Les Champs-Élysées
冬休み直前の三者面談で、私は志望校を変更する旨を伝えた。
もちろん、受験に向けて本格的に心の準備をする為の儀式の様な場で、もう言う事を決めて待ち構えていた担任は言葉を失い、同席した母は「はあ」と腑抜けた返事をした。
これまで頑張らなくても行ける所で、家から近くて、同じ学校から行く人も多くて、普通にしていれば卒業出来るような所を志望していた。
叶えば何処だって良かった。
でも今はどうしても行きたいところが出来てしまって、そこ以外に考えられないので素直に伝えたまでの事だ。
新たに希望した行き先は、県内でも指折りの進学校。
目立って悪い所も無いが飛び抜けて成績が良いわけでも無く、無遅刻無欠席くらいしか取り柄の無い私に、担任は優しく柔らかく今まで通りを勧め、高みを目指して落ちてグレてしまった娘を持つ母は遠回しに反対したが、私は一歩も譲らなかった。
珍しく言う事を聞かない私に大人達はすっかり諦めて口をつぐみ、家族でさえどう接して良いか分からず、その日から今まで以上に放ったらかしてくれた。
私だって別に、大学進学に有利だとか、有名校のブランドだとか、姉への当てつけや両親へのアピールの為に意地になった訳では無い。
もう私の心はそんな方へ向いていない。
最初に希望校を決めた時よりもっと単純。
〝マリアンナから見える〟
ただそれだけ。
通学路として真ん前を通るので、運が良かったら会えるかもしれないし、帰りに少し寄って行くことだって叶うだろう。
毎日街に出ることになればソレイユにだって行きやすく、アルバイトとして雇って貰う事だって考えた。
ただ、大好きなものを近くに置きたいと、本当にそれだけだった。
ティファニーさんの秘密を知ったあの日から決めていた。
だから、私生活にちょっと面白いハプニングを体験しながらも毎日机に向かい、担当教師が戸惑うくらい授業に集中し、教科書を見て書いて丸暗記し、問題集に至っては、ページをめくればどこにどんな問題があってその答えが何なのかさえ分かってしまう程繰り返し解いて、今まで余計な所に向けていた集中力を全て注いだ。
そうして真面目な学生・受験生として平日を終えると、週末は羽根を伸ばしに街へ出る。
文句を言う者は一人も居ない。
街へ出て、バスを一歩降りれば私は『アンナ』になる。
行き先は決まっていて、刺激的で甘くて特異、それでいてとても自由な週末が始まる。
あれから最初の土曜日の朝、やっぱりリュウは駅前で待っていた。
冬の寝坊助な朝日が昇ってから目を覚まし、そこから服やメイクにたっぷり時間をかけた私が昼近くに到着するまで、ずっと同じ所で待っていた。
「馬鹿でしょ」
「よう言われる」
「やめさせてってティファニーさんに言っておいたのに」
「言われた」
開口早々無慈悲な言葉をぶつけられ、しょぼくれたリュウはその顔のまま、電話番号は知っているけど「また土曜日に」と言われてしまったし、何度か電話をかけようとしたが、金曜日の夜に思い立った時は「もう寝ているかもしれない」とか、今朝は「もうバスに乗っているかもしれない」とか色々考えていたら〝何時に着くか聞く〟という簡単な事さえ出来なかったとのたまった。
女の子を一人で歩かせてはいけない、それはソレイユのジェントルマン達はよく心得ている。
それに加えて、可能な限り目の届く所に置いておかねば、何をするのか分からないのが私なのだ。
夜道だろうと雪道だろうと平気でぽこぽこ出歩いて、それなのに財布が無くて帰れなくなったり、ずぶ濡れになって困っている事も珍しく無いことは、もうすっかりバレてしまった。
リュウは歩きながら平日の昼間は働き、夜は学校へ行っている事、そして週末や空いた時間にソレイユにやって来てピアノを弾いたり、ごくたまに店の手伝いをしてみたりしている事を教えてくれた。
