Shape of My Heart
老いも若きも、車がなければ何処にも行けない田舎の山奥から、歩いてバス停まで小一時間、そこからバスに揺られてさらに小一時間。
終点で降りたそこは、この辺りでは一番活気のある街だ。
小学生の頃兄と姉に連れられて来方を覚え、二人の目が離れてからは、毎週末一人でやって来ては入り浸っている。
長期休みともなれば、自宅に居るよりもっと長い時間を私はここで過ごす。
例によって両親は放任主義。
共に働いていてそれぞれ忙しく、帰る時間もバラバラのため、家族は各自勝手に生活している。
私がこうして毎日バカ高い田舎の交通費を切り出して遊び呆けていられるのも、学用品だけでなく食費や生活費も含めた同世代よりだいぶ多い〝お小遣い〟のおかげなのだ。
手間こそかけないが、お金だけはかけてくれているのでありがたい。
なんでもお金で買える時代だ。
一番古い記憶の中でも、私の子守は兄と姉の仕事だった。
気の弱い兄は優柔不断でいつも姉の言いなり、責任感が強い姉は完璧主義の自己愛者だったので、二人の前では聞き分けの良い妹を演じていれば兄妹仲良く平和に暮らせたし、特に問題行動も起こさず、学校でも適度に友達を作って真面目な子を演じていれば、大人は誰も文句を言わない。
そのため休日になると、羽根を伸ばしに街へ出たくなる。
ここで出会う人たちは、皆私など見ていない。
どこで会おうと、何をしようと、覚えてなどいない。
嘘で塗り固めた自分の生活の中、一人で街をふらつく間は、私は私で居られる。
特に欲しいものがある訳ではない。
これといって趣味もない。
食べる物は、多忙な両親が大量に買い込んで忘れている物を期限を見ながら片付けなきゃいけないし、身に付けるものも、流行り物好きな姉からのお下がりが次々来てはたまっていて、自分で買った事はほとんど無い。
綺麗な言葉にするのなら、ときめくものを探している。
私が誰にも配慮せず、心に響くものや好きだと思えるものを見つけて、本当の自分を探している。
その中で見つけたもののひとつが、ハイヒールだ。
最初は低い身長を誤魔化すためだったけど、歩くのに慣れたらコツコツと鳴る踵に高揚感を覚えるようになった。
真面目な女学生には不似合いなこの靴で普段抑えている自分を解放し、ちょっとだけ背伸びした私になる。
何とも言えないこの音が、私は大好きなのだ。
今日は、私の誕生日。
夏休み中に訪れるからこそ成り立つ、完全なる「私の休日」。
毎年この日だけは、自分に何かご褒美をあげる事にしている。
そうは言っても、前述の通り大した趣味も欲もないので成功した事はあまり無く、例年通りいけば、最後の最後になって形式的にケーキを買って食べる事になるだろう。
それもまた一興と、とりあえずはお気に入りの服を着て、いつもよりしっかりめにメイクをし、髪も軽くセットして、大好きな音のするヒールで朝一番に家を出た。
まだ人出もまばらな街の中、真夏の朝の一瞬の涼しさを堪能する。
遠くに香るバターの匂いに、パン屋さんなら開いているのではないかと読んで、朝食を買うために最初の目的地を決めた。
今日くらいは、お店のオーブンで焼かれた出来立てのクロワッサンを食べたって良いじゃない。
だって誕生日だもの。
うきうきと歩を進めていると、聞きなれない音に足が止まる。
それは柔らかなギターの音色、そしてそれに負けてしまいそうなほどの、小さな小さな歌声だった。
駅前のタクシー乗り場付近の大きな歩道のすみには、植木で囲まれたちょっとしたスペースがある。
