Grapefruit Moon
しんしんと降り積もる白い雪の中、車内を無駄に光らせ、甘ったるい匂いとふわふわした何かを満載した白い車が、重低音を響かせて立ち往生していた。
少し進んでは止まり、また少し進んでは止まる。
周りの車に合わせて何度かそんな事を繰り返し、ついには動かなくなった。
「だめだこりゃ」
小さな箱の中で響き渡るのはクリスマス色をしたご機嫌なジャズミックス。
運転席では車の所有者であるルイがハンドルを握るのもやめて項垂れ、後部座席のリュウは身動きひとつ取らず体育座りをして俯いていた。
「ごめんなさい」
「怒ってねえよ、バーカ」
「もういいよ」
「いいよって言うのはオレだろうが。ややこしくすんな」
すでに小一時間こんな事をしていて、流石に私にも後ろめたさが出てきた。
口を開く度に乱暴な返事とダッシュボードに飾られていた丸いぬいぐるみが飛んできて、眉間にしわを寄せた顔でそんな事を言われても、誰の気も晴れる訳が無い。
こんな事になったのも、元はと言えば初雪にはしゃぎ、後先考えずいつまでもだらだらして居た私のせいなのだから、罪悪感はそう簡単には消えてくれない。
雪が降ったと分かった時点で帰れば良かったと反省する。
「リュウ、大丈夫?」
あまりにも大人しいので心配になって後部座席を覗くと、元から白いけれどさらに不安になる白さで顔を上げたリュウは、小さく頷いて返した。
酔ったのかな。
リュウは夕食のオムライスの玉ねぎしかり、ただでさえ香りの強い野菜すら食べられないデリケートな嗅覚を持っているので、暖気と狭さによってさらに芳香力を増したこの環境は苦痛でしかないだろう。
次の言葉を発する事さえ躊躇われた。
代わりに、次にコンビニを見かけたら寄ってくれるようルイに頼んだ。
普段ならば二十分もかからない道のりに何倍もの時間を費やし、車はやっと住宅街のど真ん中にちょこんと一件建つコンビニへ到着した。
何もして居ないのに、くたくただった。
車を降り、心地よく冷えた夜風に深呼吸をしていると、うめき声を上げながら腰を鳴らすルイに手で追い払われたので、私は店内へ逃げ込んだ。
店内から外を見ると、やっと降りてきたリュウがルイの横に並び、二人で白い煙を吐いていた。
二人と合流し、店内を付いて回っていると、ドリンクコーナーでミルクティーをまとめ買いする義理の兄を見付けた。
義理の兄、つまり姉の夫で、ここは仕事場から自宅のちょうど中間地点のため居ておかしい事は無いのだが、不意打ちだったためか私は咄嗟に二人の背中に隠れてしまった。
その後も義兄はコンビニスイーツやら漫画雑誌やらを物色していた為に、気をきかされて私だけ先に外に出された。
今急に邂逅した現実世界との狭間で、私の脳内は冷静に〝そちら側〟へ切り替わり始めていた。
明日は学校がある。
だから、帰らなきゃいけない。
現実へ戻る時間は刻一刻と近付いている。
店内では、いつの間にか大量のお酒やおつまみの入ったカゴがレジに置かれて、ルイとリュウが仲良く喧嘩している所だった。
何のためにコンビニに寄ったんだっけ。
自分だけ仲間外れにされた気分になって、少し寂しかった。
「いや、そもそも逃げなくて良くない?」
改めて言うが、義兄である。
私の置かれた状況は説明せずとも分かるし、姉夫婦は私の不良行為をとやかく言うタイプでは無く、現に何度か最終のバスを乗り過ごして泊めて貰った事だってある。
これ以上ルイやリュウに迷惑をかけなくて済む。
閃いた名案にいそいそと店内に引き返そうとすると、ちょうど出て来たルイに捕まりぐるりと向きを変えられた。
「待って。やっぱり私ここまででいい」
「なんで」
「違うの。さっきの人、説得したら泊めてくれるかもしれないから」
「かも、じゃ困るだろ」
不機嫌そうに、二人がかりで車に押し込まれ、今度は私が助手席で体育座りをした。
そのまま車は十分ほど住宅街を走って、とある高校の前でリュウは降りた。
お土産をたくさんぶら下げて、気怠げに歩いて行く道筋を、ルイはしばらくヘッドライトで照らしてあげていた。
見覚えも無ければ、心当たりも無い場所だった。
「ここ?」
