サイレント・イヴ
辺りは酔っ払いか不良くらいしか居なくなってしまって、私はソレイユに電話をかけた。
「アンナ、どうしたの?」
電話に出たのはエルメスだった。
「リュウ帰ってる?」
「帰ってないけど……アンナ、今どこに居るの?」
「ありがとう。確認する」
エルメスの話を遮って言いたい事だけ言って電話を切り、タクシーに乗った。
行き先はソレイユでは無く、リュウの家だ。
ソレイユ以外に彼が「帰る」のは、そこしかない。
どうしても会いたかった。
「お泊まりの準備を忘れたので一度帰ります。明日会えるのを楽しみにしています」
タクシーの中で電話をかけたが、珍しくティファニーさんにもつながらず、寝ているかもしれないと思ってメールを送っておいた。
久しぶりに訪れたアパート。
外から部屋の窓を見ると、カーテンの隙間から灯りが漏れていた。
ほうっとついたため息が、白く形を作って流れて行く。
何があったのか、何を思ってこうなったのか、それは本人に聞けばいい。
迷う事なく、インターホンを押した。
しかし中から人の音も気配もするのに、出ては来ない。
もう一度押して耳をすませば、中ではシックなジャズとシャワーの音が響いていた。
それでは出て来られないのかと思い、身を引きかけた時、乱暴に近付いた足音がドアを開けた。
シャワーの音が鳴り続けている中、開くはずのないドアが、開いた。
そこには、光を失ったグレーの瞳が、私を見下ろして睨みつけていた。
声が出ない。
機嫌が悪そうで、具合が悪そうで、不快感を全面に押し出して危うさを感じさせる。
私の知らない、リュウだった。
一瞬見開かれたと思ったら、次の瞬間に、ドアは閉じた。
「最悪」
低く、枯れて、酷く冷たい声。
聞き取れたのは、拒絶の言葉。
続け様に何度も、何度も、棘のある言葉と唸るようなため息に、罵声まで響いた。
それを聞いて、それ以上は聞かないように言う事を聞くしかなかった。
足はもう後ろ向きに進んでいた。
リュウがドアを開けた時、湿気と暖房ですっかり温まった空気と共に、知らない匂いが溢れ出た。
無機質なリュウの部屋に不似合いな、ソレイユとは比べものにならない、むせ返るほど濃くて下品な……お酒とタバコの臭い。
髪は生乾きのぐしゃぐしゃ、ズボンもまともに履かず気の抜けた服、私が貸したマフラーは玄関のたたきに半分落ちて踏まれていたし、すぐ横には黒い高そうなハイヒールがひとつ並んでいた。
そりゃあそうだよ、分かるよ。
私なんかが踏み込んでいい場所じゃ無い。
出来る限り静かに、息さえ殺してその場を離れ、携帯電話とライターは、入口の集合ポストに入れた。
ゴトンと落ちる金属音に紛れて、私の中で何かが弾けた。
弾けたのか、壊れたのか、折れたのか、切れたのか、よく分からないけど何かが起きた。
コートで巻いたギターケースを両手でしっかりと抱えたまま、すれ違う人に振り向かれ、時にぶつかりそうになって頭を下げながら、走れるだけ走った
乱れる鼓動は、走っているせいにしたかった。
走るのに疲れたら少し歩いて、どうせ息は整わないからまた足を早めて、私は無我夢中で家に帰った。
ケースは開いて乾燥させて、本体は今一度丁寧に拭き上げて、スタンドにかける。
これはマスターの大切な物だから、粗末に扱ってはいけない。
そう思ったことはしっかり覚えていたから、すぐに行動した。
呼吸は荒く、脈は暴れて、身体中が悲鳴を上げていた。
頭がガンガンする。
意識が朦朧とする。
転んだせいか、電池が切れたか、私の携帯まで画面が真っ暗になっていた。
今は誰の声も聞きたくなかったし、自分が理路整然と言葉を発する事さえ自信が無かったので部屋の角に投げ捨て、すぐに濡れた服をまとめてシャワーを浴び、湯船にまで浸かった。