そこには公衆トイレと灰皿があるので喫煙スペースとして仕切られているのだと思われるのだが、この木陰の冷んやりとした石のベンチや木の隙間を通り抜けていく風はとても気持ち良く、私の夏のお気に入りの場所のひとつでもあった。
植木の壁を回り込みそっと覗いてみると、まさにそのお気に入りのスポットに、細長い男性が一人、真夏だと言うのに上下共に黒い服を着て、真っ白なギターを抱えて座っていた。
私は少し、身構えた。
この街で〝黒い服〟を身に付けることは、若者達の間では特別な意味がある。
昨今この田舎街にも、カラーギャングと言うものが存在していて、そのカラーは〝黒〟なのだ。
大抵は大人数で屯ろしたり、改造した車やバイクで街中を走り回ったりする程度の集団ではあるが、もちろん中には本当に犯罪に手を染めたりする人間もいて、真面目で臆病な青少年達にとってはなるべく関わり合いたく無い存在だ。
だから皆こぞって色のついた服を着て、私みたいな奴は特に気を使い、差し色にさえその色を選ばないようにしているというのに……彼は全身真っ黒だった。
まだ早い朝の時間帯、日曜日だと言うこともあり、出勤前の一服をするサラリーマンも居ない小さな広場で、彼は一人、哀愁を帯びた儚い言葉を紡いでいた。
長い前髪で顔は半分隠れてしまって居るが、体は規則的に上下し、色のない薄い唇は確かに動いているので、間違いなくそれらは彼から出ている音たちだろう。
怖い、はずの相手だが、何故か興味がある。
スリルを求めて近付きたいわけでもなく、または恐怖を感じて立ちすくんでいる訳でもない。
ただ、呟くように小さいのにギターの音に紛れる事なく、少し離れた場所から見る私にもその歌詞の内容が聞き取れるほど良く通る、低く甘く掠れた声が、どうにも耳に心地良かった。
まるでバックグラウンドミュージック。
切り取られたように、そこだけ世界が変わって見えた。
白くて長い指は滑るように弦を撫でて、はっきりとした綺麗な音を響かせる。
組んだ脚はすらりと長く、時折風に揺れる癖毛は柔らかそうで、まるで絵画のようだ。
〝ギャング〟のような厳しさも、いわゆる〝不良〟のような軽薄さも、そこには感じなかった。
「レオン」
パッと頭に浮かんだ映画のタイトルをそのまま口に出してしまったその時、ふと、狙ったように強めの風が吹き抜ける。
まだ弾いている途中だったのに、前髪でくすぐられた彼の顔が上がり、目が合った。
大きく胸が跳ね、時が止まったかと思った。
その白い肌と、目と近い整った眉、すらりと通った鼻筋、それを全てバランスよく収めた小さな顔によく似合う深いグレーの瞳が私を捉えて、私は息の仕方を忘れてしまった。
吸い込まれてしまいそうなほど神秘的で美しい、冬の空のような色。
「あ、ごめんなさい」
「ああ、待って!」
手を止めて、しっかりと目が合ってしまったので、咄嗟に謝罪して逃げかける私を見て、彼が慌てて声を張りあげた。
日本語だった。
「うわ、わ、どうしよ。わぁあぁぁ……」
驚かせてしまったのか、彼は情けない声を上げながらあたふたと色んな所に手を置いてみたり立ち上がってくるくる回ったりとせわしなく動き出した。
「せっかく、せっかくやのに……もっと可愛いやつ歌ったら良かった」
ぶつぶつとした独り言さえはっきりと聞こえてしまい、思わず「ふふっ」と笑うとびっくりしたように目を見開いてこちらを見て、真っ白いギターの後ろに隠れた。
「すみません、お邪魔してしまって。すぐ行きますから続けてください」
「全然です!むしろ、聞いてってください!」
去るつもりが、打って変わっていきなりの元気な大声に、また笑ってしまった。
私が笑うと、彼はまた目をまん丸にしてきょとんとしてから、口を大きく横に広げて「へへっ」と笑い返してくれた。
