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ANNA  作者: 神崎 銀
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真夏の果実


 自分への誕生日プレゼントを何か買おう。


 紙袋は結局開けることなく、気を取り直して目的地を改める事にした。



 気に入っている割にいつもは遠くてなかなか行かないアンティークショップを出発点とし、新しいお気に入りを探すために街を散策する。

 出来たばかりの洋菓子店や、外観が可愛らしくて行ってみたかった雑貨屋、普段ならば通り過ぎてしまう土産物の店も覗いてみた。

 これといった物は見つからなかったけれど、今日はそう言う日なのか、行く先々で誰とも分からない人と私はお喋りを楽しんだ。

 初めて見かけたジェラートワゴンでおやつを買い、猫を追いかけてわざわざ細い路地を通り抜け、ブランドショップの立ち並ぶお洒落な通りに出る。

 ガラスの向こうに輝く豪華なネックレスに目を引かれて眺めていたら、朝食べ損ねたクロワッサンの事をふと思い出し、古い映画のヒロインに想いを馳せてみたりもした。

 ぴったりしたドレスに、大ぶりなジュエリー、高いヒールと小さいバッグ。

 亡くなった祖父と一緒によく見た古い洋画では「いい女」はだいたいそういう出で立ちで描かれていたものだ。

 この辺りはどの店も見える所に値段を書かないそういう(・・・・)店ばかりだが、私でも口紅くらいは買えるんじゃないだろうか。

 せっかくなら誰が見ても分かる良いものがいい、そういうものを持ってみたい。


 そう思い立って、生まれて初めてブランドショップへの階段に手をかけた瞬間、店のドアが開いて、中から想像していた通りの『いい女』が出てきてしまった。


 大きな帽子にサングラス、胸元が広く開いたセクシーな黒い(・・)ワンピースで、ピカピカのピンヒール。

 自分はエナメルのお財布みたいなバッグだけ持って、買ったものはドアまで開けてくれる連れの男の肩にいつくもぶらさげて居た。

 あつらえた様にお似合いで、まるで映画のワンシーンみたいだった。

  

 店は2階で、金色の手すりがついた狭い階段を上って行かなくてはならないため、まだ一歩も踏み出せていなかった私は慌てて道を譲る。

「ありがとう」

 凛とした鈴を転がすような声で、まるで歌うようにお礼を言うと、彼女はこちらを向いて会釈をし、口角を上げて優雅に小さく手を振ってみせた。

 あまりにもその所作が美しく、つられて笑い返しそうになったが、彼(・)女(・)の(・)そ(・)の(・)向(・)こ(・)う(・)側(・)に気付いてしまって、慌てて出しかけた手を引っ込めた。



 その向こうには『彼』が居た。



 彼女の為にドアを開け、彼女の荷物を持ちながら、その綺麗なグレーの瞳が全部丸く出るほど目を大きく見開いて『彼』は私を見ていた。


 ぞわぞわと、ふつふつと、何かがこみ上げる。

 引いたはずの汗が、時を取り戻した日本の夏が、いっぺんに私を襲う。

 熱い、暑い、苦しい。

 ご挨拶をしてくれた彼女にせめてもの笑顔を向けて、背筋を伸ばして私は逃げた。

 走らないけどなるべく早く、綺麗に足を揃えて前だけ見て進む。

 途端に急降下して行く気分をせめて真ん中くらいに保つため、沸き立つ血と体温を下げるため、大きな口でアイスを頬張りかかとを鳴らす。 


 よく見知った通りまで出て、人混みに紛れてやっと息ができた。

 ショーウィンドウに写る自分の姿にウンザリしてため息も出た。

 見てはいけない物を見た気がした。

 そうでなくてはこのおかしな感情に説明が付かない程、私は困惑し、取り乱していた。

 足元のくたびれたサンダルやお下がりの服は、急にお気に入りの座を追われて大したものでは無くなってしまって、アイスの味も覚えていない。




「しにたい……」




 死ぬ気は無いが、これは私の口癖だ。

 身についてしまって離れない、私が私を守るための呪文。

 これまで築いて来たものをいっぺんに壊されたような時、自身を否定された時、初めての事に上手く対処出来なかった時、自分の選択が間違っていたことに気づいた時、黒い何かで自分を一突きしてやりたくなる。

 笑われる前に消してしまいたくなる。

 高鳴ってうるさい心臓あたりを、黙らせるように背後からざっくりと串刺しにしてやりたくなる。

 そうでもしないとおさまらない。

 そうでもしないと上手く取り繕えない。

 平然を装う為に自分を殺す。

 そうやって顔をたくさん作って生きて来た。

 そんな今までの自分を否定する自分自身の行動や心の動きに、頭がついていかない。

 誰にも気に止められずにいる事が、私にとっての正義だった。

 その他大勢の一人になる事が、私にとっての自由だった。

 それなのに、今朝のたった数分のやり取りだけで浮かれていた自分に気付き、急に恥ずかしくなった。


 わくわくしていた。

 本当はちょっと、ドキドキしていた。

 だから、逃げ出したかった。








 一気に体力を奪われたし、駅前から離れたくなったので、街外れの図書館で長編ファンタジー小説を読み耽って異世界にまで意識を飛ばしたものの、閉館まで居座ってもまだ街の中を歩く気になれず、古い小さな映画館ですぐに入れる映画を二本見た。

