How High the Moon
お腹をいっぱいにした所で本来の目的を思い出し、いそいそと音楽室へ向かうと、階段を登り切らないうちから音楽室に人の気配を感じた。
気配と呼ぶにはちっとも可愛げの無い、乱暴な音の塊だった。
分厚いドアを二枚挟んでいる筈なのに、小さな箱の中に閉じ込められ外に出たがる音たちは、今にも溢れてきそうだ。
音がおさまるのを待ってドアを開けると、体の何倍もの面積を占めるドラムセットの真ん中で、おでこ丸出しのルイが息を荒げていた。
「大丈夫?」
びしょ濡れのシャツの裾で無意味に汗を拭いながら、顔を真っ赤にしている様子を見て、つい心配になって声をかけた。
「おう」
一度では気付かなかったくせに、名前を呼んだら顔を上げて明るく手を上げてみせたので、元気ではあるようだ。
私が何をしに来たか知っていて、ルイは顎でギターをさした。
そしてさっきとは比べ物にならないくらい小さく、シャカシャカと囁くような音でドラムが鳴る。
「もっと頻繁に来いよ。置いてけぼりのほったらかしじゃあ、可哀想だろ」
「来れなかったの。色々あって。ごめんねルイ」
「オレじゃねえ。まあ、おかげで中も外も上から下までピッカピカになったから、そいつにとっては良かったかもな。これに懲りてもう武器にはすんなよ」
「してない」
「治る傷で良かったじゃんか」
誰のことなのか、なんのことなのか、わからないふりをして黙り込むと、ルイは手を止めてこちらを見やり、フンッと鼻をならして皮肉っぽく笑った。
「今度はすぐ来いよ。ここには悪い奴は居ねーから」
「知ってるよ」
「ギターに言ってんだよ」
ルイはどうやら、ティファニーさん寄りだった。
不器用だけど、優しい人だ。
ドラムを習っているうちにリュウとティファニーさんがやって来て、リュウはまたギターを弾いて見せてくれた。
ティファニーさんが歌ってくれ、ルイはそれが何であってもすぐに合わせて自分も楽しんでいた。
音楽を身近に置き、黒い粒に音を感じる人達は、私とは全く感性が違う。
紙きれ一枚でメロディーを理解し、口ずさんだハミングに伴奏がつく。
原曲と違うアレンジにアレンジが加わり、新しい曲が出来上がる。
真似しか出来ない私には全く理解出来ない事を平然とこなす。
ギターを抱えたまま見ているだけの私にイライラしてきたルイが突っかかって来たが、音楽の基礎は学校の授業以上の事は身につけていない事や、今見ながら覚えている所だと話したら、また手に負えなそうな顔をしていた。
それが軽蔑の眼差しでない事は覚えたし、教えてもらった通りの「Fly me to the moon」を弾き始めたら、リュウがすぐにピアノを乗せてくれた。
そこに慌てたルイのドラムと、ティファニーさんの歌が嬉しそうに重なる。
最後の方でティファニーさんが少しアレンジを加えたが、私がずっと声を追いかけて歌い、その動きに注視していた事を分かっていて指示を出してくれたので、綺麗に合わせる事もできた。
新しい一曲が今度は私も参加して生まれ、ティファニーさんにも沢山褒められて、今日も大変気持ちよく過ごすことができた。
「弾き語りをやってみる?なんなら私がギャラを払ったっていいからステージに立ちましょうよ」
ティファニーさんのそんな一言がきっかけで、私はそこから音楽室やら女子会の輪の中やらに居座って、またご飯をご馳走になって、ソレイユが夜の顔を見せるまで、音楽とお喋りでいっぱいの一日を過ごした。
辺りが暗くなってくる頃、ソレイユは急に表情を変える。
昼間は閉ざされているカウンターの奥の棚から木戸が外され、色とりどりのお酒のボトルや磨き上げられたグラスが整列する。
薄暗い店内と、古いレコードの音、マスターのふかすパイプの甘い匂い。
私の知らなかった、大人の世界。
ひとりカウンター席の隅っこで、その雰囲気に圧倒されながらただきちんと座っていると、エルメスが背の高いお洒落なグラスに薄黄色いカクテルを作って出してくれた。
