いつか王子様が
何度か眠り直しながら朝までの時間を潰していたつもりが、気付けば一日の半分以上が過ぎていた。
何事にも適量というものがある。
美味しいものも食べ過ぎたら具合が悪くなるし、睡眠だってちょっと足りないくらいで丁度いい、薬でさえ飲み過ぎたら毒なのだ。
馬鹿にすらほどがあるっていうのに。
充実した日はよく眠れるはずが、後味が悪いと、それを引きずって寝覚がわるい。
重たい頭とすっかり色んな感覚が鈍くなった体を起こして、出掛ける準備をした。
無意識にソレイユに向かってバスに乗り込んだは良いが、よく考えれば外は一面の銀世界、着く頃には十六時を回ってしまう。
行って何が出来ようか。
帰りの心配をされて、早々に退散することになるくらいならと、今日は街へ出るのを諦めて、途中でバスを降りた。
珍しく欲しいものがあり、ソレイユ行く前に買い物をしようと昨日のうちから考えていたので、ティファニーさんにはくれぐれもお迎えなど寄越さないように言い含めておいたし、今日は一人買い物をする日と決めた。
しかし、いくら欲しいものが決まっていても、もともと買い物が得意では無い私にはティファニーさんのような豪快な買い物は出来無いので、本屋だけでだいぶ時間をかけてしまった。
その合間に小さな洋品店や個人の営む雑貨屋さんなどを覗いては、ぼんやりふらふら。
久しぶりの一人の休日、時間の潰し方だけはやはり体に染み付いて覚えていた。
今日も、雪が降っていた。
三件目の本屋を出て、両手いっぱいの荷物をなんとか持ちながら、帰りのバスの時間を調べて待つ。
ソレイユへは行けなかったけれどよく眠ったし、必要なものはだいたい揃える事が出来たので当分自分のために買い物をする必要も無さそうだし、我慢した分来週の楽しみが増えた事でそこそこ満足だった。
しかし、いざバスに乗り込もうとした時に、私はとんでもない事に気が付いた。
財布が無い。
そのままバスを見送って、たいして大きくも無い鞄やコートのポケットを全部ひっくり返して見てみたが、やはり見当たらない。
勢いを増す雪が、体を濡らして冷やし、冷静さを奪って行く。
この上無く大きな黒いもやもやが、一気に押し寄せて私の心を潰しに来たみたいだった。
傘が欲しい、できたらタオルも欲しい、足冷たい、荷物重い、腕痛い、財布があれば全部簡単に解決できるのに、それが無いだけで大変な問題だった。
街へ出るよりは近い、その気になれば、少し苦だが歩いて帰れない距離では無い。
普段から現金以外の物はショップのスタンプカードすら持ち歩いてはいない。
財布本体だってようは使えればいいので特段愛着もない。
つまり、そういう事では無い。
財布は、
私にとってお金というものは、
両親が唯一私に与えてくれている、私が生きていくための糧なのだ。
それを、なくしてしまった。
それは、大変な問題だった。
思いつく限り今日の足取りを順に辿り直し、店員さんに確認したり、歩いた道を携帯電話のライトで照らしながら身を屈めて探し回ったが、何度バス停に戻っても見つからず、そのうち携帯の電池も切れてしまった。
もともとあまり利用しない場所、国道を通るバスの窓から見える所までしか知らない小さな町の中で、ついに私は迷子になった。
コートはすっかり重たくて、髪は芯まで冷たくて、それでもなお、雪は降っていた。
冬も雪も大好きなのに、その静けさと寒さに、一層心細くさせられて嫌いになりそうだった。
すぐに帰る羽目になっても、迷惑をかける前提でも、ソレイユに行けばよかった。
せめて街に出ていれば、昨日教えてもらったばかりの、助けを求める先がいくつもあったのに。
「しにたい」
どうにもならなくなった時、私はまだしにたがる。
せめて大きな道まで出ようと、辺りの音に耳を澄ませた。
道が分からなくとも、車の音の多くする方を目指して運良く国道に出られれば、いつも乗るバスの道沿いに帰り道も分かるはずだ。
細心の注意を払って気を張ると、覚えのあるエンジン音が聞こえた。
こちらに向かって来る、バイクの音だった。
「え……」
昨日の夜から降った雪で道はとても良い状態とは言えないし、日が落ちて更に危険度は増しているにも関わらず、躊躇いなくそれはやって来る。
その場を動かずに道の隅に身を固めていると、こんな天気の中、一台の黒いバイクが勢いよく飛沫をあげて通り過ぎて行った。
心臓が、大きく脈打つ。
通り過ぎたはずのバイクはそのまま転がりそうな速度でユーターンし、今度は私に向かって来た。
