷やしタオルさえ必要以上にきつく絞りなおして、それはそれは丁寧に介抱してくれた。
その中で何度も私は『アンナ』と呼ばれ、それが自分の事なのだと早々に気付いてからは、私も黙って受け入れることに決め、それに従った。
風が通る快適な室内で、肌触りの良いタオルケットの質感を直に感じながら、誰かに見守られてうとうととまどろむ時間は、とても心地良いものだった。
私はいつの間にかティファニーさんにすっかり甘え、彼女も彼女でそうされる事が楽しいのか、私を散々甘やかしてくれた。
お陰様で、何度目かのうたた寝から目を覚ます頃には、私は充分に回復し、そのまま部屋で一緒に食事までご馳走になった。
ヴィヴィが用意してくれた、リボンのパスタが浮かんだスープと林檎のシロップ煮は、見た目にも優しく、空腹も相俟って最高に美味しかった。
まるでお姫様みたい。
ティファニーさんと一緒に居ると、自分もそうであるかのように錯覚しそうになる。
心配症な彼女に、帰りは送るのでバスの時間は気にせずゆっくりして行くよう強く勧められたが、これ以上言う事を聞いていたらここに住み着きかねないくらい居心地が良かった。
明るい内に帰りたいと申し出て、やっと帰り仕度を始めると、ティファニーさんは私に腕時計をくれた。
一度は断ったが、私の物は壊れてしまって直すにも手間のかかる状態であるらしく、腕に巻かれてしまってからでは、もう突き返す事も失礼だと思ってありがたく頂いた。
その横顔の少し沈んだ表情が朧げな記憶を刺激し、まだ痛む腕に彼女の真意を汲み取った私は、そっと忘れてしまおうと思った。
私にとって、今触れているのは優しく柔らかい人の温もりであり、腕に残るのは悪意でも役立たずのオブジェでも無く、心強いお守りだったからだ。
程なくしてドアをノックする音がし、老紳士が部屋に入って来た。
断り損ねた「大先生」かと思ったがどうやら違うらしく、彼の手には私の靴が乗っていた。
「間に合って良かった。ご機嫌はいかがですか、プリンセス」
「あら、あったの?」
「王子様が届けてくれたよ」
悪戯っぽく笑う紳士に、ティファニーさんはふーんとつまらなそうな返事をした。
差し出されたサンダルは、踵も靴底も丁寧に修理され、以前よりずっと綺麗になった様に見えた。
「うちで出来るのはあくまで応急処置だけでしてね。貴女をお家に帰すのが精一杯だ」
『この店の店主』であると言う紳士は、私の前に跪き、まるで本物のお姫様のように靴を履かせてくれた。
それから、わざわざ大層な品物のように布で包んであったものを、私の前で広げて見せた。
「すみません。バッグがびしょ濡れで、もとの袋は破れてしまって。偶然この店に知人がいるものですから、今届けてもらいました。どうかこれでご勘弁を」
それは、白地に青いラインの可愛らしい封筒と、小さな手鏡だった。
ピンと角の立った真新しい封筒は、半分に折ってテープを貼ってしまったら、ちょうど隠れてしまう所に『Marianna』と遠慮がちにロゴが入っていた。
「誰かに差し上げるものだったの?リボンも付けてくれたら良かったのに、けちね」
「違うと思うよ」
紳士の言う通り、手鏡には使用感満載の小さな傷がいくつもついていて、チェーンが通っていたであろう端っこの穴が壊れてしまっていたので「差し上げるもの」にしてはお粗末である。
だってこれは、バッグのおまけに付いていたんだから。
開けることなくバッグにしまい込まれてびしょ濡れになってしまった、昨日の朝の謎の贈り物の正体を目の当たりにして、私の記憶が物凄い勢いで呼び戻された。
「これは、私のものです」
なくしたことすら気付いていなかったけれど、見て、手に取って、思い出した。
以前使っていた姉からのお下がりでもらったバッグに付いていた、おまけの鏡。
お下がりにいちいち愛着も無いので、付いていたから付けたまま使用していた。
なくした所で私の生活になんの支障もなかったはずの物が今、急に特別な存在として舞い戻って来た。
気付けば、鏡に映る私が笑っていた。
見上げた先の店主も、そしてティファニーさんも、なんだか嬉しそうに笑っていた。
部屋を出ると、そこは映画やドラマの中に出てきそうな古いホテルかアパートメントの様な造りで、長い廊下には他にも似たようなドアが沢山並んでいた。
年季の入った軋む階段を下りて外から見上げた建物は、外観の殆どが蔦で覆われたレンガ壁の古いビルで、お城とまではいかないが、なかなか雰囲気のある場所だ。
部屋にいる時から、階下からは絶えず人の声が聞こえ、良い香りがしていたので、下は店舗である事は分かってはいたけれど、看板を確認して腑に落ちた。
