Let it snow
幼い頃、まだ私は両親が恋しくて、二人の車のエンジン音を二階の屋根の上から探していた記憶がある。
最初はヘッドライトが見えるまで分からなかったけれど、慣れて音の区別がつくようになるとだいぶ遠くから見つけることが出来るようになり、帰宅時間が分かることに満足していた。
それは次第に習慣になって、色んな場面で、色んな音を聞くようになった。
今や同じ家に住みながら顔を合わせる事も少ない家族の思っている事や好きな事、今の機嫌などを生活音を聞いて探っているし、教室の隅や廊下の向こうで、誰がどんな事をして何に不快を感じているのか、知っていた方が身の振り方を考えるのに便利だった。
良く聞いて考え、理解して、一度で覚えて身につけ返事をする。
人が必要としている事を、見て聞いて、感じ取り、求められたらこなす。
素知らぬ顔で、真ん中くらいに居る為に必要な事だった。
だからまさか、自分がこんなにも異質だなんて思った事など無かった。
「もう良いんじゃないかな」
十一月も折り返した、日曜日の午後六時。
口元だけは一応柔らかにしながらも、眉毛をひくつかせて、マスターが私を睨んでいる。
「もうちょっと」
「それは三時にも聞きました」
三時間は、ちょっとじゃ無い。
「ほどほどにしないと、また倒れてしまうよ」
「やだ」
「どうしてだろう、アンナが楽しんでいるのに、私はどんどん悲しい気持ちになってしまうんだ」
「やだ」
「じゃあ、一回お片付けしてくれるかい?」
宥めすかされ、目の前の鍵盤が閉じられる。
まさか本気で反抗している訳でもないし、マスターだって怒りにきた訳じゃない。
朝一番から音楽室を占拠してピアノを弾き、息抜きにギターを弾いているような私の事は、こうして定期的に呼びに来て止めないと、自分では止める事が出来ず、下手をすれば一歩も出てこないから仕方が無いのである。
ソレイユの夜の顔に出会ってから、私は、また毎週街に出るようになった。
心を弾ませ、存分に羽根を伸ばす為に。
ただこれまでと違うのは、行き先が決まっていて、安心して身を隠す場所が出来たと言う点だ。
店に降りると、ティファニーさんがにこやかに迎えてくれた。
「天岩戸が開かれたわ」
「部屋に入ったのに存在を無視されて、二十三回も『ペーパー・ムーン』だけ聴かされた」
「だってアンナが目指しているのは私とリュウの二人分を一人で再現する事なのよ。でも、さっきと曲が変わったから、もう納得したものができたみたい」
ティファニーさんは自分の隣の席を空け、私をそこに迎えると、マスターの愚痴など半分以上聞きもせず満足そうに私の髪を撫でてくれた。
「楽しかった?」
「はい、とても!」
素直に返事をすると、まだ何か言いたそうなマスターも静かにお湯を沸かし始めた。
「蜂蜜入りのレモネードティーはいかが?歌った後は特に美味しいわ。乾燥は喉の大敵なんだから」
「そうします。マスター、いただけますか?」
恭しく頭を下げてマスターは準備を進め、キッチンからは〝ごはんのにおい〟が漂い始める。
今日の夕食はオムライス。
私はデミソースよりケチャップ派で、ソーセージと多めの玉ねぎが入ったバターライスを、しっかり卵で包んだやつが好き。
もちろんルイは知っていて、一度褒めたらそればかり作るのできっと今日もそうなのだ。
舌打ちが聞こえたので包むのを失敗したかもしれない。
思わず笑うと、マスターもつられて笑っていた。
この後はココとルルがバンドの練習の為に音楽室を使うので、今日はこれでおしまい。
またしばらくピアノに触れなくなってしまうのは少し残念だったけれど、ティファニーさんはとても機嫌が良さそうだった。
