罪と罰
マスターは一体どんな顔をして出て行ったのか、ドアを開けた瞬間ぴりりとした空気が入り口に集中して視線が痛かった。
しかしご機嫌なマスターが入ると、それも一瞬の内に解けた。
人が増えて、パーティの準備が着々と進められ、そこら中がキラキラしている。
いつもとは少し違う、けれども決して不快ではない、そんな特別な空間が、今日も私を迎えてくれた。
先程は特に何も無かったポールもここでは熱く歓迎をされたので、私がすぐにティファニーさんによって遠くまで引き剥がされても満足そうにしていた。
目をきらきらと輝かせ、口を目一杯横に伸ばして、私への興味は更に湧いてしまった様だった。
噂の彼は、何故か顔中湿布やら絆創膏やらを貼り付けて、店の床に正座させられていた。
注視してはいけないような気がして目を逸らしたが、ソレイユの住人達によって私はすぐ目の前まで連れて行かれてしまった。
マスターも言っていたが、私は怒って良い側に居るんだそうだ。
リュウは、目を伏せたまま、今にも泣き出しそうな顔をしている。
どんな言葉で責められてどんな思いをしたのか、分からないし分かろうとも思わないけれど、反省は十分過ぎるほどした顔だった。
目線を揃えるために身を屈めると、競うように頭がどんどん低くなり、最後は額がしっかり床に付いてしまった。
土足で歩く床の上で大の男が土下座する姿は、初めて見たけど、正直気分のいい物では無かった。
「ごめんなさい……」
子供みたいに、赤い目を更に潤ませて、小さく小さく絞り出した声で謝られた。
それじゃあ、まるで私が悪者みたいじゃないか。
「私も、ごめんなさい」
同じくらいまで頭を下げようとしたら、両脇から止められた。
なので顔は上げずに、そのまま喋った。
「なんで?」
「ギターの事は、マスターが許しているのに私が怒れる訳ない。リュウを怒らせるような事をしたのは私だし、なのにこんな顔させて、だから、何を謝られているのかわからないの。バカでごめん」
最高に困った顔をしてリュウはそれ以上何も言えなくなり、周りの空気まで、なんだかどうしたらいいかわからない感じになってしまった。
「帰って来てくれて良かった。嫌われちゃったと思ったから」
怒れる人が私だけなら、私は笑っていれば良い。
私が笑いかけると、絆創膏で上手く笑えないのに一瞬だけ目元が緩み、激しめに首を振って返してくれた。
勢い良く左右に揺れる頭を掴んで止めたら、思いの外髪の毛が柔らかくふわふわしていてびっくりした。
しばらくもしゃもしゃと堪能していると「その辺にしてあげな」とルルに止められた。
リュウは、髪をボサボサにしてまた頭を下げてしまい、恥ずかしくて上げられないのか、両手で顔を隠してぷるぷるしていた。
私の知っているリュウだった。
これでいい。
すれ違いが起こした事故。
何かの間違いだった。
黙ってたら分かんないよ。
大丈夫、これでゆっくり元に戻って、みんなでまたにこにこできる。
「さあ、アンナ。私のギターを届けてくれたお礼だ。好きなだけ我儘を言いなさい」
「働かせてください!」
「そうか、それはありがたい。じゃあ早速ごはんを食べよう」
静かに眺めていたマスターも納得したのか、優しく声をかけてくれた。
それをきっかけにしたかのように、次々と私に声がかけられた。
歓迎と、労りと、今日の始まりとこれからのご挨拶。
笑って甘えて輪に入れば、いつも通りがやって来る。
今日の朝ごはんはヴィヴィ特製のホットサンドとかぼちゃのポタージュ、デザートにはアップルパイがある。
小ぶりなサイズで、カスタードと赤ワイン煮のリンゴが入った、まん丸で可愛いソレイユのアップルパイは、私が店に来てから作られた。
私がここで初めて食べたリンゴのシロップ煮と、あれから好物になったプリンが合体した私の大好物で『アンナのパイ』と呼ばれている。
「アップルパイ、おやつの分もある?」
「あるよ。アンナちゃんのために作ったんだから、安心して」