夢と現実の区別が付かない時間帯、くちゃぐちゃとした頭の中はいっそ真っ白の空っぽにしてしまえと、髪も体も身体中びしょびしょにしてみたけれど、死にたくなっただけだった。
「嘘じゃん」
「嫌なもんも、汚いもんも、風呂に入ればみーんな綺麗さっぱりや」
頭の中に響いた声が記憶を呼び覚まし、もやもやしたものを一層黒く大きく育てて私を攻撃する準備を着々と進める。
確かあれは、雪の日に生きる糧を失って絶望していた私にかけられた言葉だった。
体に触れていた大きな手も向けられていた表情も、一緒になって呼び起こされて、さらにそれがまた違う記憶を連れ出して、私の中を抉っていく。
眠ってしまえば何も考えずに済むかもしれないと、大好きなもので布団を埋めて横になってみたけれど、今日ばかりは夢にすらも出来なそうだった。
そうか、私がソレイユに行くようになって深く眠れるようになったのは、充実した一日を過ごした上で、明日に希望を抱きながら、眠る間さえも安心できていたからだったんだ。
次に会う時も、きっと笑顔で迎えてくれると。
*****
朝が来て、両手が空いて荷物が沢山入るから選んだリュックと、濡れても良くて歩きやすい靴、雪を弾く素材のジャンバー。
片手には重たいハードケース、もう片方には二重になった本屋の紙袋。
中には、借りたまま洗えなかった、クリーニングに出すための誰かの服が入っている。
そんなデザインよりも機能性を重視したちっとも可愛くない格好で、始発のバスに乗った。
行く場所はもう決まっているから、人に紛れて街を歩く為に背伸びをする必要も無ければ、バスを降りても、私を待つ人は居ないのだ。
それでも行くのは、これ以上約束を破らない為。
迎えに行くために出て行ったのに、連絡もしないまま粘って結局連れて行けなかったお詫びをする為。
ティファニーさんに会いに行く為。
マスターのギターを届ける為。
パーティで一曲って約束した。
ドレス着たい。
みんなと一緒に歌いたい。
一人でも待っていてくれる人がいるのなら、会いに行きたい。
出歩く人も少ない、週末の朝の街は、天気のせいもあってかまだ薄暗くて肌寒かった。
バスの中ですっかり気の緩んだ体に、棘のある風ががら空きの首元から体温を奪っていく。
ターミナルビルの入口に設置された巨大なクリスマスツリーを見上げて、青になったばかりの横断歩道を小走りで渡ったら、硬い道に当たる柔らかい靴底が、ぱたぱたと頼りない音をたてた。
振り出しよりもずっと前に戻った気分。
誰もいない朝の喫煙所で、私はマスターのギターを出した。
昨日の夜から一言喋っていないから、店に着いてもいきなり声が出る自信がなかった。
行く前に、自分を取り繕って『アンナ』になるために、ソレイユで覚えた冬の歌を弾き語る。
小さく小さく、呟くように。
そしてちょうど終わると言う頃、狙ったようにちらちらと粉雪が舞い始めた。
どうりで寒い訳である。
「Bonjour,mademoiselle」
天を仰いで雪を眺め、慌てて帰り支度をしようとケースを開けた時、不似合いな呼びかけを耳にした。
聞き慣れない言葉なのに妙に良く届く声につい顔を上げると、真っ直ぐこちらを見つめて見知らぬ紳士が立っていた。
小洒落た羽根つき帽子に仕立ての良いコート、シンプルだが高級そうなステッキ、丈の合ったパンツは綺麗にプレスされ、靴もピカピカだった。
見回せども、他にマドモアゼルが見当たらなかったので、恐る恐る私が自分を指差すと「oui」と返された。
「ごめんなさい、日本語しか喋れないの」
「ご安心下さい。興味を引きたかっただけです。私も普段は日本語を使います。もし宜しければ、今しばらく貴女の歌声をお聞かせ願いたいのですが、チップはどちらに?」
老紳士は穏やかな笑顔を浮かべ、帽子を取って恭しく頭を下げる。
その髪は、まるで月の光で染めたような、見事な白髪だった。