態度には出さないが、私がここに来る度にどんどん伸びている音楽室の占領時間を、ティファニーさんはあまり良く思って居なかった。
前科があるので、水分は定期的に取り、休息を挟まなければいけない。
せっかく来たなら遊んで欲しい、たまには出掛けたい、つまんない。
重なる時間を多く過ごせば過ごす程、わざとチラつかせる言葉の裏側をも読めるようになって来た。
直接文句を言わないのは、歌い方だけで無く声の質までそっくりそのまま真似してしまう私を面白がって、弾き語りなどと自分で言い出してしまったからだろう。
次に来る時には一緒にお出掛けをする約束をすると、ティファニーさんはにこにこしながらレジの横の小さなカレンダーに勝手に印を書き込んだ。
ちょうどその時、店のドアが開く音がして目を向けると、全身黒尽くめの大男が入ってきた。
「おかえり、リュウ」
「お疲れ様。ありがとう」
「はい」
見た目の怪しさに反して応えた声は震えて小さく、厳重な装備を外しながらふるふると頭を振って髪を逆立てる様子は犬みたいだ。
一枚脱ぐたび小さくなって、ぱたぱたと小さな水の粒が周囲に飛んだ。
「アンナ、雪積もってるで」
目で合図をされ、慌てて窓に張り付くと、外はすでにリュウによって雪をかかれた店先を除いて、歩道の隅や街灯の上には柔らかそうな白い塊がこんもりと乗っていた。
「わあ!」
足音だけだった冬がすっかりやって来て、私はたちまち嬉しくなった。
私は夏と雨は大嫌いだけど、冬の、特に雪の日は大好きなのだ。
寒さは着れば凌げるし、真っ白い街の中は静かで心地良い。
「マスター」
「そこで弾いたらいい」
雪の曲が次々と頭に浮かんだので、マスターに相談がてら甘えた声を出してみたら、予想外の返事が返って来た。
そこ、とは、ここだ。
ステージの、憧れの真っ白なピアノの事だ。
優しく微笑み、手で促す。
見張るには丁度よく、間もなく出来上がる夕食を放置するほど非道な私ではない。
「やだ」
それでも私は拒否をした。
ここは、聖域。
まだ私は登れない。
それは自分が一番良く分かっている。
「さっきからヤダヤダって、そればかり。頑固な所まで似てきてしまった」
「そうね。マスター、そろそろツリーを飾りましょう。ちょうど良い時期じゃない?」
マスターは半ば本気でティファニーさんを見たが、ここでもさらりと流され、やれやれと首を振った。
当の本人は自分が頑固なのだと遠回しに言われた事も気付かずに、まだカレンダーを眺めていた。
「アンナ、もうクリスマスの予定はあるの?」
「無いです」
「今年はイブが土曜日よ。金曜日は祝日だから、お泊まりの準備をしていらっしゃい」
「いいんですか?」
嬉しいお誘いに胸が跳ねる。
「その日は音楽室を占領する事は出来ないと思うけれど、それでも良いならね。毎年家族でパーティーするの。楽しいわよ」
「それは、私が居ても?」
「もちろん。では、パーティでは一曲頼むよ」
それは、私の腕がマスターのお眼鏡に叶ったという、この上ない祝福の一言だった。
毎年ソレイユでは、クリスマスに店を貸し切りにして盛大なパーティーを催す。
そこには住人と現在働いている従業員はもちろん、元々働いて居た人間やその家族、出入りしている演奏者達、時に常連客まで集まり、それぞれ持ち寄った酒と料理とプレゼントで、日付が変わるまで飲めや歌えやの大騒ぎだそうだ。
今年はクリスマスが土日に被り、飲食店としては掻き入れ時の年末の週末だと言うのに、その金土日の三日間共にソレイユは店休を取ってパーティーに全力を注ぐ。
私はどうやらそれに誘われたらしい。
「猫の手よりは使えるだろ」
「みんなでおめかししてご馳走食べるのよ。楽しそうでしょう?」
説明してくれたルイとティファニーさんには若干の温度差があったが、私の期待はどんどん膨らんでいった。
