SMILY
服は汚れてメイクも崩れ、気分はすっかり落ち込み切ってしまった。
リュウは黙ってどこかへ消えて、ティファニーさんは徹夜明けだということもあって、今日のデートは延期となった。
店に居座っても邪魔になるし、こう眠る人の方が多くなっては、ソレイユ自体がもう私が身を潜めるのも難しい場所となってしまった。
手当てを終えたティファニーさんがリビングから続くマスターの部屋で眠りにつくのを見届けて戻ると、いつの間にかそこは立派なシアターに様変わりしていた。
ソファの上には、わざわざ用意したのか、紙バケツ入りのポップコーンとドリンク、そしてジャンルも年代もバラバラの映画のパッケージが積まれている。
その他にも、これから映画を見るつもりだと言うのにサイドテーブルには本の山、毛布やらティーセットまで持ち込んで、きっと他にもおやつを隠し持っていそうな謎の箱もある。
新たに部屋が出来ていた。
つい今しがたお邪魔したマスターの部屋も、だいたいこんな感じだった。
秘密基地で遊ぶ子供はきっとこんな顔をしているのだろう、大きなソファの上では、マスターが毛布にくるまって画面からの青白い光を浴びていた。
「必要なものは、手の届く所に置いておきたい性分でね。動くのは苦手なんだよ」
「ここまで集める手間は平気なんですね」
「幸せの為ならね。見ていくかい?」
ゆったりと笑いながら、マスターはお気に入りで溢れたその一角に、私の場所を作ってくれた。
流れていたのはそんなに古くも無さそうな、アメリカの映画だった。
懐かしい感覚に、自然と力が抜けていった。
映画好きだった私の祖父は、子供の相手が苦手な人だったように思う。
姉と私は名前の頭文字が同じなので、家族には度々呼び間違えられては大きい方・小さい方で区別され、祖父は亡くなるまで私を『チビ』と呼んでいたが、まだ大人の目の届くところに居ないと怒られるような年頃の私は、他にあてがない時、よく祖父の部屋へ行って一緒に映画を見ていた。
祖父は祖父で、自分の子供の面倒もみた事が無い為に孫の相手など到底出来ず、もちろんする気も無かっただろうが、自分が好きな事をしている横で、ただ黙って座っている私の事を邪険にはしなかった。
たまに、おつまみも分けてくれた。
それは決まってウィンナーソーセージとか小さなジャガイモとか、電子レンジで温めるだけの簡単な物だったけど、私は喜んで食べていた。
バケツ一杯のポップコーンを私に抱かせ、たまに手を伸ばして来るマスターを、そんな祖父と重ねてしまった。
祖父がどうであったか最期まで知らないままだったが、私は、あの時間が好きだった。
ぼんやりと力を抜き切って、外国の言葉を聞きながら自分を違う世界に連れて行く。
ストローをつけてくれたのは、マスターの優しさだろう。
膝掛けにしていた毛布を半分分けてくれたり、字幕を付けてくれたりと、たったそれだけの小さな積み重ねが嬉しかった。
英語の分からない私にはこれは半分読書であったが、主人公が最後死んでしまう以外は良い映画だった。
「お菓子が足りないね。アンナの分なのに、私が食べ過ぎてしまったか」
映画が終わる頃、バケツの中はほとんど空っぽだった。
渡されたものだからついつい私も当然のように摘んでいたのだが「減ったら足せば良いんだ」なんて言いながら、マスターは箱から新たにポテトチップスを出してどさどさ入れ始めた。
「いっぱいあれば分け合えるでしょう。こぼれるくらいでちょうどいい」
たかがお菓子の話だが、マスターが言うとなんだか深い意味を感じてしまう。
「マスター、どうしてリュウもココもほったらかしなのに、私のご機嫌は取ろうとするんですか?」
「なんだ。気付いていたのかい」
エンドロールを眺めながら、ぽつりと本音を口にする。
「リュウは散歩に行っただけだよ。寒くなったら帰って来るさ。それとココだけど、彼女の場合はご本人の希望だからね。そうしたかったんだろう。おさめておけない気持ちは、出してしまった方が楽になる」
「私もそう考えました」
「じゃあ、やっぱりそれが正解だ。おかげで私も答え合わせが出来たよ」
照明を少しだけ明るくして、マスターはサイドテーブルに準備された、小さなアウトドア用のコンロでお湯を沸かし始めた。
「生憎、女の子のご機嫌の取り方を私はよく知らなくてね。どうか、これでひとつ、笑ってくれたら嬉しいんだけど」
そう言いながら、マスターはたっぷりとした丸いガラス製のポットに毬藻のような球を入れ、沸かしたてのお湯を注ぐ。
球はお湯に転がされてぽかぽか揺れた後、ゆっくりと沈みながら広がって、やがてうっすら色付いたお湯の中で少しずつ花びらをほころばせ、やがて大輪の花を咲かせた。
淡い光の中で揺らめくその花は、光を通した所が透き通り、影まで美しかった。