まさしくここが『café&bar soleil』であった。
どこまで追いかけて来るのかと思ったら、私の方が勝手に来ただけで、『彼』が居ておかしい筈など無かったのだ。
「またいつでもいらっしゃって下さい」
「はい。今度はお客さんとして来ます」
最後の最後まで、彼らは私から何も受け取ってくれなかった。
大したものを持ってはいないけれど、与えられてばかりでは気が引ける。
お礼をさせて欲しいと言うと、「今度は私に会いに来て」とティファニーさんは綺麗に笑っただけだった。
「では、お大事に。良い休日を」
ここが、境界線。
少し親しくなったティファニーさんはもう少し付いて来たそうに見えたけれど、マスターが先にそれを制した。
さすがはバーのマスターと言うだけあって、人との距離感の取り方が絶妙だ。
深入りしない。
詮索もしない。
ただ、残りの〝今日〟の使い方を、少し含みをもたせて私に託した。
昨日やりたかった事がいくつか頭に浮かばなかった訳では無いが、私は素直に真っ直ぐ帰宅する事にした。
不思議な程に、満ち足りていた。
私らしく無い事ばかりして、常に穏やかな訳でも無かったにも関わらず、きちんと綺麗にまあるく収まった、充実した一日だった。
腕にはブランド物の腕時計、謎の明かされた私のもの、お土産に貰った白い紙箱は、膝に乗せるとひんやりとしたのでケーキじゃないかと期待した。
とんでもない紆余曲折を経たけれど、生まれて初めての特別な誕生日になった。
*****
バスに揺られながら、考える。
私がソレイユにたどり着いた時、靴は片方しか履いていなかった。
もう片方は直前までは手に持っていたから、どこかで落として来たのだと思う。
あの暗い雨の中、そんなゴミみたいな物を探してくれた誰かが居た。
服は洗濯されていて、大騒ぎをして終えたシャワーの後、私はバスローブ一枚でソファで寝ていた筈なのに、目を覚ましたのはベッドの上だった。
起こさないよう丁寧に、力の抜けた小さな大人を運んでくれた誰かが居た。
まだ体に残る大きくて冷たい手の感覚を、確かめるように思い出す。
私を見つける度に見開かれる、あの大きな瞳を思い出す。
それもまた、不思議と私の胸を満たしてくれた。
舞い戻ってきた手鏡は、眺めると鏡面だけは異常にぴかぴかして光っていた。
姉からもらったバッグの内張りにも、この鏡にも、封筒と同じ『Marianna』のロゴが入っていた。
穴が壊れているところを見るに、どこかで落として、拾われたのだ。
持ち主の私でさえいつの事かも分からないのに、それをわざわざ同じブランドの紙袋を用意して、今日まで大事に持ち歩いていたような人が、果たしてギャングであるだろうか。
もやもやしたものは変わらず私の側にあったけれど、黒いのか赤いのか、それさえ見えないもやもやは、形を作る事なく私の体の中で膨らんでいった。
家に戻り、お土産だけはすぐに冷蔵庫に入れて、部屋にこもった。
私の部屋は、本来は屋根裏部屋という位置付けで、祖父の物置として使われていた。
祖父が亡くなった後も片付けられる事もなく私が受け継いだのだが、私も私で部屋なんて宿題が出来て眠れればそれで良かったので、今日まで殆どその遺品に触れた事は無かった。
けれども今日は確固たる意志を持ち、帰宅するなり部屋の大掃除を始めた。
映画のパンフレットばかりが詰まった段ボール、くすんだポスター、色あせたビデオテープ、溢れて収まりきらないCDとレコードの山、もれなく埃まみれのそれらをきちんと分別しながら並べて行く。
そしてやっと、部屋の半分以上を占めていた荷物の中から、慎重に選別して革張りのハードケースを引っ張り出した。
家にある事は知っていたけれど、使用している人間を見たことが無いのでもう何十年もこうして居たのだろう、見える汚れを丁寧に拭いて、小窓から入る光の下で蓋を開けると、とても表現し難い古の香りと共に姿を現したのは、やはりギターだった。
弦は錆びてのびていて、あらゆる隙間にボディでもケースの内張でもない色の何かが挟まっていたが、私の頬は自然と緩んだ。
使い方など勿論知らない。
綺麗にしたい気持ちはあるが、残念ながらそんな知識はもっと無い。
それでもそっと箱から出して、柔らかいクロスで丁寧に拭き、弦を弾いてみた。
望んでいたあの優しい音とは程遠い、情け無い音がした。
昨日今日の、魔法のような一日を心と体に焼き付けて、私は安らかな眠りにつく。
目を覚ましても、冷蔵庫のお土産が夢の続きを教えてくれる。