今日私が帰って来る事を、望んでいてくれた人達がいる。
それが、ただ嬉しかった。
荷物を置きに行く為に階段を一段抜かしで上り始めたが、ふと違和感を覚え、途端に足が重くなった。
見上げた先には、リュウがいた。
その先をティファニーさんが上って行くのだから、当然といえば当然で、それが普通だ。
良く出来た彼は、女性の下を行く。
歩く時だって、歩幅に合わせてあえて少し後ろを歩くのだ。
二人で居る時は、私にだってそうして来てくれた。
もう一歩、そしてまた一歩と踏み出してみるけれど……階段の先、長い裾をつまみ上げながら上っていくティファニーさんの足元を見て、私の足は止まってしまった。
プラダの黒いハイヒール。
黒いハイヒールなんて多くの女性が所持しているし、ティファニーさんに至っては何足も揃えているありふれたものなのに、並んで先を行く二つの背中を、私はそれ以上追いかけることが出来なかった。
その靴の金のロゴを、私は昨日リュウの家の玄関で見た。
あの部屋に居たのは、ティファニーさんだった。
意味が分からない。
それならば、昨夜リュウを見つけたのも、今朝リュウを連れて帰って来たのもティファニーさんだ。
私がどこに何をしに行ったのか知っていたのに、ここに来るまで私は何も知らなかった。
知らされもしなかった。
ティファニーさんが一緒だったのに?
わからない。
どうして?
怖い。
今の今まで、狙うだけで決して私を貫く事の無かったモヤモヤが、遂に形を作って武器になり、昨夜私を襲った絶望が、力を増して私に再び襲い掛かってくる。
あの部屋に居たのは、ティファニーさんじゃ無い人だと思っていた。
だからリュウは、私に見つかってあんなに怒っていたのだと。
私が喋るんじゃないかと思って。
でも私が来る前にもう全部バレちゃってて、散々怒られたからあんな顔をしていて、そこまで怒れるのもティファニーさんだけだし、私がリュウを迎えに出た事はみんなが知っていたはず。
分からない。
全て知ってるティファニーさんは、どうして何も言ってくれないの?
焦慮、怒気、嫉妬、慢心、憂愁、寂寥、無恥、憎悪、後悔、屈辱、恐怖。
ぐしゃぐしゃして真っ黒だった頭の中が、あっという間に真っ白になった。
「s……」
死にたくなった。
なにもかもから、逃げ出したくなった。
何の役にも立たないくせに、私だけ特別扱いしてくれていると何を勘違いしていたんだろう。
並んで歩くその隙間に、どうして入れるものだと思っていたのだろう。
何のためにここまで来たのか、それさえ忘れてしまう。
鼓膜の奥に心臓があるみたいに、頭がうるさい。
更に遠ざかって行く足音に怯え、一歩引いた私の足は、階段の一つ分さえもう見計らう事が出来ず、体が大きく傾いて視界から二人が消えた。
鈍い音がした。
鼻の奥にツンとした痛みを感じながら、私は一階の廊下に放り出された。
周りには沢山の足音、大声、顔の横には足がたくさん。
そんなに、上から見ないでよ。
「……痛い」
落ちたら痛い。
覚悟をしたって痛いものは痛い。
言い訳とか強がりとか、おどけてみせる顔の準備とか、そんな物が出るより先に、次から次へと何かが溢れて床に落ちた。
ぱたぱたと音を立てて、赤い何かと黒い何かが、止まる事なく床にシミをつけていく。
ああ、そうか。
昨夜、私に聞こえた音はきっとこれだった。
なんだか張りのある、薄い膜で覆われた物体に、尖った物が刺さった感じ。
きっと中身は粘性の液体で、最初の穴を始点にどろどろと出口を広げて流れ出て居た。
一度壊れて溢れたものは、止まる事を知らずに私の身体中に満ち、ついに大嫌いな水の粒になって外にまで出てきてしまった。
もうだいぶ満ち足りていたものを、もっともっとと欲張ったから壊してしまった。
向けられる声を聞かないように、両手で耳を塞いで、目の前の裏口から走って逃げた。
恥ずかしくて、格好悪くて、居た堪れなくて、入る穴を探しに逃げた。