真っ直ぐ、私を見据え。
そして、目の前に停車した。
「何してん」
ヘルメットの下から現れた顔に、それまで黒いもやもやにぎゅっと圧迫されていた気持ちが爆発したかのように、私は叫びながらその場にへたり込んだ。
いきなり大声をあげて雪の上に座り込んだ私を気味悪がりもせず、リュウは慌てて抱き上げてよしよしと宥め、そのまま自宅に連れて帰った。
最初の一言以来、私が何故あんな所でこんな状態になっていたのか、リュウは聞いて来なかった。
代わりに労る言葉を沢山かけて、てきぱき世話を焼いた。
謝ってばかりの私に、ええよええよと何でもかんでも与えて甘やかす。
ソレイユで育った人達の特徴が、ここにも色濃く出ていた。
「ありがとう」
「ええよ」
そう言って、ふわりと笑った綺麗な顔さえ、よく似ている。
「リュウを見てると、ティファニーさんを思い出す」
「嫌やわ」
「いつも一緒だもんね。ティファニーさんとお出かけすると、リュウのことよく聞かれるの」
「見張られてるだけや。アンナは何でも知っとるなぁ」
「見たり聞いたりした事しか知らないよ」
「どこまで知っとるん?」
「二人がとっても仲良しな事は知ってる」
「……ティファニーは、俺の事、大っっっっ嫌いやぞ」
「それは照れ隠しでしょ?」
苦い顔でため息をつき、今夜の事も、二人の秘密という事になった。
放漫で強欲、嫉妬深くて自分が一番でないと気が済まない、根っからのお姫様。
それがリュウから見えるティファニーさん。
こんな天気の中大荷物でバイクに乗せたなんて事が知られたら、それこそ一大事な上に無帽運転より命に関わると、怒り狂うティファニーさんの物真似をしながら、私がどんなにソレイユに大切にされているかを教えてくれた。
リュウに会って、最初に心配したのは先日傷を付けてしまった手の事だった。
あまり良くない別れ方をしたあれ以来リュウには会っていないし、連絡も取っていなかった。
それが先程、もやもやそわそわと落ち着けないでいる時に、心の準備もないまま出会したものだから、頭の中が更にごちゃごちゃしてパンクした。
だってもしかしたら会いたくもないくらい憎まれているかもしれないのに、味方のいない街の外で出会ってしまったのだ。
あそこで轢かれてたって、それで気が済むならきっと文句は言わなかった。
私はそこまで気にしていたのに、当の本人は呑気なもので「そんなこと」ちっとも怒って居なかった。
あの時確かに怒ってはいたけれど、私に対してじゃない。
傷が付くほど力一杯腕を取られたリュウには、あの時の私の取り乱し方が誰よりも伝わっていた。
ティファニーさんも怪我をして、マスターにまで睨まれて、焦りと不安で更に増幅した怒りが沸々と湧き上がって吹き出しそうだった。
「アンナがあそこで俺を止めてくれんかったら、俺はもっとアンナに怖がられて嫌われてたと思う。ルイ泣かしてから気いついてん。マスターも言うてたけど、ほんまにアンナは優しいなぁ」
マスターに伝授された必殺技を繰り出すまでも無く、リュウの機嫌はみるみる良くなった。
そして私の胸の内も、すっかりと晴れた。
これもまた、過ぎたことになったのだ。
やっぱりソレイユの力を持ってすれば、どんな事だって、望んだ通りに丸く収まってしまう。
乾燥機の中で服が舞う。
その終了の音を待つ間、自分が水嫌いである事とそのきっかけを話し、だから今日は見つけてくれて本当に良かったと改めてお礼を言った。
リュウは照れくさそうに笑った後、笑い過ぎて両手で顔を隠して震えていた。
いつかルイに聞いたような、我慢してそばに居てくれているようにも、ご機嫌を取るために上辺で笑っているようにも見えなかった。
どちらが本当のリュウであるかは分からないが、今目の前にいる楽しそうなその人を、私は信じて居たかった。
降り止む気配のない雪にリュウは私を送る事を諦め、お互いの安全を最優先した上で、タクシーを手配してくれた。
「これ使たらええよ、ティファニーがくれてん」
財布の無い私のために、自分の財布を丸ごと渡してくるボケを挟みつつ、渡されたタクシーチケットには『マリアンナ』の印が入っていた。
きっと今夜の一件はそのうちティファニーさんの耳にも入るだろうと思ったが、黙っておいた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
なんだかふわふわして、ほかほかした週末が終わった。