正直な話、私はこれまでクリスマスと言うものにあまり深く触れた事がない。
学校行事などでそこそこの知識はあったが、両親が共に仕事熱心な我が家では、わざわざそういったイベント事を積極的に企画して喜ぶような家庭では無かった。
私が物心つく頃にはとうに兄や姉はサンタクロースを信じる年頃では無かったし、ケーキなどの甘い物を食べるのは私と母くらいで、必要性も感じ無かったのだろう。
幼少期にそんな小さな範囲での常識を身に付けてしまったばかりに、私も毎年訪れるこの世間の一大イベントに、あまり関心が無かった。
言い換えれば、楽しみ方を知らなかったのである。
知らない事は怖い事。
慣れない事はしない主義だった。
しかし今日みたいな何でもない日にもこれだけ休日を満喫出来るのだから、ソレイユで過ごすクリスマスはさぞ素晴らしいものになるだろう。
ここでなら、怖いものなど何も無い。
夕食の後は、リュウがステージで耳に優しい冬の曲をいくつも弾いてくれた。
楽しそうな横顔を眺めて聴き入っていると、時々確認するようにこちらを向く。
今一生懸命になって指先に齧り付かなくても、後できちんと教えてくれる事はちゃんと分かっていたので、私はのんびりと楽しむ事が出来た。
ソレイユに毎週通うようになって、帰りはいつもリュウが送ってくれていた。
あれ以来、雨に降られる事もなく、私は毎回一度リュウの家に寄り、ピアノを一時間習って帰っている。
ソレイユの人々は、私が瞬間記憶能力と絶対音感を持つ超人だと信じて疑わないが、私は一度見て聞けば、指の運び方とそこの音を記憶することは出来ても、それはただ真似をして必死になぞっているだけで、気持ちが付いていかない。
そもそも絶対音感を持っていたところで、音楽の教養が無い私にはその音がどこの何て音なのか、説明は出来ないのだ。
そんな私のデタラメな付け焼き刃を、リュウは形を整え、中身をつけて直してくれる。
そして不思議な事に、リュウの手にかかれば本当に一回でほぼ完璧に覚えられてしまうのだった。
全てにおいて感覚で動いているルイや、すでに1を知っている私に0を教えたいエルメスではなく、リュウの教え方が一番私には合っていた。
一時間で終わらせるのは、私の方がそれ以上活動出来ないからだ。
夜の十二時を越えると、私の機能は停止してしまう。
理由はいまいちわからないが、ソレイユに来てからのことなので、ここでの生活が何か関係しているんだろうと思っている。
これまではルーティンで寝床について、そこからも尚家中の物音に聞き耳をたてていたので、眠りは浅い方だったのに、今ではまるで電池の切れたおもちゃみたいに、急に動かなくなる。
まさかこんな所でと、頭のどこかでは理性が戦っていても、それが人の家の玄関先だろうがピアノの前だろうがお構い無しだった。
しかも一度寝るとなかなか起きない。
充電が終わって、自ら再起動するまで、眠り続ける。
もしもバイクに乗っている間にそんな事になったら。
少し目を離している間に床に転がって居たら。
そう考えるだけで恐ろしいので、リュウは必ず私が日付をまたぐ前に帰宅出来るように送ってくれる。
実際に二、三回心臓に悪い事をしたので致し方ない。
若干厄介ではあるものの、よく眠るようになった私は、これまで以上に健康体だった。
雪は好きだが、今日は早く家路につかなければ。
分かっているのに気が進まず、ちんたら帰り支度をしていると、いつでも出られそうな格好のリュウがそわそわしながら覗きに来た。
すぐそこまででも、送ってくれる気はあるらしいことを汲み取って、少しだけやる気を出す。
「バスも電車も止まった。道混むから、もう出るぞ」
しかし、しばらくして、いざ私を呼びに来たのはルイだった。