「オレ、誰かさんと違ってリュウの家知らねえもん。ここに置いてきゃ後は自分で帰れるってティファニーに言われた」
少しぶっきらぼうに答え、リュウが角を曲がるのを見届けて、ルイはゆっくりと車を発進させた。
「お前、転がされてんのか転がしてんのか知らねーけどさ、あんまりリュウに無理させんなよ。忠告したのに、毎週毎週。明日も仕事だし、あいつは一人になる時間でメンタル保ってんだから、取らないでやってくれ」
すぐにまた動かなくなった車の中、ルイは機嫌が悪そうにCDを変えた。
それまでのCDとは違う、ざわめきや人の声が入った録音で、ティファニーさんの歌声が聴こえてきた。
リュウは、三年前に、ティファニーさんに拾われてソレイユへやって来た。
やって来た時は『レオン』という名の、ホストだった。
それからすぐにホストは辞め、代わりにソレイユに住み込みで働くようになった。
見た目や経歴とは裏腹に、リュウは真面目で勤勉で、言われたことはなんにでも「はい」と答えて真剣に取り組み、そんな一生懸命な姿に心を打たれ、住人も従業員も客も、みんなで囲んで見守っていた。
お酒が入れば、関西弁の陽気なハーフ『レオン』になれたが、素面の彼は緊張からか笑顔がぎこちなく、人と深く関わる事を嫌ったために、心から安心して笑ってほしいと願い、胸の内に隠し背負っているものを分け合おうと、正真正銘の善意でたくさんの人がリュウを気に掛けた。
そのソレイユで、次第にリュウは壊れていった。
そして、失踪した。
すぐに見つかりはしたものの、体を壊すまで我慢を続けていた事が分かり、ティファニーさんによってソレイユを追い出されて、現在の仕事と住まいを当てがわれた。
リュウがなんにでも「はい」と答えるのは、そういう生き方をして来たから。
そうしなければ、生きて来れなかったから。
リュウから口を開き、リュウから発信して来るまで、リュウの中で準備が出来て、自分で決めて変わるまで、待ってあげなくちゃいけない。
決して深く踏み込んではいけない。
リュウがソレイユから離れていかないためには、ソレイユの外に拠り所を作り、侵さないこと。
それはソレイユでの新たなルールとなり、そのルールを定めたのは他でも無いティファニーさんだった。
だから、内緒にしなければならなかったのだ。
二度とするなと釘を刺されたのだ。
リュウのプライベートには、誰も触れてはいけない決まりだったから。
リュウの守る小さな世界の中で、何をしても許されるのは、ティファニーさんだけ。
なんでも聞いてしまう彼に、指示を出していいのはティファニーさんだけ。
そのティファニーさんに「アンナをよろしく」と頼まれたから、私の事を蔑ろに出来なかった。
今更事の重さに気付いてしまって、体中に嫌な汗をかいた。
「以上」
途中からは相槌も忘れて黙り込んだ私に、苛々し出したルイがダッシュボードに飾られたぬいぐるみを次から次へと投げて来て腕の中に溢れ、こぼれて膝に転がったストレス発散になると言う札付きのもちもちしたマスコットも、今はなんの役にも立たなかった。
私はてっきりリュウのことを、ティファニーさんの様に気まぐれに演奏するピアニストなんだと思っていた。
根無草のような、どこかふわふわしていて安定しない、目を離すとすぐに何処かへ行ってしまいそうな危なげな雰囲気は前々から感じていた。
だからこそ、会える今のうちにと思い、毎週の様に夜更かしに付き合わせてしまったのだが、それは彼にとってかなりの負担だったはずだ。
それなのに日曜日の夜にも日付が変わるまで活動させて、彼の大切なプライベートな時間と空間を平気で踏み荒らして来た。
すごく大事な事なのに、誰も教えてくれなかった。
体を壊すまで我慢をする人だもの、リュウ本人から聞ける訳ないのに。
久しぶりに、黒い影が見えた。
「しにたい」
「やめろ!縁起でも無い事言うな!」
互いに黙り込んだまま、車内の空気は重く薄くなり、相変わらず進まない車の列に混ざって苛々は最高潮だ。
ルイは途中で激しめのロックに曲を変えたが、テンションが上がったのはもちろんルイだけで、耳に刺さる大音量とお腹に響く重低音で私は具合が悪くなった。




