LA・LA・LA LOVESONG
リュウの家には、通された部屋の他にもうひとつ部屋があった。
部屋というか、元々大きな一部屋だった場所に無理矢理屋外用の物置を押し込んだみたいな、おかしな場所があった。
その奇妙な空間を私が横目で観察していると、まるで私の視線に従ったようにリュウがその扉を開けて、中を見せてくれた。
扉の奥には、ピアノがあった。
家庭用とでも言えば良いか、しかしちゃんと椅子もペダルもあって、鍵盤を守るカバーの上には楽譜とヘッドホンが無造作に置かれている。
手前の部屋に比べたらだいぶ狭いのに、そこには物が詰め込まれていて、人間味があふれていた。
小さな本棚を埋め尽くす紙の束、古いけれど立派なオーディオセットと、積み上げられたCDたち。
お気に入りばかりを詰め込んだみたいなそこは、彼専用の音楽室のようだ。
「ピアノも弾けるの?」
「うん。ていうか、こっちのが本業。ああそうか、この間はアンナの歌聴いてたせいで、弾けへんかったんや。弾く?」
微笑みながら、すぐ私のために椅子を準備してくれた。
腰掛けると、座るとちょうどよく見える目の高さに、一枚の写真が飾られていたことに気が付いた。
明るい栗色のロングヘアの外国人女性が、丸々としたくせ毛の赤ちゃんを抱いて笑っている。
色が白く、小柄で可愛らしい雰囲気の、胸の大きい美人だった。
「この人知っとるん?」
鍵盤よりもそちらに気を取られてしまった私を見て、リュウが控えめに尋ねて来た。
「きれいな人ね」
「これ、おかん」
素直に感想を述べたら、驚きの返答に間抜けな声が出た。
こんなにも「おかん」という響きが似合わない人を初めて見たというのもあるが、それ以上に似ていなかったので際どい妄想をしかけていた。
何度も写真とリュウとを見比べていたら、照れて赤ちゃんの方は隠されてしまったけれど、よく見れば二人とも揃って美しい、青みがかったグレーの瞳をしていた。
リュウの象徴でもあるその瞳は、お母さまからの由来らしい。
ではそれ以外のこの端正な顔立ちはどこから来たんだと考えると、どう考えたってお父さまが美青年だったに違いなかった。
リュウほとんどのパーツは、日本人から出来ているのか。
それともお父さまも外国人なのだろうか。
関西弁の?
なんだか不思議な感覚だった。
「おかん、ピアニストやってん。せやから俺もピアノ好きで。マスターは、下手くそでも好きでやってる人間を評価してくれる人やから、こんな俺の腕でも気に入って買うてくれたお陰で、ソレイユに出入りさせて貰うてる」
なるほど、住んでいる訳でも無いのに店の表も裏も出入りして、時に用事を仰せつかっているリュウは、ソレイユでもなかなか内部に近い人間なのではないかと思っていたが、単にリュウにも役割や仕事があって、本人もソレイユが気に入っているようだ。
他にもそういう働き方をしている人は沢山居るらしいので、胸の中に小さな希望が芽生えた。
ティファニーさんも、あの美しい歌声の持ち主である訳だし、ただお姫様のように生活しているように見せかけて、あそこに住む権利と理由がちゃんとあったのだ。
「リュウが好きな歌」をリクエストしたら、リュウは控えめな音量でティファニーさんが教えてくれたあの曲を弾き始めた。
覚えたい気持ちが強くあった私は食い入るように指先を見つめ、そしてリュウが弾き終えると、同じように繰り返した。
自信も、でも不安も無く、ただ静かに、確かめるように目に焼き付けた動きをそのまま追う。
「これ、今見て覚えた?」
「うん。この曲は今日覚えたばかりだし、ギターでならもう弾ける。でも、すごい。マスターもだけど、音楽をやってる人は、私がこれを見て覚えた事が分かるのね」
リュウが黙ってしまったので見上げると、ぽかんと口を開けたまま止まっていた。
そういえば今日、ルイとティファニーさんは、素直に褒めてくれなかった。
それを思い出してしまって、視線が下がる。
「ほんまに天才なんやなあ」
暫く無言を貫いた後、リュウはきらきらした目で賞賛の言葉をくれた。
「今のは、聴かせるために、格好つけてアレンジめっちゃ入れてん。せやのに、そのまんま弾かれてびっくりしたわ。俺が暗譜してんのは、暗譜するほど弾いてるやからで?それも必死で!」
さっきまでとは打って変わって、興奮冷めやらぬ様子で高々と笑い、リュウは私をピアノに向かわせた。
目と耳で覚える私のために、もう音を静める事もしなかった。
「よう見てて」
特等席に私を座らせて、すぐに長い指が動き出す。
覚えたい気持ちもあったせいか、これまでよりもずっと素直に音と動きが体に馴染み、まるで私も震える空気の一部になったように溶け込む。
ギターで聞くよりずっと音が分かりやすくて、半分弾いて代わってもらい、すぐに真似して弾いて見せたら、また違う言葉で褒めて笑っていた。
何度も少しずつ変えて弾くのを見ては、それを真似して繰り返す。
その度に、リュウは散々誉めそやす。
「鍵かけてしまっとく、成る程なあ」
それは、いつかティファニーさんが言っていた冗談だ。
「今日変に帰されたやろ?あれ気にせんでええよ。マスターもティファニーも、アンナのこと本気で隠したかったんや。こんな〝才能〟俺やって欲しいもんなあ」
ティファニーさんもルイも、今日私がやってみせた事を決して呆れていた訳では無かったのだと、正直なリュウの反応に教えられた。
二人とも、得体の知れない私の能力に、ただびっくりしていただけなんだ。
私の〝これ〟が〝才能〟であり、ソレイユでさえも通用すること。
その奇跡に、私も興奮していた。
生まれた時からピアノが友達。
彼はそういう環境に生まれた。
出来ない時もあったろう、出来ることが当たり前で、出来なくてはいけないと焦った事もあったろうに、お母さんやマスターが上手に褒めて上手に伸ばし、心の底から楽しいと思って音楽と向き合って来たから、今こうして「誰か」に返す事が出来るのだ。
優しい人、素敵な人、そしてなんて心の清らかな人。
知らないと言うのは、本当に怖い事だ。
危うくあらぬ疑いをかける所だった。
安心して、気が抜けて、体がぽかぽか温かくなった。
ひとつひとつは小さいけれど、色んなものが繋がって、私の日常を変えていく。
世界が変わる、そんな予感がした。
ずっとしたかったお礼と謝罪は済んだし、彼が私を探して待つ理由も無くなったけれど、新しくソレイユへ行く口実が出来た。
目に見えたり、見えなかったりしながら、それでも確かに「切れることのない繋がり」を感じた。
目を閉じても、この夢はきっと終わらない。