「良かった。上手くいったみたいだ」
マスターの顔も、満足そうにほころんでいた。
そして、ぽつりぽつりと、本を読み聞かせるように語り始めた。
ココがソレイユに出入りし始めたのは、高校生の時。
何があったのかは未だに明かされていないけれど、片方の頬を赤く腫らしたルルと共に、鼻に赤く染まったティッシュを詰めて、近藤さんに連れられてやって来た。
手当てしてやってくれと頼まれて、エルメスと二人で介抱してやり、仕上がった様子を互いに見てげらげら笑い、夕食を食べて行った。
二人は、それからずっと居る。
怪我はしょっちゅう、今回の様に何かをぐっと堪えた顔で来た事もあったし、他にも沢山お友達を連れて来た事もあった。
その度に、マスターは黙って頷き、したい様にさせて来た。
初めて会った時から、芯の太さと気の強さを感じる子だった。
自分のしたい事がしっかりと分かっていて、それを迷い無く行動に移せる子だった。
そしてたとえばそれが失敗しても、堂々と受け入れて胸を張って居られる子だった。
その潔さには、マスターさえも尊敬の念を抱いている。
だから、ココは大丈夫なんだそうだ。
虚ろな目をしてやって来て、絞り出す様に「音楽室を貸して下さい」と言ったので貸してやった。
ただそれだけなのだ。
マスターは面倒くさがった訳でもほったらかしにした訳でもなく、ココが望んでいたものはもう全て揃っていた。
対してルイは不器用極まり無い子なので、自分の中に収まりきらない感情がある時に、周りを巻き込む事が多々ある。
それは良い事だったり悪い事だったりそのどちらもあるけれど、今回はテンションが上がりすぎておすそ分けに来たようだ。
本人はじゃれているつもりなのだが、猫にじゃれつかれたネズミはたまったもんじゃない。
思った事を思ったまま口にせず、気軽に自分を曝け出さない。
そう言う人付き合いだって大人になればなるほど必要なのだが、そうした付き合いの上で成り立つ信頼関係は驚くほど儚い。
心に秘めておきたい気持ちは、心を閉じなければ隠せない。
いくらこちらが心を開いていようと、届くものが無ければ次第に距離は遠くなり、いつか互いの心は閉じてしまう。
それを、ここの人達は皆良く知っている。
だから敢えて踏み込んでいく。
確固たる信頼があるからこそ、ありのままで、お互いに近付ける。
だからルイの感情の暴走も、どっしり構えて「それでいい」と受け止めてきてしまった。
外ではやらなくなったので安心していたらしいが、私はすっかりその「ぶつけて良い人」にカウントされてしまっていたようだ。
そこで私は、自分の水嫌いとそのきっかけを話し、あの時考えていた自分目線の正直な気持ちをマスターに伝えた。
マスターはやはり知って居たように大きく頷いた。
私が色んなものを飲み込んで我慢をした事は、きっとあの場に居た全員が分かっていたし、だからこそティファニーさんもリュウも、私が欠けたカップを握りしめる前に手を出して力尽くで止めた。
悪い事をしたともされたとも思っていないのに、ごめんなさいと謝られ続けては気分も当然良くなかったろう。
「アンナは本当に良い子だね。話してくれてありがとう」
そう言ってマスターは、私を褒めて、頭を撫でてくれた。
「アンナがせっかく堪えてくれた所申し訳無いが、今回の件について、ルイには説教させて貰うよ。その後のご機嫌取りは任せる」
マスターから、頼み事をされた。
それは、私が自分からマスターを頼り、心の内を明かした事で、受け入れてくれた証だと思えた。
「マスター。男の子のご機嫌は、どうすれば取れますか?」
「ご機嫌な顔で接しておやり。女の子ににこにこされたら、へらへらしちゃうのが男の子だから」
「それ、私にも出来ますか?」
「もちろん」
「それ、リュウにも効きますか?」
「イチコロだ」
ご機嫌を取られたはずの私より、ずっとご機嫌なマスターと再び違う映画を流し見て、とても強力な技なので乱用してはならないという怖そうな前置き付きの「秘奥義」を伝授され、私は帰路についた。
私のご機嫌はすっかり良くなっていたのだが、胸の奥が疼いてしまって、その日ばかりは十二時を過ぎても眠る事が出来なかった。
ティファニーさんとお出かけをする為に自分を着飾った次の日。
朝一番に店に行くと、またルイが出迎えてくれた。
目は赤くも腫れても無ければ潤ってすら無さそうだったけれど、もったいぶってもじもじしながら深々と頭を下げて謝って来た。
試しにあの技を繰り出してみると、効果は抜群だった。
残念ながらリュウはまだ来ていなかった。
「いってらっしゃい」
まるで、私が帰ってくる事を望んでくれているように、今日も魔法がかけられる。
「いってきます」
それに私は、笑顔で答える。
与えられる数に負けないくらい、大きな声で心を返す。