 人に紛れていたいのに、人と関わり合うのは嫌なのだ。

 映画館を出る頃、辺りはもう真っ暗だった。

 朝は動いていたはずの腕時計は、いつの間にかくっついているだけで時を刻まないアクセサリーと化していて、入口で時間を確認すると、最終のバスはとっくに行ってしまっていた。

 普段当たり前に出来ているような、時間の配分とか状況の判断とか、そう言うことがことごとく出来なくなっている事に焦りが出始める。

 体も、その体を運ぶ足も、気持ちも頭も、全部が重たかった。


 何か別の手段を考えながら駅前へ向かう途中、今度は信号待ちをして居た横断歩道の向こうで、同じように信号待ちをしている中年男性と目が合ってしまった。

 終電間際の帰宅時間帯、スーツなのに鞄も持たず、半袖なのにネクタイをキッチリ締めてジャケットを小脇に抱えた、ちぐはぐな人だ。

 ぼんやりとした印象の割に、確実に目が合っているのに逸らしもしない、妙な気の強さを感じた。


 また、印象に残る。

 やめて、もう誰も見つけないで。

 ひとつうまくいかないと、みんなうまくいかない。

 厄日。

 暗い気持ちはどんどん増して、頭の中に酷い騒音と幻聴までもを生み出す。


 良い気がしなくて視線を逸らしたら、もはや目印のように周りから浮いている「その人」を、今度は自分から見つけてしまった。

 まだ居た。

 『彼』だった。

 背の高さを生かして、キョロキョロと何かを探している。

 

 そして、目が合った。


 彼の口が「あ」の形になる所まで見て、点滅しだした反対側の横断歩道を全速力で駆け抜け、私はまた逃げた。

 見つかった。

 最低だ。

 もう嫌だ。

 羽根を伸ばすつもりが、こんなにも不愉快で息苦しくて、これ以上私が私で居られなくなるのはごめんだった。

 今日は何かがおかしい。


 どうかしてる!


 夜が更け、人影もまばらになった街の中をデタラメに走り回った。

 今自分がどこに居て、どこに向かっていたのかも定かではない。

 ただ、逃げたかった。


 夢中で走り回っていたらじっとりとして重たい夜の空気が、嫌な気配を運んで来た。

 肌寒さを感じた頃にはもう遅く、背中に冷たいものが当たった。

 それは尖った黒いものではなく水滴で、ひとつ、またひとつと数を増やしては、瞬く間にごうごうと音を立てて襲いかかってきた。

 背の高いだけのビルは何も防いではくれなかったが、暴れる心臓と落ち込む気持ちを相手にしながら走れるほど私の体力はもう残っておらず、せめて人目を避けるために逃げ込んだ。

 走る間に髪は解けて、靴も壊れて、服も体もずぶ濡れの泥だらけ。

 あまりにも酷かった。

 こんな姿じゃあ、もう何処にも行けやしない。


「しにたい」


 もうすっかり何をする気にもなれず、地べたにしっかり座り込む。

 ぬるい水の粒が髪から頬に流れていく。


 「最悪」としか表現できないこの状況で、私はまた〝見つかった〟……。

 

 悪い事は重なるものだ。

 今日は厄日。


 それは背の高い、黒い服の男で、声をかけながらゆっくりと私の手を取った。

 初めこそ優しかったが、何を問いかけても反応しない私に腹を立てたのか強引に腕を引かれ、隙間から引き摺り出された。

 気付けばそこには黒い男が何人も居て、口々に話しかけてきているのに、何故か雨音にかき消されてよく分からなかった。


 もう駄目だ。

 なんなのもう。

 もうどうにでもなれ。

 どうにでもして。

 いっそ、本当に……





「おやめなさい」





 土砂降りの雨の中、凛として妙に響く声が辺りにこだまする。

 コツコツと高いヒールの音が、地面を伝って私に届く。


「何してるの、離してちょうだい!」

 頭の上で、美女が喚いている。

 携帯電話をふりかざし、それはそれは猛烈な剣幕で怒っている。

 まるでその声が合図になったかの様に、さっきまで人っ子一人歩いて居なかったはずの路地に視線が増えて、黒い男たちはそそくさと散って行った。


 ぼんやりとその光景を眺めて居た私の頬を、柔らかい手が包んで撫でる。

 十二センチはありそうな飾りのない黒いハイヒールで器用にしゃがみ、目の前には視界に入りきらない大きな胸がこぼれそうになって迫る。


 そのご自慢のボディやドレスが濡れるのも厭わずに、いきなり彼女は私を抱きしめた。


「こんなに濡れて、可哀想に。もう大丈夫よ。怖かったでしょう」

 耳元で囁かれた優しい声と言葉が、疲れ切った私の中に入り込んで、温かく染み渡っていく。

 身体中から力が抜けて、座位を保つ事が厳しいくらい、体が震えて止まらなくなった。

 息を上手く吸うことも吐くことも出来なくなって苦しがる私を、彼女はしっかりと抱きながら、絶えず声をかけ続けて撫でてくれた。


 私、怖かった。

 でも、もう大丈夫。


 彼女の言葉と自分の体の反応が、つかえていたもやもやを消してくれたみたいに、私の体の中で迷子になっていた音や感覚が戻ってきた。

「大変だったわね。疲れたでしょう。ひとまず、うちにいらっしゃいね」

 彼女は私を知っていて、私も彼女を知っていた。

 私は、彼女に全て任せる意思を示そうと、今できる全ての力を込めて、頷いた。



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