The Rose
ティファニーさんの指示で、私はリュウに電話をかけた。
ココをベッドに寝かせてやりたいが、眠る成人女性を安全に運べる人間がここには居なかったからだ。
電話は一度では出てくれなかったものの、連続して何度かかけるとやっと繋がった。
「もしもし?」
電話の向こうは無言だった。
「あの、アンナです」
「アンナ?」
問いかけたのに、疑問形で返された。
「はい、アンナです」
しまった、と、背筋を冷たいものが撫でていった。
「ごめんなさい、マスターに番号を貰っていて。ティファニーさんが呼んでいます」
「ああ、はい」
電話はすぐに切れた。
「なんで敬語なの?」
「どうして私のせいにするの」
「なんか、つい……」
ココとティファニーさんがそれぞれに怪訝そうな顔をして、ルイは呆れ返っていた。
自分が知っているから忘れていたが、そういえばリュウに自分の番号を教えて居なかったことを今思い出した。
用心深いリュウのことだ、知らない番号からの電話には出てくれただけで有難いと思わねばならない、マスターとティファニーさんのした事ならば、機嫌を損ねる事は無いだろうと咄嗟に身を守ってしまった。
リュウはすぐにやって来て、簡単に事情を説明すると、私に張り付いたまま眠るココを軽々と抱いて階段を降り、ティファニーさんの部屋まで運んでくれた。
クイーンサイズのベッドは大人が二人悠々眠れるので、一晩中付き合って眠いルルも付き添った。
目が覚めた時、まだ絶望の中に居たとしても、一人で居るよりずっと良い。
第二ラウンドにだって耐えてみせると、ルルはさっきよりずっと頼もしく笑ってくれた。
ティファニーさんとリュウと三人で音楽室に散乱した酒瓶やココの持ち物を片付け、店に降りると、待ち構えていたマスターが美味しい紅茶をいれてくれた。
「おつかれさま。ありがとうアンナ。ご褒美になんでも好きな物をご馳走するよ」
「いつも頂いています」
「今日は見習いの試食や余り物の賄いじゃなくて、本物をお食べ」
今までそうだった事も知らなかった。
渡されたメニューを眺め、真剣に悩んだ末に、私はシフォンケーキを頼んだ。
本当にそれだけで良いのか、足りるのかとヴィヴィに何度も確認されたが、いつも来た時はあるのに帰る頃には売り切れてしまうシフォンケーキは、純粋に食べてみたかった。
ふわふわのクリームがたっぷり乗ったふわふわのケーキは、見ただけでお腹がいっぱいになりそうなくらい幸せな気分になれたし、大きなスプーンで頬張って口の中を甘いもので満たすと、心まで満たされる。
「しあわせ」
「良かったわ」
そんな私の様子を、幸せそうにヴィヴィはずっと見ていた。
幸せは、伝染するらしい。
「アンナは、ボーイフレンドのお話私にはしてくれないの?」
私が食べ終わるのを見計らい、隣でぼんやりと考え事をしていた風のティファニーさんがとんでもない事を言い出して、当惑した私の代わりにリュウがコーヒーを吹いた。
「身に覚えがありませんけど」
「ルイには話してくれるのに」
見上げた顔は、唇を尖らせて、あからさまにいじけていた。
やきもちを妬いている顔だった。
そんな顔は誰のものも見た事がないのに、すぐに分かってしまって、なんだか変な気持ちになった。
ティファニーさんの愛情が今、間違いなく私に向いている。
決して浮かれて良い質問では無かったのに、私は頬が緩んでしまった。
「ルイにも話してません。話していないから、勝手に勘違いしているんでしょう」
「でも勘違いするからには、何かあるんじゃない?」
「ただの意地悪か、八つ当たりですよ。私がティファニーさん大好きだから、どうにかしたいんです」
それを聞いたティファニーさんは一瞬目を丸くした後、満更でもなさそうな顔をして「そう」と短く返事をした。