「やっぱり」
「やっぱり?」
色んな所で、色んな顔を持っている人だった。
それからは、毎週金曜日の夜になると電話が来て、待ち合わせる事が習慣になった。
クリスマスが目前まで迫って来て、私は毎週手の空いている人を誰でも捕まえ、ピアノの練習に励んでいた。
至る所で耳に入るクリスマスソングが頭の中に溢れてしまって延々と鳴り続けるので、排出して容量を空けなければ新しいものが入ってこない。
エルメスは私の知っている映画や懐かしのヒットソングを私用にアレンジした楽譜を書いてくれて、ルイやマスターがその読み方を教え、そしてリュウは何曲でも弾いて見せてくれた。
日数で言えばほんの数日なのだけれど、音楽という新しい趣味を見つけた私の休日はいつも忙しかった。
失恋騒動以来、ココは私をすっかり気に入ってくれたらしく、わざわざ出勤時間を早めて私に会いに来て、たまにギターやサックスを教えてくれた。
音楽に生きる人が大勢居るこのソレイユで練習室を一人占領するような事はもうしなくなった代わりに、女の子たちと可愛い話題に花を咲かせてみたり、雪かき程度の仕事なら任せてもらえるようになったので社会貢献に励んだり、日に一度は街に散歩にも出る。
そして、そうやって朝から晩まで自由気ままに過ごす私のそばには、必ずティファニーさんが居てくれた。
それだけで私はなんでも出来る気がして、実際に色んな事が出来るようになった。
冬の匂いを運ぶ冷たい風を頬に受け、ピンヒールブーツのかかとを鳴らしながら、少し急いで駅前の広場に向かうと、今日もまた周りからひとつ飛び出た頭が、優しい笑顔で迎えてくれた。
「ようその靴で走るなあ。急がんでええよ」
「だってもう居たんだもん。ごめんね、待った?」
「今来たとこ」
お決まりの文句を言い合って、すぐに並んで同じ方向へ歩き出す。
寒いね、せやな。
雪降るかな、どうやろな。
そんななんでもない会話をしながら、同じ場所を目指してゆっくりゆっくりと歩く朝にさえ、もう幸せが溢れている。
「おはよう、アンナ」
とても気まぐれで基本的に寝坊助なティファニーさんは、いつも私が行く時起きていたりいなかったりするのだが、今日はカウンターの隅の「私の席」を空けた一つ手前で身支度をすっかり整え、ご機嫌そうに迎えてくれた。
私は当然のように空けられていた席に着き、にこにこと見守られながらお目当てのベーグルサンドを二つも食べて、熱々の紅茶で頭にエネルギーを送り込む。
今日も、やりたい事が山ほどあった。
この冬覚えたばかりのクリスマスキャロルを一通り弾いて、ティファニーさんは歌を教えてくれて、今日のレッスンは終了した。
お昼を食べ終わる頃にはマスターが休憩にやって来てクリスマスらしい映画を見始めたので、私も一緒に鑑賞させてもらったが、お腹がいっぱいになっていたし、部屋はぬくぬくと温かくて気持ちが良くて、結末を見る前に私は寝てしまった。
実際に寝ていたのは、二十分くらいだったろうか。
目が覚めると、朝からそんな気はしていたのだが、ティファニーさんは出掛けたと聞かされた。
私が思っていたよりも早く起きたので「膝に猫がいるから動けない」と休憩を延ばしていたマスターも仕事に戻り、私は一人取り残されてしまった。
何をしよう。
昼寝も終え、お腹も落ち着いていた私はすっかり目も冴えて、わくわくしていた。
「どこ行くの?」
階段を降りると、ちょうどヴィヴィに見つかった。
「お散歩」
「あら、そうなの。いってらっしゃい。気を付けてね」
口元に指を当て、小さい声で答えたら、ヴィヴィも真似して送り出してくれた。
いつも張り付いているティファニーさんの目が離れるこの時は良いチャンスだ。
今日しか無い。
きっとティファニーさんもそのつもりだったに違いない。