立ち上がるととても背が高いのに不思議と威圧感は無く、人懐こくて可愛げのある、大きな犬みたいだと思った。
「よくこちらに?」
「えっと、時々?今日は久しぶりに」
「そうなんですね。じゃあ、私はラッキーだったのね」
「ラッキーなのは、僕の方です」
他愛ない会話をする間、彼はずっとふわふわと笑っていて、自分のカバンやギターケースを地面に放り、私の座る場所を作ってくれているようだった。
全身真っ黒なのに、良い意味で違和感を感じない、街行く異質な黒尽くめ達とは違って見える。
むしろ優しくて、瞳の色や言葉のイントネーションから、この街の色事情を知らない旅行者ではないかとも思った。
しばらく見ていると、彼は嬉しそうにカバンから小さな紙袋を見つけて、私にくれた。
「私に?」
「はい。ずっとお渡ししなきゃと……」
受け取って、尋ねたその直後、彼の返答を遮るように、ベンチに置きっぱなしにされていた携帯電話が爆音で鳴り出した。
うっかり見えてしまった画面には、『ティファニー』とカタカナが並んでいて、さっきまで人懐こい顔をしていた彼の顔がサーッと青ざめて行く。
それと同時に、くりくりとしていたはずの瞳が急に陰り、口角が下がって舌打ちまでした。
「どうもありがとう。ごめんなさい、行かなきゃ」
見てはいけないものを見た気分になり、受け取るだけ受け取って、私は逃げる様にその場を去った。
不思議な体験をした。
私は特別美人な訳でもスタイルが良い訳でも無く、いつもそれなりの服を着てしれっと街に溶け込む事を良しとしている様な人間なので、こうして人に声をかけたりかけられたりといった経験が無い。
なんとか切り抜けたけれども、正解がわからないのでなんとも落ち着かない。
日はすっかり照り始め、じわじわと込み上げる居心地の悪さに目を伏せる。
特別な朝になった事は、間違いなかった。
渡された紙袋は、長方形の封筒のような形の袋を綺麗に半分に折りたたんで、律儀に端っこがテープで止められていた。
手のひらに収まるサイズ感で、中には少し硬い何かが入っているようだったが、彼の服装や挙動の怪しさから事件性が拭いきれずに、開封を躊躇ってしまう。
ほんの少しだけ勇気を出し、折り目を広げると、隙間から一枚のカードが落ちた。
それはくたびれて折れ曲がった小さな厚紙で、どうやら『café&bar soleil』という店の名刺のようだった。
簡素ながらご丁寧に付いていた地図によれば、私があまり行かない繁華街の中にあり、紙からはタバコと香水の匂いがする。
多分、まだテープが止まったままの紙袋の隙間から落ちた所を見るに、本題とは別に、偶然彼のカバンの中で紛れ込んでしまったのだろう。
肝心の営業時間が曖昧になっているが、ランチタイムがあるらしいので「カフェ」というのもあながち嘘では無さそうだ。
オシャレなロゴの隣に描かれた、どこか愛嬌のある手書き風の白いピアノの絵がなんだか可愛らしい。
ピアノの生演奏なんかが聴ける店なんだろうか。
カフェの時間ならば私も行けるだろうか。
しかし、わざわざそんな飲み屋街の中にあるような店である。
もしかしたらすごくお高いかもしれないし、特殊なサービスが付いてくる店かもしれない。
まだ思ったことなど何ひとつ実行できないでいるくせに、私の頭の中は忙しそうに回り始めた。
そこに行けば、また彼に会えるのだろうか。
いくら彼が柔和な笑顔を持っていたって、最後の豹変のせいで黒い色の服が持つ疑いが晴れきらない。
刺激は欲しいが、決してアウトローな道を求めている訳では無い。
それなのに、何故か気になってしまう。
跳ねたきりなかなか落ち着いてくれない胸の鼓動に、少し焦る。