納得してくれたし、何より否定をされなかった事に安心して、ティーカップに口を付ける。
「わっっ‼︎」
不意に、耳元で大きな声を出され、口に含んだ生温い液体が私の意思に関わらず喉を通って、むせた。
「ちょっと、何するの!」
「ルイ!」
気を抜き切っていた。
ティファニーさんと、カウンターの中から全て見ていたマスターが声を荒げた。
上機嫌で笑いながら店を出て行く犯人に、私は何も反撃出来なかった。
鼻の奥が痛み、呼吸をしたいのに咳き込みが止まらず思うようにいかない。
手が、頬が、服が、濡れてしまって頭がどんどん鈍り、体が熱く、苦しい。
たった一口分の水。
けれどもそれは、私にとって生死を分けた嫌な思い出を呼び起こすには、充分過ぎる引き金だった。
あれがただのルイだったら、今頃思い切り過ぎる悪意をぶつけていたと思う。
もう後戻りできるかどうかなど考えず、切り捨てる覚悟も無しに攻撃していたと思う。
汚い言葉が出そうになったし、声が出せないなら手が出ていたと思う。
やられたらやり返す、いつもの方法以上のことをしなければ気が済まないくらい激昂した。
ルイと仲良くし過ぎたせいで、当たり前に反撃しようとしていた。
それなのに、ルイはさっきまでの伸びきったニットを脱ぎ捨ててお洒落などしていたものだから、獰猛な感情は痛みになって私を襲っただけだった。
仲直りのデートに行くんだ。
自分の事でいっぱいいっぱいのくせに、分かってしまって出来なかった。
相手の気持ちが自分に向いていない時に、何を言っても寒いだけ。
今何を言ったって、言葉の真意は届かない。
私は、それを知っていた。
味方じゃ無いじゃない。
味方じゃ無いなら、反撃もせず、我慢と無視が出来なくちゃ。
どうせ悪気の無い当事者とは、敵になった事を砂粒程度でも自覚はしないものなのだ。
喉のつかえをなくす事に集中して、平静を装う準備をする。
平気な顔で笑って見せなければいけない、おかしな空気にしてはいけない。
大丈夫、私の頭の中をどんな感情が駆け巡ろうと、余所から見たらたった数秒だ。
焦りは更に私を苦しめたけれど、ゆっくりと背中を撫でる手が、少しずつ呼吸を整える手伝いをしてくれた。
「アンナ、大丈夫?」
ティファニーさんの声で正気に戻り、目を開くと、何故か私の手は、リュウの手を掴んでいた。
「ごめんなさい!」
慌てて離したリュウの手は真っ赤になって指の形がくっきりと白く滲み、爪をたてた所が赤紫に変色して残った。
私の手は感覚が戻り切らず、痺れ、震えて、ティファニーさんが両手で包んで撫でてくれたが、その一方の手に不自然に巻かれたタオルが震えを更に大きくする。
持っていたはずのカップは細い取手が欠けて、机の奥に追いやられていた。
何が起きたのか理解して、しにたくなった。
「ごめんなさい……」
生まれて初めて、この手で人に傷を付けてしまった。
人に敵意を持ったばかりに、私自身が誰かの敵になってしまった。
よりにもよって、商売道具でもあるリュウの腕を、こんなに優しくてきれいなティファニーさんの手を、傷付けてしまった。
リュウの瞳が、暗く不愉快そうに、そして氷のように冷たく濁っていた。
その後もしばらく、それしか言えなくて「ごめんなさい」と呟き続けた。
「リュウ、悪気は無かったんだ。許しておやり」
マスターに宥められ、リュウは私から離れて椅子に深く腰掛け直し、私はティファニーさんに引き寄せられて顔の周りを拭われた。
指先がまだ痺れていた。
けれど、爪についた赤色は、私のものではない事は確かだった。
痛かったに決まっている。
各々が、次の言葉を飲み込んで、結局私の目指した平静は保たれなかった。