「君のためのカクテル」などと格好付けて言うものだから、意を決して舐めてみたのだが、なんて事はない、ただのミックスジュースだった。
ほろ苦さに騙されそうになるけれど、甘酸っぱくて、夏っぽい。
思い切り背伸びをしている癖に中身は子供。
確かに私によく似合う。
「意地悪ね」
「お酒の方が良かった?」
心の内を読もうともせず、エルメスはいつも通り薄く笑って嘯いた。
レコードが止み、客の流れも落ち着いた頃、支度を整えたティファニーさんがやって来た。
真っ赤なドレスと背の高いエスコートがよく似合い、華やかなオーラが言葉の代わりに彼女の存在を知らせ、感嘆のため息がぐっと店の空気を濃くする。
歩くだけで拍手を送られ、ステージに辿り着く頃には、私までうっとりとその様子を眺める他無い程に、いろんなものが高まっていた。
「まずは、一度私のステージを観て。今夜はアンナの為に歌うわ」
そう言ってくれたティファニーさんの言葉に甘え、気を抜き切ってのんびりとご機嫌な一日を過ごした事に、少し後悔して身構える。
背筋が自然と伸びてしまうくらい、体にビリビリと何かが伝わってくる。
二階席のロフト部分にもささやかな光が当たり、ルルとココがそれぞれ楽器を構えて立っていた。
しゃらしゃらとしたあの波のような音がするので、見えないけれど多分ルイも居るんだろう。
グランドピアノには、ワインレッドのジャケットでしっかりと粧し込んだリュウが構えている。
完成されたショータイムの始まり。
私の覚えた曲、好きな映画の曲、聞いたことがある曲、お姫様の曲、ティファニーさんが好きで私に覚えて欲しい曲、全て私の為の選曲だった。
目が離せなかった。
身体中の血が湧き上がる感覚と、ざわざわと、ふつふつと燃え上がるような感情に、呼吸をするのも忘れてしまう。
全ての曲を終え、ティファニーさんが私にキスを投げてくれて、私はそれに、音の無い拍手で応えた。
ただ見ていただけなのに、もうその程度しか出来ないくらい精根使い果たしてしまった。
「どうだった?」
「すごく、格好良かった」
真っ先に降りて来たココが私に感想を求めたが、足りない頭が露見するだけで気の利いた事も言えない。
それでも本人達は喜んで、私から離れて行った。
頭の中がふわふわして、興奮も冷めぬまま、私はバスで帰宅した。
感動した。
多分この感情を、人はそう表現するのだろうと思った。
*****
バスに揺られて、考える。
あそこに私は立てるのだろうか?
生まれて初めて聴いた生バンドのジャズは私の記憶に深く深く刻み込まれた。
刻み込むと言うその字の通り、それはまるで傷のように、私の心をじわじわと痛め、痛みは次第に熱に変わり、私の中に火を付ける。
〝腕を買われる〟という言葉の意味を本当に知ったのは、多分今日だろう。
全てはもう繋がってしまった。
私の日常は瞬く間に変わり、これまでの私の普通は今や通用しない。
目指す所も、取り巻く人も、自ら望んでぎゅっと範囲を狭めてしまった。
紛れ込む為に、繋がり続ける為に、私はそこに溶け込みその一部にならなければいけない。
ここまで来いと、見せられたのだ。
「意地悪ね。みんな」
しかし、不思議と出来ない気はしなかった。
もう、私の中では準備が整い始めていた。
そこは、私の願いを叶える場所。
欲しいものは何でも手に入り、やりたい事が次から次へと浮かんで来る。
溢れ出す希望に、止まぬ期待に、感情の波が大きく揺さぶられる。
欲しくて欲しくてたまらなかった、一番欲しかったのにどこにも無かった、そんな物さえ、ここでは容易に手に入る。
切り取られて遠く離れていた筈の美しい絵画のような世界が、手を伸ばせば届く所にあると、確かに感じた。
一晩経ってもなにもさめない。
私は朝から気を張って、バスに飛び乗りソレイユのドアを潜った。
「おはようございます」
「おはよう、アンナ」




